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第1章 死にかけの嘱託

      1  どうせなら雪がよかった。  降ってくる途中で予断を許さないほどの不都合な事象が発生してフットワーク軽く雨に化けたのだろう。そうゆう悪徳な雨だった。  店長からメール。  五時になったら閉めていい。要するに、  暗くなるまでここにいろということ。閉店時刻が一時間ほど早まる。  雨脚が強くなってくる。アスファルトくんはさぞ痛いだろう。  立地条件がメインストリートから多少外れているため、カウンタの内側にいる僕は人の往来が窺えない。  壁の時計を見遣る。長針が動く。  エプロンを外そうとしたら自動ドアが開いた。雨の滴る黒いものが僕の視界に飛び込んでくる。 「いらっしゃいませ」と言いつつエプロンを付け直す。  客らしき少年は肩で息をしている。  間違えて入店してしまった場違いの客のように思えた。  ここの客層は圧倒的に女性。子連れやカップルを除けば男が単体で来ることは少ない。しかし皆無というわけではない。  こちらとすれば気に入ってもらえれば性別など瑣末な事柄なので、僕はもう一度声を掛けてみた。  無反応。  もしかしたら彼は、  この店の、  客、  ではないのかもしれない。  僕はタオルを摑んでカウンタから出る。 「傘ないの?」  彼の着ている服がようやくわかる。そのくらい徹底的にずぶ濡れだったのだ。  真っ黒の学ラン。中学生だろうか。  彼は入り口のマットから動こうとしない。  僕は彼の髪を拭いながら壁の時計を確認した。過ぎてる。  雨に濡れた「本日のメニュー」を店内に移動させて、  入り口のプレートを裏返す。また明日、という意味。  ブラインドを下ろしたらますます店内が暗くなった。  雨の音が遠くなる。  イートイン用の椅子に彼を座らせる。ビニールなのであとで拭けばいい。  彼の口が動いた気がした。  僕は彼の口に耳を寄せる。掠れた声。  た、すけ、て。  僕にはそう聞こえた。       2  勝手に服を脱がせる。ずぶ濡れのまま風邪を引く。  どちらも間違いのように思える。  隠し四番の存在する意地悪クイズみたいに。  店長に見られると厄介なので彼をアパートに連れてきた。ここでいう厄介は単に僕が説明を放棄しただけのことであって、店長が殊に国家権力を贔屓にしているだとか世間体に人一倍こだわるだとかそのような意味ではない。  幸い僕の部屋は床が絨毯ではないので彼を座らせることが出来た。  ケトルが笛を吹く。  客人にお茶を淹れるつもりはない。単に僕が食べるカップラーメンの湯を沸かした。  彼には特大のバスタオルを与えてある。なにせ意志ある石のように動かないのだからそうするほかない。  食べ終わっても彼は最初の姿勢を保ったままだった。  僕はどちらかというと気が長いほうだけど、さすがに今回はお手上げだ。浴槽に湯を溜めて彼の腕を引っ張る。  どうせ濡れている。服のまま浴室に放り込んだ。  彼の身体はこれでもかといわんばかりに冷え切っている。  僕はジーンズとシャツの裾を捲って彼の頭からざんぶり湯をかけた。着衣水泳よりひどい。 「お節介かもしれないけど我慢してね」  上着はたっぷりと雨水を吸っており、人類未知の物質のようになっている。何を語りかけても無反応だった彼だが、僕が肩に手を掛けた途端、  電気が通ったかのようにびくんと痙攣した。  浴槽にしがみつく。がたがたと震える。 「ごめん。でもきみ」  彼は小さな声で何かを唱えているようだったが僕には聞こえない。おまけに浴室内で反響してさらに聞き取りにくい。たぶん僕以外の人間に話しかけているのだろう。  僕はいったん浴室を出る。しばらくそこで見守っていた。  時間にしたら十分弱。  彼はゆっくりと浴槽から離れ、服を脱ぎ始める。異様に蒼白い背中。  僕は浴室のドアを閉める。  面白くもないテレビを遠巻きに眺めていたら、  浴室のドアが開いた。  僕はさきほど彼に与えた特大バスタオルを渡す。  