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珠幻城

 過呼吸を止めるためとはいえ、接吻の他にもやり方はあったのではないか。タイランは、文句の一つでも言ってやろうと思った。しかし、身なりは小綺麗に整えられており、ドウメキによって世話を焼かれたのは明白だった。  そんな相手に、どう文句をつけたらいいのかわからない。それに、タイランはドウメキから言われたのだ。まるでこちらが気にしすぎだと言わんばかりに。 『治療だ。何、お前も経験くらいあるだろう。あれを接吻ととるのはお前次第だがな』 『当たり前だろう‼︎ お……、俺だって別に気にしてなんかいないさ‼︎』 『ふむ。お前が器のでかい男で助かった。何、俺は最初からわかっていたさ』  まさに売り言葉に買い言葉とはこのことで、タイランはまんまとドウメキの口車にのせられたというわけだ。要するに、文句をつける前に退路を断たれたのである。  そうして、タイランは身の内に秘めた蟠りを抱えたまま一晩過ごしてしまった。接吻のひとつくらい。ドウメキがそう言ったとしても、タイランにとっては初めての接吻であったのだ。  眠れぬ夜は、枕が変わったことだけではない。妖魔とはいえ男に唇を奪われのだ。それをなし崩しに受け入れてしまったことがしゃくであった。 「ドウメキ」  頭のもたつく感覚は、昨晩の触れ合いによる余韻のようで気が滅入る。  タイランが不機嫌に名を呼んだ白髪の城主は、広間を支える柱の一本を背もたれにして、昨晩は雲海で見えなかった山の景色を堪能している。  磨き上げられた床を、素足で踏みつけるのは気が引けた。しかし履いていた足袋もない。タイランの着ていた衣服は知らぬ間に脱がされ、寝巻きがわりの中衣のみ。  着ていた服のことやら、この場所のことやら。聞かねばならないことは山積していた。 「おい、ドウメキ」 「なんだ、もっと声を張ればいいだろうに」 「……話がしたい。構わないだろうか」  タイランの硬い口ぶりに、ドウメキは少しばかし表情を曇らせる。そのまま目線を外されると、ドウメキはそっと魏界山を見つめた。 「今日は雨だ。出ていくなら、明日にしておけ」 「雨が降るのか?」 「降るさ、山の天気は変わりやすい」  そう言って、ドウメキは懐から煙管を取り出した。隣に名も知らぬ男がいるというのに、随分と呑気なものだ。 (そういえば、こいつは俺に誰かを重ねていたか)  琥珀の瞳がドウメキを映す。形のいい唇から吐き出された煙が、細くゆっくりと空へ立ち昇っていく。タイランは、煙を目で追うようにして山へと顔を向けた。   「風雨にさらされて、こんな形になりやがった。見栄えはいいが、住みづらくて敵わないと言っていたな」 「……それは、お前の知っている俺がか」 「少し話をしよう。何、身構えるほど期待をするな。昨日のようなことはしないさ」 「なっ、き、期待などしていない‼︎」  揶揄うように、昨日のことを引き合いに出され、愚かにも意識してしまった。  そんなタイランの様子を前に、ドウメキは口元を緩めて笑った。  作り物のように整った顔は、笑えば随分とあどけなくみえる。  隣にならべと言うように己の横を指差したドウメキに、タイランは渋々といった様子を装うと、少しの距離を置いてドウメキの隣に腰掛けた。   「名前はあるのか」 「タイラン」 「そうか、……いい名前だな」  ドウメキの言葉に、タイランは視線だけで返した。  誰かを重ねるのは勝手だが、感傷に浸られる身にもなってくれと思ったのだ。  ドウメキは、少し面倒くさい。助けてくれた手前下手なことは言わないが、身に覚えもない過去をタイランのものだというように、繰り返し話されるのは気が滅入る。 「過去は知らん。俺はお前の守城でもないし、誰かでもない。タイランはタイランだ」 「ああ、そのようだ。俺の守城はこんなに捻くれてはいなかったしな」 「……」 「タイランはなんで、ここにきたんだ」  ドウメキの言葉に、タイランは口を閉じた。苛立っていたのもあるが、その問いかけにどう答えようか迷いもしたのだ。  馬鹿正直に、新たな人生を手に入れるためだというのか。しかしそれでは、今一つ物足りない。  言いつけられた命令をこなしにきたと言えば、ここから出る口実としても自然だろう。   「九魄ヤンレイ様からの命だ。内容までは言わん」 「九魄……」  何かを確かめるような口ぶりに、思わずドウメキへと視線を向けた。  こんな山間だから、情報が届かないのも無理はないだろう。名のある守城は、身に宿す妖魔の名前をつけて呼ぶ。それでも、ヤンレイではなく妖魔に反応を示す姿に違和感を感じた。 「嘉稜国の誇る、若き守城が操る妖魔だ。知らないのも無理はない」 「そうか、もうそんな時期になったのか」 「おい、人の話を聞いているのか」  ふ、と息の抜けるような声を漏らして、ドウメキは笑った。どこを見ているのだろう。紅い瞳はこちらを見ようともしない。  タイランがここにいる経緯についての説明を、まだ受けてはいない。  