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第2章 横たわる、いま

      1  彼は毎朝目覚まし時計になって僕のをしゃぶる。僕が僕の意図した時間内に起きればご褒美。  しかし、僕が僕の意図した時間内に起きれなくても特にお仕置きはない。  お仕置きというのは相手が忌避し嫌悪すべき事柄。その定義なら僕が与えているのはお仕置きではない。  彼は起きたその時の気分で好きなほうを選ぶことが出来る。ご褒美かお仕置きか。  今日はたまたまお仕置きだった。  僕は彼に一張羅すなわち学ランを着せて出掛ける。目的地特になし。移動こそが目的。  電車。僕はシートに腰掛けて彼を正面に立たせる。吊り革が遠いので棒でいい。人が増えてきたところでポケット内でリモコンをいじる。  彼は声を上げない。赤い顔。  誰か一人くらい気がついてもよさそうだが、この心地のいい匿名性の世の中では不可能。  例によって店長は用意ドン。  男が単独で入店したので罰ゲーム的パシリかと思ったらそうではなさそうだ。もう一人男が入ってくる。しきりに車に戻れと呼びかけているが、先に入ってきたほうはそれを一切無視してショウケースの中をじろじろ。 「どれがうまいんだ?」  身長二メートル。  目算はあながち外れていない。そこの観葉植物が確か二メートルとちょっと。以前店長が測っているところを見た。  体内で共鳴する。コントラバスのような重低音。白のロングコート。二メートルもあるから相当のロングだ。特注かもしれない。洗濯頻度の低そうなボトムス。  僕は本日のおススメを説明した。毎日メニュが違うからお気に入りのフレイバが毎日あるとは限らない。今日は抹茶もブルーベリィもレアチーズケーキもチョコミントもなかった。 「じゃあそれ」二メートルが言う。 「いい加減にしろ。こんなとこで油売ってる暇は」後から入ってきたほうの男がついに怒鳴った。  インテリ神経質の具現的銀縁メガネ。職業を尋ねると間髪置かずに公務員、と答えそうだ。黒の膝丈カシミヤコート。ダークグレイのスーツを厭味すれすれに着こなしている。  歳は僕より上。二メートルより老けて見える。実際、老けている。 「また視力落ちたんじゃないか」二メートルが言う。 「どういう意味だ?」インテリがあからさまに眉をひそめる。 「これが油に見えるんだろ?」二メートルは僕から受け取ったものを指さす。  パンナ。  インテリの口元が引き攣る。  二人の身長差のおかげでパンナは床に接触せずに済んだ。むしろ天井に近づく。  二メートルは勘定を払ってさっさか出て行った。  ありがとうございました。  退場もインテリのほうが遅かった。そしてすぐに車のエンジン音。  珍しいタイプの客だった。  僕は彼らの関係について思いを廻らせる。  友だちではない。知り合い。連れ。  運転はおそらくインテリのほうだ。二メートルがドライバなら彼が店を出てすぐにエンジン音がしただろう。  二メートルはインテリを気に入っていない。インテリは二メートル男に付き纏っている。こんなところで油売っている暇はない。  ではどんなところならば油を売っていいのか。油を売るべき適切な地に二メートルを導こうとしている。  その日から、二メートルがしばしば来店するようになった。  どこを見ているともわからない眼でぼんやりショウケースを眺めるが結局決められず、最後には僕に尋ねる。どれがうまいんだ、と。  指の先から手首まで包帯が巻いてある。しかも両方。  お得意さん的女性たちが奇異な眼を向けるが、彼はまったく気にしていない。店内に自分以外に客がいることすら気づいていない様子で、本日のおススメをシングルのコーンで買っていく。  いつもそんな調子だから、とうとう訊かれてしまった。  僕と二メートルとの関係を。  僕に会いに来ているのではないか、という邪推まで生まれる始末。  僕は客層制限はしたくないので適当に誤魔化しておいた。  やがて店長の耳にも入る。店長も気に入ってくれれば老若男女問わない姿勢。むしろ大切にすべき。フレイバのリクエストを採れと言われてしまった。  自分で訊いてくださいよあなたが作るんですから。  忙しい。  二メートルの来店時刻はまちまち。  しかし、必ず僕がカウンタに立っているときに訪ねてくる。彼もネットワークに加入したのか。  いや、それは彼女らが許さないようにも。  店長はいまだに彼の顔を見ていない。遭遇できないのだ。  ちょうど僕ら以外誰もいない。 「何しに来ているんでしょうか」 「これ食いに」二メートルが言う。 「それはわかっています。そうではなくて、あなたには他の目的があるように思われますが」 「ない」 「僕ですか」  それはないだろう。自分でも言ってておかしいと思った。  二メートルの焦点は相変わらずショウケース内。また決められない。最初から決める気などないのだ。入店の義務として買っていくに過ぎない。 「どれがうまいんだ?」二メートルが言う。 「本当に食べてますか?」 「ああ」 「どれが一番美味しかったですか」 「最初に食ったやつ。あの、白いの」  パンナ。  今日はたまたまメニュにある。 「もう一度これにしましょうか?」 「頼む」  サービスで普通より三割ほど多めにしたが、彼は特に気づいていないようだった。  彼はいつもの如く小銭をじゃらじゃら出して勘定を払う。財布が重そうだ。 「このほかに気に入ったものがありますか?」 「いや、特に」二メートルが言う。 「何か好きなものがありますか? そのフレイバを作る、と店長が申してまして」 「ふれいば?」 「味のことです。パンナは牛乳を使ってます。例えばマンゴーがお好きならそれを使って作ることが可能です」  二メートルは少し考えた末、特に、と言って帰ってしまった。  しかし、次に来店したときの第一声がいつもと違った。  どれがうまいんだ、ではなく。 