彼は消え入りそうな声でお礼を言ってくれたようだった。おおきに、と。  着替えに充てられそうなサイズの服が見当たらなくて、僕は困った。買いに行くにも彼を一人っきりにしておけない。  彼にはそう思わせるなにかがある。部屋に連れてきてしまったのもその延長だ。  とりあえずドライヤで髪を乾かして炬燵に押し込んだ。 「服の好みはある?」  彼の顔が布団からのぞく。僕はそこで初めて彼の顔を見た。  しかし妙に前髪が長いため彼がどこを見ているのかわからない。眼も合わない。  例の如く特に返答がないので、僕は極力暖かそうな服を探した。  彼がのそのそと炬燵から出てくる。  僕は眼を逸らす。あくまで自然に。  残像は白というより蒼。  いつまで経っても衣擦れの音がしない。僕は気づかないふりをしてテキストを開く。初めて開いたせいかかなり不自然。  閉じるのはさらに不自然。 「サイズ合わなくて悪いけど」  彼は首を振る。 「洗濯しとこうか。浴室乾燥あるから明日までには乾くよ」  僕は浴室に行って彼の服を拾い上げる。  雨水とお湯を吸って尋常ではない重さだった。ネットに入れて洗濯機に放り込む。洗剤と一緒に。 「僕はおカネ払わないよ。それとも無償奉仕?」  彼は立ち尽くしている。  僕との距離は徐々に縮まる。僕が詰めている。  黒ではなく茶でもない。見たことのない色。絵の具にもクレヨンにもそれは存在しない。僕はその色の前髪をかき上げる。  眼の色もそれとよく似た。 「服乾いたら帰ってね」  彼は頷かない。  頷く前にベッドに押し倒す。  身長差の目算。二十センチ。  体温のない身体。錆びた針金を連想する。  激しい雨音。カーテンを引くのを忘れていた。  向かいは九時五時の小さな事務所。  何をしているのかも知らない。  真っ黒の窓。社員はすでに帰宅。  誰も見ていない。  ここで彼が言葉を発していたら僕は何もしなかった。まったく無意味の切れ端のような音でも充分効力はあった。  しかし、彼は僕がベッドから下りるまで、いや、  僕がベッドから下りて炬燵にもぐりこんでもただの一言も発さなかった。  朝になって僕が眼を覚ましたとき、  彼はベッドに寝ていなかった。僕は真っ先に浴室をのぞく。そこに吊るしておいた彼の服ごと、彼は忽然と姿を消していた。  時刻確認。  遅刻と欠席。サボりとやる気。  僕は部屋を掃除する。他にすることが思いつかなかったのだ。  店長からメール。早く来い。  僕は靴の中に何かが入っていることに気がつく。  見るまでもない。彼からだ。      3  たぶん、僕の親友は死んだ。  ここのたぶんは、親友と死んだの両方にかかっている。つまり、  僕の、  たぶん親友は、  たぶん死んだ、としたほうがいいかもしれない。  僕にわかっているのはこれだけ。  たぶん親友が、  いつ、  どこで、  どのようにして死んだのか。僕にはそれがわからない。  わからなくてもいい。墓の場所もどこだっていい。  どうせ地球上だ。いや、地下か。  どちらにせよ地球からそう遠く離れてはいない。  バイト先に向かう道程で、僕はそのイメージに侵入されていた。  たぶん死んだ、  たぶん親友について。  名前も、どこで知り合ったのかも、特に思い出す必要はなかった。  思い出としてではなく、感覚として、なんとなくわかっていた。  店長は、僕に留守を任せると用意ドンよろしくぱっと出掛けてしまった。僕に店番をさせたいがためにわざわざ呼びつけたのだ。  昨日土砂降りだった雨は、朝にはすっかり上がっていた。  客足も普段どおりに戻る。ほとんどが僕と顔見知りだ。  むしろ僕目当てで来る人、イコールお得意さん。  昨日も来たかったんだけど、と皆競い合うように呟く。  まああの雨ですから、と僕は答える。  手が空いたのを見計らって僕は遅めの昼食を採る。ぜんぶお得意さんからの差し入れ。ここのバイトのいいところは昼食代が浮くこと。ところによっては夕食代も。  食に執着していないので腹に溜まれば何でもいい。有り難くもらっておく。  