逡巡しながらも、ドウメキの肩に触れた。  そんな行動に出た己自身にも、タイランは驚いていた。もし文句を言われたら、服にホコリがついていたと誤魔化せばいい。  そんな思いとは別に、ドウメキは一瞬だけタイランを見たが、すぐに視線は山の景色へともどされた。 「長い時を過ごしたものだ」 「は」 「こちらの話だ。何、お前は今の時間を楽しめばいいだろう」 「何を言っている?」  ドウメキの言葉に、タイランは戸惑った。昨日の今日で、この男が人の話を聞かないということは十二分に理解している。恩もあるので下手には出ているが、脈絡のない話にはどう言う顔で付き合えばいいのかわからない。   「そうさな、いいことを思いついた」 「あ、おい!」 「喰録、喰録はいないか!」 「待て、あれを呼ぶのか、っ」  まるで、急ぎの用でも思い出したかのように、ドウメキは声を上げた。  いつの間にかしっかりと握られた手は逃げ場を失い、タイランは状況も飲み込めぬまま、手を引かれ立ち上がる。  ドウメキが、昨日の妖魔を呼び出した。恐怖を煽るあの姿が再び現れるのかと身構えれば、タイランの前に現れたのは全く別の妖魔のようだった。 「なんだ、またその姿に戻ったのか。」  ドウメキの声に応えるように姿を現した喰録は、ぽてりとした可愛らしい姿に変わっていた。  小さな豚のような生き物に、羽が生えているようにも見える。それが四足を揃えてタイランを見上げていた。   「もう城主の言うことは信じない。私は、私のために好きなようにする」 「なんだ、まだ根に持っているのか。仕方が無いだろう、その姿では守城を運べないのだから」 「……俺を置いて話を進めるな」  ドウメキの口にした、運べないという言葉に引っかかった。タイランは掴まれた手を振り払うようにして後ずさる。あまりにも露骨すぎたせいだろうか、手を払われたドウメキの表情は渋いものに変わる。   「なんだ、こちらも不機嫌か」 「運ぶとは何だ。どういう意図があって俺を連れ出した」 「言っておくが、喰録がタイランを助けなかったら崖から落ちて死んでいたぞ」  ドウメキの紅い瞳が、タイランを真っすぐに射抜く。  容姿が人だからか、この距離を許してしまった。世話を焼いたのも、きっと目的があるに違いない。  琥珀の瞳に警戒を宿す。そんなタイランの様子に、ドウメキは喰録と顔を見合わせた。 「だから言ったろう。城主には説明が足りないのだ」 「わからないのなら仕方がないだろう」 「仕方がないで終わらすなら、もう放っておいてやれ」 「それはできない」 「ならば説明をしろ。人は、我らと刻む時が違うことを忘れたか」  タイランを蚊帳の外にして、喰録とドウメキは話し込んでいた。どうやら喰録の方が理性的らしい。訳のわからぬ状況が続くことほど苦痛を感じることはない。  タイランは、怯えを隠すように胸を張る。これ以上なめられてはいけないだろうと腹に力を入れると、くっと真剣な顔をして声を上げた。 「お前のい」 「話を聞いていただろう、俺はお前を放つことができない。そう言った理由があるのだ。承伏しろ」  お前の意図は、と口にしかけたタイランに、ドウメキが被せるように宣う。何を言われたのかを、脳が理解するまでにしばしの時間を要した。 「はああ……!?」 「まあ悪いようにはしない。ついてこい、お前にこの城を案内してやろう」 「待て、何がどうしてそういう流れになった!」 「俺がそのほうが良いと思った。人間は物事を決めかねるきらいがあるからな。俺が決めてやったまでのこと」  それも、随分と昔にお前が言ったのではなかったか。  口元をにいと吊り上げ、意地の悪い笑みを浮かべる。ドウメキの不遜な態度を前に、タイランはひくりと口元を震わせた。  突拍子もないことばかり言いやがって。思わず口汚い言葉が出そうになった己に、タイランは驚いた。思えばここまで他人に対して腹が立つというのも久しく感じていなかったからだ。  人の顔色を気にするように生きていたタイランが、振り回されている。目の前の妖魔の男に、不本意にもだ。    差し出されたドウメキの手のひらを払いのける。そんな言い方をされて、誰が繋いでやるかと思ったのだ。  しかし、弾かれた手のひらを気にもせず、ドウメキは反応を楽しむように口元に笑みを浮かべたままであった。 (妖魔のくせに、なんて人間臭い表情をするのだ)  そもそも人型の妖魔など、タイランは九魄しか見たことがない。故に、人型妖魔の基準は表情を動かさない冷静な九魄である。だからこそ、ドウメキという妖魔がこんなにも人間臭く生きるのを前に戸惑いを覚えたのだろう。   「ようこそ珠幻城(しゅげんじょう)へ。お前の生きた世界はここが最初ぞ」  猩々緋を纏う、黒い深衣が広がった。ドウメキが歓迎するように両腕を広げたのだ。  うすら曇る灰色の景色を背景に、不思議と既知感を覚えるその姿は、タイランの瞳の奥に鮮明に刻まれた。

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