「ジンジャーエール」二メートルが言う。 「フレイバですか?」 「ああ」 「可能かどうかわかりませんが、リクエストありがとうございます。店長に伝えておきます」 「どれがうまいんだ?」  例によって本日のおススメを説明しようと思ったら、インテリが入店した。  二メートルを捜していたらしい。力では敵わないとわかっているため、何とか口で言い負かそうとするが、すること成すこと揚げ足をとられて話題があらぬ方向へ進む。 「俺なんかに構ってるから女に逃げられる」二メートルが言う。 「何故お前にそんなこと言われなきゃならないんだ?」インテリが言う。「それより今日最初にどこに行ったか教えろ。今日だけじゃない。先週と先々週と」 「そうゆう発言が誤解を生む。すまないが、適当に選んでくれ」  僕は今日のおススメを二メートルに渡す。  ラムネ。  インテリは忌々しそうな顔でショウケースを睨む。いや、僕かもしれない。  営業スマイルで対抗しようと思ったら向こうはもっと凄いものを出してきた。 「最低だな。善良な一般市民を脅して」二メートルが言う。 「なりふり構っていられなくなった。お前のせいだからな」インテリは警察手帳を仕舞って僕を見据える。  自信に満ち満ちた顔。一瞬で仮面を取り替えた。  僕は店長にメール。  至急お帰り願います。       2  いわゆる典型的取調室を想像していたので、どちらかというと気が抜けた。  インテリは僕を警察署なりに連れて行くつもりはない。車の中でちょっと話を訊く、という趣旨のようだ。  だがおそらくそれは、僕のこれからの態度や行動にかかっている。 「名前は?」インテリが言う。 「知ってるんじゃないですか?」 「私は質問をしている。名前は?」インテリが言う。 「答えなくていいぞ」二メートルが言う。  後部座席。  二メートルは僕の隣でラムネを食べている。 「どうしてお前はこうゆうときだけ喋るんだ?」インテリが言う。「だいたいな、お前が」 「こいつの言うことは無視していい。店戻れ」二メートルが言う。  運転席。  インテリが振り返る。物凄い剣幕で。 「前見ろ」二メートルが言う。 「陣内(ジンナイ)」インテリが言う。 「前」二メートルが言う。  衝突も急ブレーキもなかった。  インテリは前を見なくとも安全運転が出来るらしい。さすがケーサツの鑑、と二メートルが呟いた。  ステアリングを叩く音。  こんこん。 「質問を変える」インテリが言う。「乃楽(ナラ)シュウという少年を知っているな」 「なんで断定形」二メートルが言う。 「知ってるからに決まってるだろ」インテリが言う。 「じゃあ訊くなよ」二メートルが言う。  二メートルはラムネを食べ終える。これもうまい、と僕に言った。  ステアリング。  こんこんこんこん。 「乃楽シュウとお前は同じ学校に通っていた」インテリが言う。「お前の友だちだった。いつまで友だちだったか、知っているな?」 「無意味な疑問形」二メートルが言う。 「全て調べはついてるんだよ」インテリが言う。「お前が乃楽シュウを殺した。そうだな?」  風鳴り。  二メートルは巨大な手で自らの口を覆う。何も喋るな、と僕に伝える。  ステアリング。  こんこんこんこんこんこんこんこんこんこんこん。 「騒音」二メートルが言う。 「一人暮らしじゃないのか」インテリが言う。 「ストーカ」二メートルが言う。 「一人暮らしだな?」インテリが言う。  メール。  僕のケータイが震える。 「誰からだ」インテリが言う。 「個人情報」二メートルが言う。 「お前の部屋にいる奴は誰だ」インテリが言う。  なにもかも、僕の知らないことだけを、インテリは知っている。  僕は黙っていた。二メートルも頷く。  だいぶ長い間静寂が続いた。  僕も二メートルも沈黙を貫いたのでインテリは居た堪れなくなったらしい。  車が停まる。僕の知らない場所で。 「帰っていい」インテリが言う。  真意。今日のところは仕方なく帰らせてやるが次はない。 「二度と来るな」二メートルが言う。  真意。もう二度とこんな奴につかまらないように気をつけろ。  僕は無言で車を降りる。  空が真っ黒。僕はタクシーを拾う。  彼は炬燵に当たってうとうとしていた。  僕はいまさらメールをチェックする。  店長だった。心配。  平気です。  それなら良かった。  明日も行きます。  待ってる。  夕食を食べる気が起きなかったのでシャワーを浴びて寝た。寝ぼけ眼の彼には差し入れを与えて。  次の日から二メートルが顔を見せなくなった。  店長は用意ドンを一時休止してジンジャーエールの試行錯誤をしている。完成しても二メートルは来ない。僕はそれをこっそり持ち帰る。  カップを逆さにして床に落とした。 「美味しい?」  彼は頷く。 「シェイクとどっちがいい?」  彼は返答に困って俯く。僕は別に怒らない。不快にも思わない。  ただ単にどちらが好きなのか訊いただけなのだが。  彼のお腹が鳴る。  僕はその音を初めて聞いた。 「我慢してたの?」  彼はお腹を押さえて首を振る。耳障りな音を聞かせてごめんなさい、と言わんばかりの顔で。  僕は急いで夕食を作った。簡単な炒め物。しかし彼は口に入れようとしない。食べさせようとしても唇を噛んだまま。  床の染みが広がる。 「ねえ、困るんだけどなあ」  彼はびくんと痙攣して食事を始めた。  リモコンは使ってない。床がてかてかする。  油を使ったから。  浴室で彼の身体を弄った。調べた、と言ったほうが近いかもしれない。 「言うの忘れてたんだけど、きみがここにいること、ケーサツにバレてるよ。それっぽい人が訪ねてこない? ドアどんどん叩いたり不当にぴんぽんぴんぽん鳴らしたり」  彼は首を振る。  インテリも頭は悪くないはず。何らかの法的問答無用手続きにこぎつけているのだろう。今度来たとき僕は間違いなく警察署に連行される。  