日が翳ってきた頃、店長からメール。  何かとてつもない収穫があったらしい。明日はメニュが増えるだろう。試食用のスプーンの在庫が切れそうだったので、返信ついでに報告する。  帰宅途中に書店に寄る。レンタルのコーナで僕は足を止める。  目ぼしいものがあったわけではない。  僕はレンタルが好きでない。返さなければいけないのが気に入らない。いっそ購入して自分のものにしてしまいたい。 「約束守ってくれたんだ。服乾いたら帰れっていう」  彼は頷く。  僕は監視カメラの位置を確認して彼の手に触れる。骨と皮。 「でもこうゆう置き土産は困るな。返すよ」  彼は首を振る。 「どうして首振ったのか教えてくれる?」  彼は口を開かない。僕の手に置き土産を突っ返して去る。  僕はそれを見送る。  置き土産の件はそもそもどうでもよかった。呼ばれたから来ただけ。  そういえば彼はまた学ランだった。今日は全国的に学校は休みのはずなのだが。  次の日バイトが終わって帰ると、部屋の入り口に彼がいた。  古新聞のように蹲って。  少なくとも半日以上待っていたらしい。そうゆう顔だった。 「きみは何が目的なの?」  彼はドアと僕を交互に見る。僕はわざと無視してドアに寄りかかる。  夜風。外灯。  遠くで救急車のサイレン。  彼は遠慮がちにマフラを巻きなおす。深紅のマフラ。防寒具らしい防寒具はそれくらい。白いシャツに黒い学ラン。  案の定、小刻みに震えだす。それでも僕は黙っていた。  息が白い。  差し入れが残っていたことを思い出して、見せ付けるように食べてやった。彼は何も言わない。  ケータイで時刻を確認する。楽しみにしているわけではないが、なんとなく観続けているドラマが始まってしまった。  隣の隣の部屋の人が帰ってきたが、僕らのことなんか気にも留めない。  ドアが開いて、閉まる。  そろそろ潮時だろう。 「目的か、名前。どっちか教えてくれない?」  彼は僕に抱きつく。何も言わずに。  僕は冷えた身体を抱えて部屋に入る。彼は最初からそのつもりだったのだろう。名前ではなく目的のほうを採ったわけだ。  面倒だから一緒に風呂に入った。ここでいう面倒とは、僕が面倒くさがりという意味ではなく、どちらかが先で残ったほうが後、という順序に煩わしさを感じたのだ。  二人で浴槽に浸かると、大量のお湯が排水溝に吸い込まれた。  おまけに狭い。  僕は浴槽の淵に腰掛けて歯を磨く。勿論、脚は湯船に入れたまま。  彼はちらちらと僕の股間を気にしている。  僕は、彼がここでどのような行動をとるのか実験していた。口から垂れた歯磨き粉の泡が太腿を伝う。これもわざと。  メガネがないのが惜しい。近視と湯気のせいで彼の表情の機微がつかみにくい。 「僕を選んだのはなんで?」  彼は返答の代わりに僕の腹部に顔をうずめる。都合が悪くなると物理的に言語封じを行なう。  だが如何せん、根本的な解決になっていない。  そんなことをしても駄目だということを暗に示すために、僕は口に溜まった泡を彼の頭に吐く。気づいているのかいないのか、彼は腕の力を強くした。  唾液の音が反響する。  僕は歯ブラシを洗い場に落とすわざと。 「ねえ、悪いけど、拾ってくれない?」  彼がおずおずと身を乗り出す。僕が邪魔しているので浴槽から上がることは出来ない。指先が歯ブラシにつくかつかないところまで達したとき、彼の脚を開いて後ろから貫く。彼は浴槽の縁に腹這い。そこそこすんなり入った。  このことから導き出せる彼の素性が何パターンが浮かんだが深追いしないことにした。遠くで会話。  点けっぱなしにしておいたドラマだ。男と女が揉めている。  声を押し殺している?  何も感じていない?  それを確かめるために、彼の髪を引っ張って後ろを向かせる。  苦痛に耐えている顔。 「僕にこうして欲しかったんじゃないの?」  まさかしがみ付くことが目的だったわけではあるまい。彼は自分で口を押さえる。都合が悪くなると、の法則だ。  僕は半分くらい引き抜くわざと。彼は腰を近づける。  僕は腰を引く。