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第4章 廃屋なのと妃の方否むしろ
ハイおくなノトキサのカタいなむシロ
1
黄の向こうに白。点滅する。ちかちかちかちか。
ぶお、と大きな音が聞こえて。
傾く。
腕を掴まれたような気がして。
大丈夫か、と。
ああすまん、と。答える。
具合が悪いのか、と。
悪ない平気、と。答える。
顔色がよくない、と。ベンチに誘導される。
電車が。そうか。
ホームから転落しそうだったのか。
命の恩人やね、と。礼を。
お礼。自分にできるお礼は。
押された気がした。きっと誰かが押したのだ。背をとん、と。両手で。あれだけ人がいればわからない。自分で落ちたように見えるだろう。自分で落ちた。とは思えない。
お礼をしなければ。
お礼を、と。訊くと。
首を振られる。お礼が欲しくて助けたんじゃない無事ならそれで、と。
電車が。
一人で帰れるか、と。
ああおおきに、と。頷く。
そういえばここは。
電車が。電車に。乗ろうと思って。
乗ろうと思って?
呪うと、思って。
行かなければ。どこに。
逝かなければ。どこへ。
往ね。
背が痛む。さっき押されたところだ。両手のあとがくっきり付いている。そう強く押していないが、指の力が強かった。ぎゅう、と。ぎゅうぎゅう、と。
キサが。
キサが。
いないなら。傍にいないのなら。
どこへ行こうが。どこへ逝こうが。
違いが見当たらない。
いままでご苦労様でした。
死んだはずの兄が生きていたことは喜ぶべきなのに。
檀那さま。
喪主は僕が務めます。ヨシツネさまはお遣りにならないでしょうから。
檀那さま。
なりたかったわけじゃない。なりたいかなりたくないかと問われれば、断りたい。なることに決まっていた。なるために生まれてきた。
檀那さま。
なってどうするわけでもない。墓に入るまでの時間稼ぎ。ちがうちがうちがうちがう。檀那様など譲ってやる。要らない。持っていけ。欲しいならば、くれてやる。大安売りの叩き売り。ロハ同然の、ほぼロハで。
電車が。
黄色の向こうに白。点滅点滅。
キサガタさんがこうなったのはぜんぶあなたのせいだ。ヨシツネさまがキサガタさんを愛していればこんなことには。あなたは何でも持ってる。僕の欲しいもの、欲しかったもの、欲しいと願うことさえ許されなかったもの。あなたはすべて手に入れていながら、すべて捨てていった。何が不満なんですか。何が気に入らないというのですか。僕は。
檀那さま。
亡くなったことも。
奥さま。
動かなくなったことも。
ヨシツネさまが元凶なんです。さきほどお目通りが叶いました。通訳の方だけですけれど。言伝を。ヨシツネさまである必要はない。僕でも構わない。
檀那さま。
僕が継ぎます。
ぶお、と。今度こそは。
電車が上を。
眼の前。ああまた。
背中にくっきりと指の跡。十本。さっきのと合わせると何本だ。
キサガタさんはヨシツネさまのことが。
まさか、鼻でも笑えない。ジョーク。
ヨシツネさまはヨシツネさまでも。
ちがう。
檀那さま、と。慕われていた。
つい最近まで。
奥様の秘書、と。名乗っていた。
ほんの数日前まで。
畿内の檀那、と。呼ばれていた。
ここにいるのは。ちがう、ヨシツネ。
幼名、ヨシツネ。初代が死んだところで引き継ぐ。
檀那さま。
キサを任せるんじゃなかった。キサから眼を離すんじゃなかった。五年前にすでに限界値を。もっと前。もっとずっと前。初めて会ったときも。何かがズレていた。
こっちも同じくらいズレていたから。気づかなかった。
うれしかった。優しくしてくれて。
あそこには帰りたくない。逃げてきた。誰も助けてくれない。自分でなんとかしなければ。隙を見て。走った。走って走って。雨が降ってきてそれでも。走って。
疲れた。
歩けない。
なんでキサが。キサが生きているならなんでもしたのに。キサの傍にいるためなら。アタマもカラダもぜんぶ。厭わない。染まろうが穢れようが。おっさん。
利用して吸い取って見殺しにしたのは。
先生はヨシツネさまが好きだった。それなのにあなたは。あなたがしたことは。
家出のための資金作り。
あなたでなくてもいいんです。僕でも。やりたくないんでしょう。僕が代わってあげますよ。僕のほうがキサガタさんを幸せにできる。こんなになるまで放っておいて。いまさらどんな顔で帰ってきたかと思えば。またキサガタさんを置いて。暗くて冷たい折檻窟に閉じ込めて。人任せにしてご自分は。
中学高校は楽しかったですか?