いわゆる典型的取調室には二度とお世話になりたくない。  なんだって今頃、たぶん親友のたぶん死を持ち出すのか。それと彼を部屋に居つかせているのは別の話だ。  二メートルが僕を庇ってくれたのも、インテリのすることを邪魔したかっただけに過ぎない。両者とも同カテゴリに属している。  とするとあの日から監視が続いていると見たほうがいい。  そして現在も。  高校と大学の立地場所からすると警察の管轄が違うと思うのだが。わざわざ僕を追ってきたのか。縄張りを無視して。 「きみの飼い主はどんな人? ケーサツにマークされてないよね?」  彼は反応しない。頬がリンゴ的に赤く、眼がとろんとしている。  またのぼせた。  僕は彼を運んでベッドに放る。  ぽかぽかして湯たんぽのようだ。人間湯たんぽ。  その夜は彼と一緒に寝た。  いつもは彼は床で眠る。僕はどちらでも構わないのだが、彼が床のほうがいいというからそうさせてあげている。  乃楽シュウ。  たぶん死んだ、は死んだ、なのだろうか。  たぶん、を取れということだろうか。  僕のたぶん親友は死んだ。  死んだのか。地球上にはいない。  きみは地球の下にいる。僕は地球の上。  反対。逆。  さかさ、まさか、さ。  次の日は雪が降った。  朝方冷え込んだせいか彼が熱を出した。裸で寝ていたのもいけなかったか。  シャツを着せる。僕のサイズだからやや大きめ。  額に濡れタオルをのせたら彼の表情が和らいだ。 「きもちい?」  彼は小さな声で答える。  すんません、と。 「病院に連れていけないけど、寒気とかする?」  彼は小さく首を振る。 「無理しなくていいよ。食べたいものとか欲しいものがあったら言って。これ飲む?」  彼は力なく頷く。  僕はスポーツドリンクを飲ませる。ゆっくりゆっくり。以前勢いが強すぎてむせたことがある。  彼の口が動く。  耳を近づけたら聞こえた。バ、イト。 「看病するの僕しかいないんだから。それにこの雪じゃ客は来ないよ」  彼は無理して眼を開ける。平気だということを示したいらしいが大して効果ない。  店長からメール。いますぐ。  雪ですけど。  関係ない。  確かに。店長はこんな日にも用意ドンをしたいらしい。全天候型用意ドン。 「頼むから僕が帰るまでは死なないでね」  彼は頷く。最初からそれを望んでいた、と言わんばかりに。  世界は雪化粧。  身体の芯が凍る。自転車が使えない上に電車のダイヤが乱れて散々だった。  そんな中無理を通して道理を引っ込めて駆けつけたというのに、昼をすぎても客足は限りなくまばら。客入りは予想通りだとしたって、いつもはしつこいくらいの店長もまったくメールを送ってこない。  僕から送るのもどうだろう。帰っていいですか。  いや、無理だろう。  店長が僕に求めていることは店番なのだ。  鈴の音。入り口のドアが開くとそれが鳴る。  僕は反射的いらっしゃいませ。  白地に紫の花。振袖。  緩くウェーブのかかった髪。  おそらく送迎横付け。透けたストール以外に防寒具がないのと、草履の裏があまり濡れていないのと。  ウサギ柄のちりめん巾着を提げている。 「キサガタはんでよろしおすか?」 「よくご存知ですね」  知らない顔だった。お得意さんなら僕の名前くらい知っているのだが。  身長は小柄。年齢の見当がつかない。  顔から判断して十代でもおかしくないが、十代にしては振る舞いが優雅すぎる。二十代でも三十代でも四十代でも果ては五十代でも特に疑問符は生まれない。  彼女はうふふう、と笑って口元に手を当てる。 「あんたはんに会おう思て」  僕は彼女の声音に寒気を感じる。  ショウケースの冷気。  外界は雪。 「いまからウチんとこ訪ねてもらえまへんやろか。足はこしらえてますさかいに」 「すみませんが、見ての通り僕は仕事中です。店長もいない。店を空けるわけには行きませんね」 「そないにお時間とらしませんえ?」  どう断っても無駄だった。  彼女は食らいついて離れない。吸盤のようにスッポンのように。  その間、数人の客が通過していった。いずれもお得意さん。こんな雪の日にわざわざ足を運んでくれるのは、僕目当てのお得意さんくらいのもの。 「せめて閉店時間まで待ってもらえませんか。改めて出直していただけますと」 「ほんならこれぜぇんぶ、店ごと()うたります」  ショウケースと睨めっこしていた女子高生が思わず声を漏らす。店内でお召し上がりのお得意さんたちも一斉に彼女を見る。  僕もまったく同じ気持ちだ。なにいってんの。 「これでお時間できますやろ? ウチ、なんや間違うとります?」  観念するしかなさそうだった。  彼女はちりめん巾着の紐を僕に握らせる。  どっしり重くてよろけそうになった。こんなものを片手で持っていただなんて。  僕は女子高生に申しわけありませんが、と謝ってから店長にメール。  乗っ取られそうです。       3  寝違えたせいで首が痛い。右の首筋が攣っている。  首を触っていたら相手方に心配された。余計なお世話だ。他人に心配されて治るなら盛大に心配を求める。  つまらないから聞き流し。  眼線を合わせる価値もない。単に首が動かせないせいもあったのだが。  窓の外に生徒の集団。よってたかって。  授業の時間を狙って訪問したのに、関係ない勢も存在するらしい。当事者たちからは見えているのだろうか。建物の陰なのをいいことに好き勝手。  どうされましたか外に何か。  こちらからはそう労苦なく見えるのだが、向かいに座る相手側からは見えない。ご機嫌取りでもしようと思ったのだろう。  相手が席を立って。お見苦しいものをお見せして申し訳ない、いま。とカーテンを閉めようと。 「流行っとるんか」  もう少し気の利いた冗談にすればよかった。  相手が苦悩の表情を見せる。  こちらの気分を害する、イコール多大な不利益。  不幸かもしれない。  仕方ない、助け舟。 