彼が近づく。  ついに僕は背中が壁についた。彼は浴槽の縁につかまって、無我夢中で僕に快感を与えようとしている。僕は動かずにいた。  場つなぎ的な行為が終わるなり、彼はよろよろと湯船に沈んだ。僕はその細腕を摑んで引き上げる。  歯ブラシをコップに戻してシャワーを浴びる。口を漱ぐのを忘れていたことに気づいて、含んだ水を彼の顔に吹く。  反応がないのでシャワーをかけてみる。  寝たふり。失神。  どちらにせよ、このままでは僕が彼を運ばなければいけない。 「起きなよ」  彼の鼻を爪先でつつきながら声を掛けた。起きない。仕方ない。  彼の身体を拭いてベッドに放る。空気の歪む音。  ドラマが終わってニュース。天気予報。全国的に晴れるでしょう。  へえそれは結構。  リモコンが見当たらない。しばらく使っていなかった。  しばらくそのまま放置。  スポーツ。野球だのサッカーだの。  炬燵の布団を捲る。ベッドの下を手探り。  湯冷めしてきた。設定温度を上げる。  ようやく電池を発見した。肝心の本体がない。  彼の瞼が痙攣する。 「生きてる? 寝ちゃったの?」  リモコンはなぜか紙袋に入っていた。電池を入れ替えて動くか確かめる。  テレビの電源を消した。 「入れるよ。脚開いて」  その日から彼は僕の部屋に居つくようになった。強制命令まさか。       4  たぶん死んだ、たぶん親友についての一考察。  たぶん親友が最期に話したのが僕だった。ケータイの履歴。  ただそれ一点の証拠によって僕は割と迷惑を被ることになった。たぶん親友は僕のせいで死んだのではないか、と疑われたのだ。  たぶん親友が倒れているはずの場所にケータイが落ちていた。その一番最近の通話履歴が僕のケータイ。  なんだってそんなややこしい死に方をしてくれたのだろう。たぶん親友。僕に怨みでもあったのだろうか。  目覚まし時計が止まっていた。自動的に遅刻。  そんなのいつものことか。  彼は床に転がっている。寝ぼけ眼だったのでうっかり踏んづけてしまった。  彼はゆっくり眼を開ける。  おそらく確実に僕より早く覚醒していたが、僕が起きないので如何ともし難く、大人しく床でじっとしていたのだろう。不自然な開眼。  僕はリモコンのスイッチを最大に合わせる。彼がびくんと痙攣する。  テレビとエアコンも稼動。  僕は彼を放置して朝ごはんを食べる。  店長からメール。催促。最速で三十分後。  そろそろ単位が危ないかもしれない。  訂正。今日は休みたい。  具合でも悪いのか。  講義に出るんで。  なら仕方ない。店長は僕が学生だということをすっかり失念している。  期末テストとレポートさえ何とかなれば。出席重視の科目は端から諦め。 「留守番しててね。あと、床は汚さないように」  軟禁というか監禁というか。  どちらにせよ、彼は僕の部屋から出られない。出る気がないのだから出ることはない。例え、万一にもあり得ないが、出たとしても構わない。  床が汚れなくなるだけ。  ただそれだけの話。  久しぶりのキャンパス。どこに何があるのかすら曖昧だ。  暇そうな知り合いをつかまえてノートをコピィしてもらう。向こうの好意。頼んでもいないのに代返的に出席カードを出してくれていたらしい。  見つかったら完全に僕だけが悪いではないか。親切を通り越して余計なお世話。  なるほど、見返りを求められている。  鬱陶しいを通り越して清々しい。  しかし僕は応じない。僕はきみを求めていない。きみ以外を欲しているわけでもない。偶々暇そうなきみをつかまえただけのこと。  利用。されたいのはきみのほう。  気づかないならそれでもいい。僕は誤りを正す気はない。  毒にも薬にもならない講義に二つほど出席してキャンパスを脱する。あまりに拍子抜けな内容だったため昼食を採るのを忘れていた。ジャンクフードを胃に詰めてバイト先に向かう。  案の定、店長は用意ドンの準備をしていた。いってらっしゃい。  午前に僕が顔を見せなかったせいで夕刻まで客足が途絶えなかった。客側にそうゆうネットワークがあるのだろうか。  