僕も楽しかったです、とても。お父さんがまやかしのお父さんだとしても。お父さんなんかいなかったとしても。おカネがなくても。まともにご飯が食べれなくても。眼の前でお父さんが殺される幻覚を見たとしても。
ぜんぶ幻なら、あなただって幻だ。キサガタさんに切り取られた檀那さまの一部も、魔法が解けてただの枕に戻った奥さまも。僕の大好きなキサガタさんも。大丈夫ですよ。僕がずっと傍にいます。だから起きてください。顔を上げてください。綺麗なお顔を見せてください。
ねえ、キサガタさん!
なにかゆえ。
なんかゆうて。
ダサもゲスも。そのためにいてるんやろ!
わかってる。聞きたくない。黙れ。静かにしろよ。うるさいうるさい。うるさい。喧しい。騒ぐな。動じるな。動じてはならない。動じないためには、動じること。倒れるまいと踏ん張るから倒れるのだ。一緒に揺れればいい。ゆらゆらぐらぐらと。流れに任せて。動じすぎればいい。鬱陶しいくらいに。
キサを奪られたら。
生きていく理由も意味も動機も。
電車が。
ぶお、と。
寒いさむい寒いさむいさむい寒い寒いさむい寒いさ、無為。
白の向こうに黄。黄は好きだ。金に近いから。カネかね金かねカネかね金金カネカネかねカネ金。
返してくれ。帰してくれ。かえさないと借りたものは。
「ここに」
いらっしゃったんですか。
「なんで」
わかった。わかるわけない。誰にも言ってない。
なんとなく。
そう、必ずそう答える。
言えよ。早く言え。
安心させてくれ。なんとなく、なのだと。
無言。無音。
右を見る。左を。正面を。上を。
なんとなく。
いた気がしただけの。
会いたい。キサに。どこに行けば。どこへ逝けば。
「なんとなく」
なんとなく。
聞こえただけの。
上を。
「さがしました」
やっと、会えた。会いたかった。会ってもう一回。
「好きです」
知ってる。
「だいすきです」
それも知ってる。
「俺を選んでください」
「それゆうために? 遥々、なに?カネは」
「借りました」
誰に。
ああそうか。仲間が。
そいつらから引き剥がしたのはどこのカネの亡者。
「帰らへんよ」
「俺も帰りません」
我が儘大会か。
「ガッコサボるな、てゆうて」
「俺はそこにいたい。ヨシツネさんの」
そばに。
座る。ぎい、と鳴る。
「帰ってくれへんかな」
迷惑だ。
「見てへんの?」
写真。
「捨てました」
「でも見て」
「わかりません、あんな」
「見ての通り俺は」
「好きです」
知ってるよ。
「だいすきなんです」
せやからそれも。
「となりがダメなら後ろにします。後ろもダメなら前にします。前もダメなら」
駄目なら?
傾く。倒れる。
電車が。ぶお、と。
線路に転落。したんだと思った。
背の。
何十個もある指の跡を。
撫でる。大きな手。
痛くない。硬いけど。
柔らかい。ぎこちないけど。
優しい。
ケイちゃんは。
「上げて、アタマ」
下を選ぶ。それがどうゆうことなのか。わかってやっているのか。そうでないのか。
偶然なのか故意なのか。恋か。莫迦莫迦しい駄洒落。
「あーあ、濡れとるよ」
雪の溶けてぐしゃぐしゃのコンクリートの上に。
膝なんかつけるから。
「エラい人なんですよね」
「まあ、せやな」
ついさっきまで。ついさっき、降ろされた。
「いまは下っ端やな。古参の、のうのうと生きとるだけの」
「ごめんなさいすんません」
は?