「場所、変えよか」  第二会場からは何も見えなかった。  窓がなかった。あったかもしれないが、部屋に入るなりカーテンを閉められた。親切、と言い換えてもいい。  部屋が使用中だと示すためにそうしたのだ。  他に聞かれたらまずい。のはいつだって相手方だけだが。  それでも首が痛む。  足を運んだ時点でほぼ決定なのだから、つくづく無駄なことをしているとしか思えない。電話だって伝言だっていい。要は客観的な証拠が残らなければなんだって。  木造の古いにおい。来客用玄関で生徒に挨拶された。  消毒の塩素くさい。小高い位置にプールが見える。声がしないのでちょうど終わったところだろう。  湿気と熱気。  次の仕事の確認。どうせ顔出し。寺だろうが神社だろうが。  車の中が線香くさいわけではない。自分が線香くさいのだ。着物の袖を嗅いでみる。  線香。  自らウィンドウの上げ下げが出来ればいいのに。  次の日、権力を笠に着て再視察。お付と案内を断った。美術館の音声ガイドほど鬱陶しいものはない。白の状態で自らの感覚を受け取りたい。  プールへと続く坂。裸足では焦げてしまう。アスファルト。  水泳部があるかどうかは知らない。水飛沫と声。  直射日光。帽子は好かない。  日に焼けたら商品価値が薄れるだろうか。好みの問題か。  昨日と限りなく同じ面子。  集団。クラスぐるみかもしれない。  無視と傍観。  暴漢。担任も共犯。教科担任でさえも。  転校と天候。  快晴と改正。  あのままでは溺れ死ぬ。  寝違えた首がまだ痛む。  あの女の顔がちらつく。そろそろ連絡という名の精神支配が。  鳴った。  電源を切る。迎えに来るまで五分か。せめて顔だけ見れれば。  チャイム。  プール勢が一斉にシャワーへ。一人だけ取り残されている。浮かんでこない。まさか。身を乗り出そうとしたところでアウト。  車に連れ戻される。権力なんか所詮付け焼刃。 「かいらし子ぉ、おらはったん?」女が言う。 「はあ?」 「ほんでウチのらぶこぉる受けてくれへ」  切る。  出るべきではなかったのだ。しかし出なければもっと酷いことに。  酷いこと。それは具体的に。  考えたくもない。  だから避けているのだ。想像しないために。  同情というよりは嫉妬。  欲しいのかもしれない。自分の代わりの生贄が。奴隷が。いじめられているなら相応しい。  優しい言葉をかけて、転校を唆して。  出来るだろうか。機会がないなら作ればいい。待ち伏せと尾行。  同じだ。  自分以外がやっている仕事と。  家を突き止めたがなかなか帰ってこない。  いま気づく。帰れないのだ。  引き返す。  またプール。校舎裏より面白い場所なのかもしれない。  すでに中身は死んでいる。あとは外身だけだが、それほどもたないだろう。  中は幾らでも何とでもなるとして、  外が壊れると使い物にならない。修理代がかかる。  人がいなくなるまで待っていたらすっかり暗くなった。冷えたプールサイド。水溜りに裸の人間がうつ伏せで倒れている。タオルを放る。 「なんで逃げへんの?」  反応が鈍い。呼吸はあるが身体に温度がない。  余計なお世話的タオルを回収しようと思ったら微かに指が動いた。咳き込んで水を吐き出す。胃液と塩素水の混合液。  ようやく顔の断片が見える。前髪がもっと短ければ。  表皮は傷だらけ。切り傷。火傷。青あざ。みみず腫れ。傷の見本市のようだった。穴が開いていないだけまだ。  頸から背。腰から臀。  捻じ曲げられた直線に触れる。  身体的ないじめ。  精神的ないじめ。言語的ないじめ。性的ないじめ。 「何してんの、ぼくの椅子に」  髪が湿っていない。見学だったらしい。生徒がこちらに近づいてくる。  彼は、うつ伏せの生徒を蹴り起こす。  それは錆びたパイプ椅子と同化する。腕が脚、頭が下で背もたれに膝の関節。腹の部分に座ることになる。  股と顎の接触。  ただでさえ日没の遅い夏とはいえこの暗さなら顔は。割れたとしても来賓を気取ればいい。 「お客さんのヒト?」生徒が言う。 「ボロいやろ? せやから直したろ思うて」 「へー、そんな話あるんだ。初耳だけど」 「内緒やさかい。協力してくれへんか」 「オジサンがせっけーとかするわけ?」  オジサン、ではないが訂正はしないことにした。  向こうがオジサンだと思うならオジサンなのだろう。通りすがりの他人なんぞそんなもんだ。 「ふーん、じゃーどーせなら五〇メートルにしてよ。短すぎて面白くないし」 「考えとくわ」 「あーそれでみんな帰ったあとに見に来てるんだ。ごめんね、ぼくすぐ帰る」 「そいつ、なに?」  それの解体が進む。四脚椅子から四足歩行に。  進化の逆行。退化の超上。  生徒はようやく異物的タオルに気づいたらしい。こちらに投げる。  湿り気。 「ダメだよ。がっこー備品じゃないんだから」 「椅子やゆうてたはずやで」 「椅子だけどぼくせんよー。オジサンにはあげない」  直感する。  こいつが組織的いじめの中心だ。  そうゆう眼をしている。  ヒトを徹底的にモノと同一化する。椅子は蔑みの言葉ではない。  こいつは、  それを、本当に、  椅子、  だと思っている。  そいつも、本当に、  椅子、  だと思い込んでいる。  作戦は早くも座礁。  椅子だけに。面白くも何ともない。  腹が立つだけだ。 「ほんならばいならね」 「え、オジサン帰っちゃうの? いいの?」 「ええもなんも、邪魔がぎょーさんおってかなんわ」 「ぼく帰るよ。だから別に気にしないで」  今日は潔く引くことにする。負けたというよりは保留。  戦った憶えはない。本気で勝負したら勝ち目がないので裏工作。  簡単だ。  カネ。  これで世の中のあらかたのことは片が付く。便利な道具が手持ちにある。掃いて捨てるほど。 「無駄遣いしおると小遣い減らしますえ?」早速嗅ぎつけたあの女。  誰にも言わずとも監視組が逐一報告してくれているだろうし、生憎証拠を残さずにゼロの数を少なくする方法をまだ知らない。  