いまいない。  まだ来てない。  さっき来た。早く早く。  そのうち僕のシフト表がでかでかと店の外に貼り出されるかもしれない。  本当はいけないのだが、僕はこっそり商品の残りを持ち帰った。いい子で留守番をしている彼にご褒美。  腹が減ってもふんともすんともいわない。寝転がって床を汚すくらいしかやることがない。  ペット。僕はペットが好きではない。  彼は僕が帰るなり機敏に起き上がる。  テレビがついている。クイズかバラエティ。 「何味が好きかわからなかったから僕のおススメだけど」  彼はぱちぱち瞬きして首を傾げる。彼は僕が何屋さんで働いているのか知っているはずだが。テイクアウト用の箱にだってロゴが書いてある。  僕のおススメ。  抹茶。ブルーベリィ。レアチーズケーキ。チョコミント。  ぜんぶ混ぜたシェイクを床に垂らす。  またしても床が汚れる。 「僕との約束守ってよ。せっかく持ってきてあげたのに」  彼が床に貼りつく。 「美味しい?」  彼は舌を出しながら肯く。喜んでくれたなら僕も本望。  録画しておいたアニメを観ながら夕食。例によって客の差し入れ。昼食分がそのまま繰り下げ。展開が単調なので早送りした。  殴り書き的にレポートを完成させて一息つく。テストは持ち込み可だからそれほど構えずとも何とかなるだろう。  床がてらてらしている。  僕は彼が食べ終えたのを確認してからシャワーを浴びる。  彼も一緒に。一人で入れたこともあるのだが、のぼせたり溺れそうになったりで余計に面倒が増える。  彼が単独で何かを成すことは不可能に近い。それが日常生活に関わることであろうとなかろうと。  愛玩ペット。  乳幼児。言語も限りなくゼロ。  不満ではない。満足でもない。  小さい。がりがり。纏足を思わせる体格。  彼の着ている学ランには学校を特定できるものが何もない。近場の学校の制服を調べてみても意味がないように思う。制服だから身に付けているわけではなく、彼を支配する何者かの趣味にただ従っているだけではないか。  持ち主がいるなら取りに来てくれてもいい。要らないなら預ければいいだけのことだ。捨てられた。逃げてきた。  た、すけ、て。  僕はようやくそれを思い出す。 「ねえ、助けてってどういうこと?」  彼は上目遣いで僕を見る。浴槽の中に体育座り。  リモコンでスイッチを入れたり切ったり。オンとオフ。  口がぱくぱくするので僕の指を咥えさせる。喋りたくなったらやめていい、と但し書き付で。都合が悪くなるとの法則に準じた形で。 「さっきシェイク飲んだのに。そんなに喉渇いてるの?」  ミルクだけではいけない。ジュースも与えよう。  彼を洗い場に座らせて、僕は浴槽の淵に腰掛ける。飲み干した後も彼は何も言わない。  た、すけ、て。  何か困難な状況から救ってほしいのか。力を貸して欲しいのか。  あの日は雨が降っていた。豪雨。  雨を避けて店に逃げ込んできたと考えれば、前者かもしれない。しかし、それならもう達成されている。僕の部屋に居つく必要はまったくない。 「きみには見えないリードがついてるの?」  無反応。 「きみに飼い主がいるとして、いまの僕の立場は決していいものじゃないよね。もしかしてそれが狙いだった? 僕はカネなんか払わないし払えないよ」  彼は首を振る。カネを払えないことについて異を唱えているわけではなく、カネを払う必要はない、という意味で振ったのだろう。 「だったら何が欲しいわけ? 僕?」  それはないだろう。自分でも言ってておかしいと思った。  彼は口の端からだらだらと涎を垂らしながら気を失う。ヒステリィ的に。  僕は彼を抱きかかえてベッドに運ぶ。  甘やかす。躾ける。  彼の飼い主について考えようと思ってやめる。  二週間後、僕は彼のリードを握っている人物に遭遇することになる。  遭遇。いや、あらゆる現象は仕組まれた結果だろう。  僕は基本的には巻き込まれ体質だから。

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