大きな。大きい。
カラダはとても大きいのに。
初めて見たときもそう思った。
やることが繊細だ。
「そんなん別に」
写真。ぐしゃぐしゃの。膝が濡れたから、というわけではなさそうだ。
もっと前に。
「俺に叱られたいのと違う?」
頷く。正直な、正気。
黙ってれば誰にもわからないのに。
わざわざ。きっと。謝りたくて、あの超常現象としか思えない力をフルに使って。捜しに来てくれたのだろう。ずアホお。泣いて土下座し。
ずアホおなのも。泣いて土下座すべきなのもケイちゃんじゃないから。
黙っておく。来てくれて。
「おおきにな」
2
門の前でボディチェックされるとは。びゅうびゅうの寒空の下。
黒尽くめに両側固められて歩きづらいったら。この身を案じて付いてくれてるのではないことは、よくわかる。威圧感。お前らついさっきまでへこへこして。なんという変わり身の早さ。即刻使い捨てだ。
「いくら払っても半日なんじゃないですか」
上から目線。慇懃無礼の典型見本。
マキチヨ。
「あんなあ、兄やん。頼みが」
「キサガタさんには会わせません」
「俺もキサが好きやさかいに。好き同士仲良うしよ」
退場の合図。何か禁句を言ったらしい。
「キサに謝ろ、思て」
「いまさら言葉が届くとでも?」
陰からダサが観覧。こいつも変わり身の早い。ゲスは。
そもそもここにはいないか。護衛対象が帰ったなら、また持ち場に戻ったかもしれない。
「治らへんよ、愛の力如きで」
うるさい。
退場命令。黒尽くめに腕を摑まれる。振り払う。こんなの慣れっこだ。
「離れか?」
「許さない」マキチヨが恨みを込めた眼で睨む。
「ええよ、憎んで。悪いの俺やから」
檀那様の座も、檀那様の名も、檀那様の任も。
「頼んでええか」
ずっと相応しい。
「なあ、檀那さま」
「その代わりに会わせろなんて言わないでくださいよ。キサガタさんは、もう」
言葉が届かない。眼線も合わない。
ヒトから遠ざかって久しい。
「どうしたらいいんですか。どうしたら、キサガタさんは」
元の優しい。
「離れか?」
頷く。離れ。たぶん、あっち。空調もない。窓もプラスティック。今にも壊れそうな廃屋。日なんかまったく当たらない。一年中日陰。夏は熱い。冬は寒い。
なんのためのものなのか。キサが平常を保つための。
立て付け最悪。閉まらないし開かない。マキチヨは小屋が視認できた時点からぐすぐすすすり泣いている。何か思い出したのだろう。想像に難くないが。
踏み抜きそうな床。蜘蛛の巣。湿った薄い布団。
キサが座っている。どこを向いているのだろう。
それが明後日ならいいのに。
「キサ」
無反応。
「キサガタさん、僕です」
無反応。
「ごめんな。キサに謝りたい思うて。俺が傍におったらこないなことに」
防げただろうか。傍にいるくらいで。
愛の力じゃ治らない。
「傍におって、そんでずっと、キサの美味い飯食って、たまーに逃げ出して」
「たま、じゃないですよね。毎度、です」マキチヨが言う。
「やかまし、お前黙っといて」
睨む。ちょっと、笑う。
「逃げたとこ連れ戻されて、折檻窟容れられて、そんでキサが見に来てくれて。そいつが厭やったわけとな、違うん。キサが嫌いんなったわけやのうて。そのな」
無反応。
無言。無音。
なんで動かない。なんで喋らない。なんでなんで。なんでこっちを見て微笑んでくれない。なんで。帰ってきたばっかのときは、まだ。なんとかなりそうだと思ったのに。だから檀那様の代行をこなしてきたのに。
「キサ」
愛の力じゃ。
駄目なのだ。
「兄やん、あのな、言いづらいんやけど」
「向こう見てますから」マキチヨが気を遣う。
背中を向けたのを確認して。キサの後ろ。抱き締める。
冷たい。ニンゲンは恒温動物では。ニンゲンは。
キサは。
「に、た」
なにか。
「に、たい」
いやな。
厭な音が。
「し、た」
強く抱き締めても。むしろもっとよく聞こえる。そんなこと。聞きたくて抱きしめたわけじゃ。
マキチヨがこちらを見ている。謝罪は後でいい。土下座でも折檻窟でもなんでもこい。なんだって耐えてやる。慣れっこだ。逃亡常習犯の不良は。