すべてはあの女のもの。言語も文明も思考果ては妄想さえも。 「あないにしょーもないボン」女が言う。 「カネんなる」 「よーいわんわぁ」  他人に任せると自分の手取り分が減る。ただそれだけの理由で意地を張っている。  指摘はしない。  許可が下りないなら強行するまで。  敷地内から生徒が追い出される時刻を過ぎて、プールサイド。  塩素臭と線香。  コースロープが片付けられている。更衣室が汗臭い。死人が出ても利きすぎた嗅覚を怨むほかない。  ここは男子校。トイレの床に捨てられていた。  椅子と呼ばれる少年。 「生きとるかぁ?」  無駄だ。  彼は椅子なのだ。中心者によって言語を剥奪されている。  シャワーまで引きずると傷だらけになってしまう。バケツに水を汲んでぶちまける。三回ほどで、彼の表面を覆っていたぬめぬめした液体を洗い流すことが出来た。  これが何か、すぐにわかる。  彼の役目は単なる椅子ではないらしい。椅子相手に発射するのもイかれた話だ。  屋敷に連れ帰って、外観だけでも人間に戻す。  ごわごわで伸び放題の髪を整え、身体の垢と汚れを落とし、割れて欠けた爪を磨いて、似合いそうな服を着せて、体温を与える。  着信は一切無視した。電源を入れていないので平和。  邪魔するな、と睨みつけて見張り係を追い払う。日頃面倒くさがりで通してある人間が率先して面倒な活動を始めたというギャップが効いている。一同が呆気にとられているうちに済ませよう。  聞こえていないわけではない。自ら言語を発しないだけで。  音にも反応する。僅かに。  触覚がだいぶ鈍っている。  触ってもこちらを向かない。叩いても抓っても。  視線が合わない。  口吻(こうふん)に興奮しても。されるがまま。 「ガッコも家も行かんでええよ。俺んとこおってな」  せめて笑えばいいのだが。いないいないばあとか笑顔反射も期待できない。  廊下がやけに静かだ。  背筋をなぞる。厭な予感。  来た。  扉もそろそろ。荒々しすぎてノックとは程遠い。  両手に銃。  二人いるから二つ構えたのではない。  両方ともたった一人に向いている。抵抗する気満々の俺に。 「日ぃの高いうちからようやりますなあ」 「日ぃの出る処の国そないなぶっそーなもん禁止なんやけどむっちゃ時差ぼけやろ?」  鼻につくこの匂いがするということは、あれに呼ばれた。  北京。  その帰りにご苦労にも屋敷に寄ったのだ。弾をぶっ放したいがために。 「相手にされんかったゆうて八つ当たりすんなや。どーせしょっぼい手土産買うてったんやろ」 「カネんなるんやったらはよう現物見せて欲しわあ」  上納金額で他藩に負けたのだろう。  ほら言わんこっちゃない。こんなにストレイトに要望を訴えるときは本格的に徹底的に切羽詰っている。  ざまあ。  手を貸すわけではない。過程を認めれば自ずと結果が付いてくる。  向こうは寵愛を取り戻す。  こちらは。  何だろう。生贄祭り。  次の日、椅子と呼ばれる少年は忽然と姿を消していた。あの女が関わっているとは考えがたい。  とすると、自分から。  急いで学校へ。  車を出せとか命令が面倒だったから走った。息が切れる。  走ったのなんて、何年ぶり。  プールサイド。  まだ誰も登校していない。早すぎる。  明けの明星だってぐーすか寝ている。  いない。  いや、違う。ここじゃない。  どこだ。どこに。 「オジサン」  声がするほうに。あの、いじめの首謀者的少年。  指差す方向に。  椅子。  壊れた、椅子。 「だって座れなくなっちゃったんだよ。黙っててね。ぼく、ぼーりょく的だと思われたくないから」  ずっとここにいればよかったのに。逃げ出すから。       4  店長の半泣きの懇願で店ごと、は勘弁してもらい、現時点で残っている本日のメニュぜんぶ、ということで事態が収束した。  生憎の悪天候で余りに余っていた本日のメニュは買い手が見つかりかえって良かったようなものの、可哀相なのは順番待ちの女子高生だ。次回来店の際はただでお召し上がりいただける券、を渡してなんとか出直してもらえることになったが、せっかく足を運んでもらったのに試食すらさせてあげられなかった。 「あかんわあ、コーン()うてへん。テンチョはんに連絡しとくらはる?」  僕がケータイを取り出そうとしたとき、見覚えのある機種が彼女の耳に当てられる。まさしく僕のケータイだった。  いつの間に。  在庫すべてを彼女が買い切るようだ。明日から通常営業が出来るのだろうか。  彼女の用意した足というのは外見だけなら紫芋。中は微かに線香くさかった。僕と彼女が座っているシートはおそらく後部座席なのだと思うが、運転席も助手席もここから確認できない。  そもそも存在しないのかもしれない。これは紫芋なのだし。 「ウチはかぐやゆいますの。フジノかぐや。富士山のフぅに、ことぶきでジぃ、野っ原のノぉで富寿野。どんぞよろしうお頼ん申します」  僕も自己紹介する。といっても向こうには僕の素性なんかことごとく知られている。  彼女に飴を勧められたが僕は辞退した。  龍角散は好きでない。 「あんたはんがお世話したはるぼんが、今朝がた熱出したのとあらしまへんか」 「飼い主さんですか?」 「うふふう、飼い主やあらへんよぉ。奥さまて呼ばれとります。あんたはんも呼んだってな」  奥さま。と呼ぶには若すぎるようにも。 「ウチのこと若い思うてくれたん? いややわあ、おべんちゃらはやめてえな。かいらし子からそないにゆわれはったら本気にしてまう」  思考を読んだ。いや、予想済みの反応だったのだろう。彼女はいままでこれと同じ運びを何億回と体験している。  ただそれだけのことだ。  僕は動じている。なにに。  紫芋から降りて豆腐に乗る。絹というより木綿。  傾斜を登って丘の上には白亜の洋館。  ドアが開く。  僕も彼女も触れていない。