唇。水気のない。
喋ってくれて喜ぶべきなのに。喋った内容が厭で口を塞ぐ。
なんという身勝手。
口を離すとまた聞こえる。聞きたくない。お願いだから。
し
に
たい
なんて
ゆわないで
キサを抱きかかえて本当の、正真正銘の離れへ。ストーブの前に座らせる。
暖かいのか寒いのか。どっちかでも教えてほしい。
「死なせてあげたほうが」
それ。
「ホンマにゆうてる? 本気で」
わかってる。マキチヨのほうが優しいことも。ヨシツネが間違ってることも。
でも。それでも。生きていてくれないと。
会えない。
「もう可哀相で。檀那さまがお亡くなりになったのは、キサガタさんがあとから来てくれるって、そうゆう約束したから。そうじゃないんですか?」
抵抗した様子はない。ただそこで、死んでいただけ。池を見るための座敷で。静かに。仰向けで。肌蹴た着物に飛び散っていた大量の。血液。生きたまま、切断。叫び声を誰も聞いていない。だから発見が遅れた。例え叫んでたとしても、止めようとしたら檀那さまが止めに入る。殺す。邪魔者は。
やけに詳しい。確実にダサは、のぞいていた。
だから、マキチヨが言ってることは正しい。そのすぐあとに、キサが来てくれる。そうじゃなければ、あんな顔で逝けない。
渡したくないのだろう。諦めたくないだけ。会う順番が悪かったね、とキサにいわれたことがある。順番。本当にそれだけだろうか。顔はほぼ一緒。遺伝子も。思考と性格。さほど違いがあるとは思えない。ニンゲンはそんなに差異がない生き物なのに。
「葬式は」
「明日です」マキチヨが言う。
キサは参列するだろうか。
参列してもしなくても、明日。本当にお別れのような気がする。檀那さまが燃やされているのに、正気でいられるわけが。
正気。いまが正気でないなら、正気。駄目だ。期待しては。
次の日は、最高の大吹雪だった。
3
すでに不可逆なところまでの決定事項。あとは受け入れるだけ。拒否も撤回も。俺の権限など無に等しい。
これからどうなる。悪いようにはならないとは思うが、その悪い状態を回避できたとは思えない。誰が得をして。俺以外。誰が損をしたか。俺だけ。俺が我慢すればいい。耐えられるだろうか。忘れる。
この五年をなかったことにする。考えられない。
「ああそうだった。式は来週ということで」トモヨリが言う。
来週? 急すぎる。
やはり、俺のいないところですべて丸く収まっていた。もしくは考える余地を与えないために。
「マサムラは」
「会長に新しい相手ができたのなら、まあそうゆうことですね。人事については僕らが口出しできませんから。社長さんのご意向次第では?」
いてもらうか。いなくなってもらうか。本当にその二択しかないのだろうか。
気分としてはクビにしたいが、首にして果たして代わりが見つかるか。
どちらが。どちらが最善。頭が働かない。混乱して。処理に追いつかない。
カネイラに相談したら、おそらく確実に。
「辞めさせないでもらえることできませんか」
ほら、予想通り。
「検討中だ」
「辞めても残ってもマサは」
つらい。
「俺だってつらい」
「僕もつらいです。だからお願いします」
本人に訊くか。本社。行くのが億劫だから電話。出なかったらそれまで。
呼び出し音。
呼び出し音。
呼び出
「そろそろ掛かってくるんじゃないかって」マサムラが言う。
「どうしたい? いまなら希望を叶える方向で努力する」
「カネイラさんは何て」
「決まってるだろ」
無言。
「初めからここに僕の居場所はなかった。いずれはこうなるって。こうなるのが正しかったんだよ。正しい未来に僕は」
「はっきり言え」
辞める。
引き止める言葉が浮かばない。
「こっちの都合だから、手当ては」
「ううん、気持ちだけで」マサムラが言う。
無言。
「止めたほうがいいんだと思うが」
「いいよ。サネ、そうゆうの苦手だって知ってるし」
「考え直せないか」
無言。