勝手に開いたのだ。  エントランスは植物の文様で彩られた壁。  またしても線香。  眼の高さまでシャンデリアが垂れ下がっている。  紅い。  ドアが閉まる。  僕の見間違いでなければ、  そのドアの内側に人間が貼り付いている。  人間。  ドアだけではない。  シャンデリアにぶら下がる。壁にしがみ付く。階段の手すりに。  彼らは身動き一つしない。  完全な同化。まるで彼ら自身が家具にでもなってしまったかのように。  気味が悪いを通り越して神経回路が麻痺する。  彼女は何も言わない。訂正も注釈もない。  深紅の絨毯。  二階の廊下を進んで応接室らしき部屋に通される。  ダークスーツサングラスが案内してくれた。  暖炉。茸を模したランプ。  テーブルの裏に人間が下向きに張り付け。磔。  ティーカップが運ばれてくる。ローズヒップだということは匂いからわかる。  椅子の座り心地。  確認。すべきなのだろうが。  椅子にはレースで縁取られた布がかかっている。  これを取れば見える。 「出し抜けですみませんが、回収してもらえませんか」 「迷惑どすか? 大人しうて手ぇのかからんボンや思いますけど」彼女は、僕の正面に腰掛ける。  サングラスが運んできたのは杏仁豆腐とイチゴ。ダブルのコーン。  勧められたが断った。  そんなバイトをしているくせに扱っている商品を一度も食べたことがない。 「何遍かいがらはりました?」 「それを訊いてどうしますか?」 「カネのことやったら心配せんといてな。ウチ、カネないボンからは取らへん」  部屋には時計がない。あったとしてもそれは時計としての意味を剥奪された慣れの果てだ。彼女は時間感覚をゼロに出来る。  停止ではない。退行に近い制御。 「ひやこいもんどすなあ。よう食べられますやろか」 「連れて帰ってください」  彼女は帯の隙間からきらきら光るカードを出す。  養育費。迷惑料。報酬。  どれも相応しくないように思える。  これは僕を彼女の隷下に置くための手段だ。 「遠慮せんといてな。ウチの気持ちやさかいに」  僕は受け取らない。 「あんたはんがこーこーんときにやらはったこと。なんでバレへんかった思います?」 「僕はやってないんです。バレるも何もないでしょう」  彼女はテーブル上の呼び鈴を鳴らす。さっきのサングラスが駆けつけて、上着の内ポケットから仰々しく封筒を取り出して僕に差し出す。  バラの香り。  彼女が席を外す。舞台装置の切り替え。  もしくは脇役による説明、かつ主役なし。 「是非ご覧になって下さい」サングラスが恭しく言う。 「何が入ってるんですか」 「ご覧になればお解かりになります。わたくしたちが望んでいることも、キサガタ様がこれから採るべき行動も。自ずと」 「あなたは誰ですか」 「申し上げられません」  ある意味彼女よりも話しかけやすいと思ったのが間違いだった。  こちらのほうが絶壁。  僕は仕方なく開封する。さらにバラ。  写真が十枚弱。  九割がインテリ。残りの一割が二メートルだったが、こちらはピンボケ。インテリのほうはポートレイトよろしく綺麗に写っている。隠し撮り。  証拠写真。僕を監視しているという。  背景が僕のアパートだったり、  僕の大学だったり、僕のバイト先だったり。僕の通っていた高校もあった。 「わたくしたちにご協力戴けるのならば不穏な輩は取り去ることが可能です」  不穏な輩? 「取り去るって具体的にどうするんですか?」 「一切はわたくし共にお任せくださいませ」サングラスがお辞儀する。  実際的な死。  或いは記録からの死。 「僕には選択肢がないってことなんですよね? 彼に関わったときからすでに」 「ヨシツネ様のことをお知りになりたいのではないですか?」  ヨシツネ。  それが彼の名前らしい。 「奥さまっていう人の息子ってことですか?」 「御想像の通りかと」サングラスが言う。  僕は写真を仕舞ってテーブルに放置する。代わりに光るカードを財布に入れる。これを受け取らなければ次のステージに進めない。  サングラスが腰を屈めて内緒話のポーズをする。僕は明後日の方向を向いて耳を澄ませるふりをする。 「このようなことをわたくしから申し上げるのも心苦しいのですが、ヨシツネ様は奥様のことを好いてはおられません。それでお逃げになられまして、キサガタ様のところに助け、いいえ転がり込んだと申しますか。勿論、わたくしたちの唯一絶対の責務は奥様の幸福です。然るに」 「奥さまアレルギィの彼の面倒を当面看ろ、とそういうわけですね。どうゆう星の巡り会わせか、偶然にも土砂降りの雨の日に彼が飛び込んだ店でバイトをしていた僕に」 「お願い致します」  そして僕は自動運動的に木綿豆腐と紫芋に乗って移動し、アパートの最寄り駅で降ろされた。  サングラス男は去り際に僕にケータイを渡す。彼女との直通機。アドレス帳に何も登録されていないことから考えて、向こうから一方的に何らかの情報がもたらされるときに使用される。  空は真っ暗だったが、何日後の夜かはっきりしない。  スポーツドリンクといよかんを買って帰宅する。  彼はベッドで眠っていた。タオルがすっかり乾いている。  体温計を脇に挟んだら、彼が薄っすら眼を開けた。 「具合どう?」  彼は身体を起こそうとするが、眩暈を起こしてベッドに戻る。  湿らせたタオルを額にのせる。ペットボトルが空なので自分で飲んだのだろう。補充分を飲ませる。いよかんを剥いて口に入れる。  咀嚼音。 「なんだか輪をかけて面倒なことになりそうなんだよ。聞きたい?」  彼は首を振る。 「知ってるの? それとも予想つく?」  彼の眼が泳ぐ。 「やっぱりわかってて僕を選んだね。どうやって探したんだか」  完全に仕組まれた。  彼女と彼はグルだ。おまけにサングラスも。  そうすると気になるのは僕を巻き込むことで彼らにどのような利点が発するのかということだが、僕にはいまのところ何も思い当たらない。  乃楽(ナラ)シュウ。  死んだきみが関係しているのか。  二メートル。  インテリ。  彼らは近いうちに僕の周りから消える。運命。 「きみの名前、ヨシツネっていうんだね。富寿野(ふじの)ヨシツネってこと?」  赤い顔だったはずの彼から血の気が引く。  がたがた震えだした。 「どうしたの? 変なこと言った?」  汗が噴き出る。眼球をひん剥く。歯ががちがち。  タオルが枕に落ちる。  しかし彼は気づいていない。声にならない声が漏れる。  禁句?  名前を呼んではいけないのだろうか。  あまりに異常な反応なので僕は訂正する。ごめんもう言わない。  だが彼には届いていない。頭に取り憑いた何か悪影響を及ぼす無色透明の気体を必死に追い払っている。  絶好のタイミングで振動。  彼女から。僕は彼に見えない位置で電話に出る。 「僕の部屋にカメラがあるんでしょう」 「いややわあ、ええこと教えますさかいに。そのボン、ウチのことタイガホース思うとりますえ」  タイガホース? 「それずっと昔に滅んでませんか?」 「きめらはんどす。せやからウチのこといわんといてな。吃驚ぎょーてん魂消(たまげ)てまう」  僕は横眼で彼を確認する。  異状。 「じゃあ名前を呼んだからこうなったわけじゃな」  唐突に切れた。  タイガホース?きめらはん?  僕は彼の額にタオルをのせなおす。頬を撫でたり手を握ったりしたら幾分か落ち着いてきた。  おそらく禁句はヨシツネではなく富寿野。  髪の色がよく似ている。艶とか質とか。  母親が嫌い、故に逃亡。  公認家出。  さしずめ僕は駆け込み寺か。シェルタ。  僕が彼を居つかせることの利点。ちょうどいま考えているところ。       5  二メートルとインテリはめっきり姿を見せなくなった。平穏。彼女やサングラスが僕にいろいろ注文をつけてくることを除けば。  おかげで僕はあのバイトを辞めることになってしまった。店長に迷惑とか営業妨害とかそういうことではなく、一身上の都合。  そもそもカネが欲しくてバイトをしていたのだから、そのカネが他の方法で、しかもより楽な方法で手に入るのなら、辞めることはなんらおかしいことではない。  店長は渋い顔をしたが仕舞いには折れてくれた。  売り上げ。  お得意さん。特に僕目当ての。  脅すなり泣き落とすなりして僕を引き止めるより、さらに輝かしい広告塔になり得る男を探したほうが早い。  あなたが話のわかる人でよかった。いや、本当に。  せめて最後くらい食べていってくれないか勿論カネは取らないし。  じゃあ一口。  甘い。たるい、とは言わなかったが口直しが欲しかった。  駄目だ。  僕にはこの物質は吸収出来ない。  彼女の勧めで、僕はいま居る1Kのアパートから引っ越すことになった。徹底抗戦のつもりだったのだが、紛れもなく彼女は僕の出資者だということに気づき、僕は反対する意味を見失った。  大学から遠くなるとか立地条件とかそのような理由で反対していたのではない。  単に面倒だったのだ。僕一人ならほとんど身一つで移り住めるのだが、最大級のお荷物である彼、ヨシツネのことを考えると頭が痛くなる。実際に頭が痛くなるわけではない。僕はうまれてこのかた頭痛というものを感じたことがない。  海に臨むマンションの最上階。  八階建て。  飛び降りるにはぎりぎり。この辺りから下行く人が人でなくなる。  プールに温泉。真冬にアホみたいな南国気分。  必要物資は定期的に届く。  およそカネで買えるものがすべて手に入る。彼の面倒を看る代わりに。  交換条件。  ある人に言わせると安い。ある人に言わせれば高い。  僕はその中庸を採る。  大学生には快楽の季節。  受験生には地獄の季節。  あまりに暇で脳が融けそうだったので、何を血迷ったか僕は彼女の手伝いなんぞを始めてしまった。といってもサングラスのようにあらゆる事象を取り扱う専門事務など到底不可能だから、彼女の飼育する少年たちの世話を。  世間一般で思われている世話という概念とはひどく隔たりがあるが、僕はそれ以外にこの仕事を表現する方法を知らない。  ヨシツネは放任主義を貫こうが手塩に掛けようが大差ない。  しかし、彼女が惜しむらくは手塩に掛けさえすれば伸びる種族。僕はそんな少年たちの世話をする。  少年たちには名前と呼ばれるものがなかった。  勿論付いている種族もいるがかなり稀で。  僕が知り得る限り、名前の与えられた少年はヨシツネのほかに三人。  一人は直に見た。  一人は顔を知った。  一人は噂を聞いた。いずれの少年にも共通することは、  彼女の寵愛度合いが頂点、ということだ。  上澄み。特待。  ヨシツネはそれほど可愛がってもらっているとは思えないが、寵愛組四名の中では格下なのだろうか。  直に見た少年の名は柏原(かしはら)ウジタネという。彼がナンバワンだということはすぐにわかった。  名字がある。彼女に存在を認められると名前が与えられる。  さらに彼女に可愛がられると名字が与えられる。このことから考えてやはりヨシツネは可愛がられていない。認められてはいるが。  柏原ウジタネは、竹林に囲まれた別邸に住んでいる。  誰の別邸か。  勿論彼女の所有する住居のうちの一つ。かどうかすら実は曖昧。  僕には知っていいことといけないことが存在しているが、その二つは決定的に違うカテゴリに所属している別次元の致命的な他人というわけではなく、ひょんなきっかけでもう片方にすり替わることだってあるし、そっくりそのまま立場を共有することだってあり得るのだ。  要するによくわからない。現時点での中途半端な僕には判断が出来ない。僕にもたらされたものが知っていいもので、僕にもたらされないものが知ってはいけないもの。と早合点するには経験値も知識も足りない。  ウジタネ。  醸し出される雰囲気が彼女そのもので、彼と対峙するたびに否が応にも強く太い血の系譜を感じさせる。  跡継ぎ。しかし彼は否定している。  彼女直伝の謙遜かと思ったらそうではなく、本当に跡は継がないらしい。 「ぼくは養子に出されるんです。抑揚が奥様と違うのはそうゆうわけで」 「相手方の希望?」  彼は困ったように微笑む。  雪が池に落ちる。鯉は冬眠中だろうから平気だと思うが、  僕が吃驚した。 「だったらいいんですけど、ぼくはまだ会ったことなくて」 「背景だけは安心していいんじゃないかな。なにせきみの親になる人だから」  今日の僕の仕事はウジタネの世話だった。  ヨシツネは部屋に置いてある。死にさえしなければ彼女は何も言わない。  いや、例え死んだとしても何も言ってこない気がする。僕の監督不行き届き如何に関わらず。  小学生。中学生。高校生。  彼女の血が混じると年齢が特定しにくくなるらしい。  相対比較。  僕より低くてヨシツネより高い。彼女よりは大きい。  竹と竹の間を進むのに厭きて僕らは休憩する。  茶店であんみつを食べる。僕はみたらし団子。 「不安?」 「わかりません。いついつにどこどこに行かなければ、て知らされてれば違ったのかもしれませんが」 「不公平とか思ってる? なんで自分が、とか。他の奴にしろ、とか」  ウジタネは白玉を口に入れる。抹茶色の。 「ぼくのほうがマシ、とは思ったことありますが」 「どういうこと?」 「ぼくに適した方法が身体以外だった、てことです」  ほうじ茶の補充。  ウジタネは店員がいなくなったのを見計らって口を開く。 「ぼくみたいなほうが珍しいんです。みんなたいてい」  身体自体が売り物。 「ヨシツネってのは?」 「会われたんですか」 「会うも何も、僕のとこに居ついてる。いままで黙っててごめんね。話題が出なかったからなんとなく」  食べ終えたので店を出る。  再び竹林。 「驚いた?」 「そんな気がしてました。奥様が連れてこられる方はほとんど」  ウジタネは親指と人差し指で丸を作る。そこから覗く。  メガネかと思ったが。 「サングラス? ああ、そうなんだ。素顔見たことない?」  とかいう僕も見たことないが。見たくもないが。 「ヨシツネに会ったことあるの?」 「ほどほどには」 「ふーん、きみだけ特例なんだ。でもやることは同じ、と」  別邸で食事を採る。  暗くなってきて寒くなってきて帰る気が失せる。それを漏らしたら帰れと言われた。遠回しに。  僕は言葉巧みに玄関まで追い遣られてしぶしぶ靴を履く。 「正直に言うと、僕はきみのほうが楽だな。何もしなくていいし」 「ヨシツネ様が羨ましいです」 「なんで?」  ウジタネは手を振る。僕は強制的に屋外に。  羨ましい。  なんで、と尋ねたのはそれについてではない。どうして羨ましいか、なんてどうだっていい。僕が訊きたかったのは、  何故ナンバワンのウジタネが、  おそらくナンバフォーであろうヨシツネを様付けしなければいけないのか、ということだ。ランクが間違っている?   いや、僕は手に入れるべき情報を手に入れていない。  オートロックが面倒だ。セキュリティが鬱陶しい。  ヨシツネはソファですやすや眠っている。  窓全開。  天然冷風。日向ぼっこしていた。  僕は彼を床に落とす。 「きみの名字を聞いてなかった」  バルコニに引きずって手すりに背中を付けさせる。  高さ不足。デッキチェアにのせる。  上半身が手すりの恩恵に与れない。  これでいい。  彼は何をされているのかよくわかっていない顔で僕を見つめる。 「きみにおにーさんがいるよね? 柏原ウジタネ」  彼は頷かない。首も振らない。 「きみの名字は? 柏原じゃないね?」  彼は僕にしがみ付こうと腕を伸ばすが、  僕はそれをさせない。振り払う。 「ミナモト?」  それではあんまりだ。自分で言ってておかしいと思った。  彼は何も言わない。落ちないよう必死にもがいている。  動かないほうがいいのに。  闇の海。太陽はその方向にはない。  大洋はあるかもしれないが。  彼が涙眼になる。た、すけ、て。  僕はそれを思い出す。 「知らないの?」  そんなわけないだろう。自分で言ってておかしいと思った。  だが彼女に常識は通用しない。  彼女こそが常識であり、彼は依然としてコミュニケーション不全。  言いたくない。  だとしたらそれに見合う理由を述べればいい。僕がぐうの音も出なくなるような潔癖で完全な理由像を。 「ないの? あるんだよね? 口に出せないなら紙に書く? それでもいーよ。それか」  ケータイ。僕の名義のほう。  彼女直通機は彼にとって精神衛生上極悪。 「こっちにメール送ってよ。パソコンでもいーし。使い方わかるよね?」  ボタン操作。  僕は画面を覗かない。  僕は彼のズボンを脱がす。  彼が手を止めることはない。僕がそれを望んでいない。  最上階。  ここより高い建物は近辺にはない。  あったとしても見えない。見たければ見に来ればいい。少年の下半身くらい。  振動。  受信。彼はケータイを僕に返す。  タイトル〉空白  本文〉ブランク  空白やブランクと書いてあったわけではない。そちらのほうがまだ可愛げがあった。  しかし、彼が僕に送ってきたのは真の意味での空白とブランク。  パソコンのほうを確認するまでもない。  僕はデッキチェアに彼を放置してガラス戸を閉める。鍵をかける。  これはお仕置き。  或いはご褒美。  翌日、彼女直通ケータイはストを起こしそうだった。  受信ボックスがパンク寸前。ぜんぶヨシツネから。  すべて空白とブランク。パソコンもほぼ同じ状況だった。  僕はカーテンを開ける。  手招き。無反応。  いや、違う。  反応すべき個体がそこに存在しない。  デッキチェアに置き去りケータイ。  僕は一夜にしてヨシツネを見失った。ターゲットロスト。

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