「僕がいる限り会長は幸せにはなれない。せっかく結ばれるべき相手と結ばれたのに、間違った相手に眼の前うろうろされたら腹が立たないかな。僕の立場上、会長と会わないなんてことは」
「変えてもいい」
「同じだよ。どこに行こうと、僕に張られたレッテルは剥がれない」
俺だって。
「ごめんね、いまさらだけど。僕がいたからサネも厭な思いして」
「お前が悪いわけじゃない」
無言。
「行くところはあるのか」
「さてね。どうしようか。何も考えてないよ」マサムラが言う。
そろそろ切ったほうがよさそうだった。
なんて、無力。
カネイラが首を振る。謝らないで、と先手を打たれた。
謝るな、たって。
「マサが決めたなら僕は」カネイラが言う。
「行くか」
頷く。
「ご苦労さん」
「ありがとうございます」カネイラが頭を下げた。
閉店まであと。
静かだ。営業時間内にここで一人になったことは、なかったかもしれない。いつもカネイラがいて。むしろ俺のほうがここを空けることが多い。ああそうか。
やけに静かだと思ったら、ちょっと前まではとにかくうるさかった。関係ない輩が居座って。営業妨害甚だしい。帰れと言っても聞く耳持たない。俺の話なんか全然。目的が俺以外にあるから当然だ。目的が来ていなければ来るまで待つ。目的が帰れば一斉大移動。ここは溜まり場ではないとあれほど。もうそれも。
ない。
淋しいのだろう、きっと。あいつがいないから。
もしあのとき、ツネが俺の店に来なかったら。考えられないが、考えるとかなり恐ろしい。出会っていなかったことになる。そんな莫迦な。でもそうゆう未来もあった。むしろそのほうが確率が高くないか。出会わないのは簡単だ。引っ越さなければ。引っ越したところでどうしてここを選んだ。どうしてここだったんだ。
運命だとは思わない。おそらく好都合に利用できそうな都合のいい俺みたいなのを探した結果、たまたまだろう。でもそのたまたまは、なんだろう。
閉店まであと。
ベル。来客。いらっしゃいませ、と言いかけてやめる。
「ごめんなさい。五分だけ、いいですか」
「なんだ」
でこほくろ。
「追いかけないんですか」
「誰に言ってる?」
「えっとあの、しゃちょーさん」
睨んだせいが眼を逸らされる。ツネに対しては遠慮なくずかずか言ってのけるというのに。
「ここを放っぽりだせと」
「ちがくて。そうじゃない。よっしーは」
「言ってる意味がよくわからないな」
「好き、なんじゃ」
腰掛けろと促す。
五分だから、と断られる。
「お前に言う必要はない」
「俺は好きだよ。よっしーのこと。いちばん最初の親友だもん」
お前が勝手に言ってるだけだろ。親友なんか。
「だから、よっしーの親友としてがつんと言います。どうでもいいならそうすればいいし俺もこれ以上言わない。ここにももう来ない。でももし、もしじゃなくてそうなんだと思うけど、よっしーのこと」
好きなら。
「好きだが」
「だったら」
「好きだから追いかけるのか。その二つに関連があるとは思えないがな」
「だって、好きだったら」
一緒にいたい。
「親友は人の恋だの愛だのにまで干渉するのか」
「それは」
幸せになってほしい。
「五分経った。帰ってくれ」
「追いかけてないの」
社長さんだけだよ。
「だろうな。好きにしろ。あいつは」
俺のものじゃない。
閉店まであと。
閉めるか。そういえば夕食を食べ損ねていた。いまさら。インスタントスープを流し込む。味がしない。しょっぱいのか酸っぱいのか甘いのか。
ソファに横になる。食べてすぐ寝ると。飲んだだけだからいいだろう。
出しっ放しの文庫本。仕舞おうと思ってまだ。
あいつ何の本読んで。ミステリィ。好きなわけじゃなくて作者の文体が好みだとかで。差があるのだろうか。家に持って行けばいいのに。買ってくるとここで読んでここに置いていく。邪魔だから本棚を買ってやった。並び方にもこだわりがあるらしく、勝手にいじるとこっぴどく怒られた。出しっ放しにするほうが悪い。
見事に作者が偏っている。二人か三人の名前しか。これが、文体が好み、ということだろうか。出しっ放しになっていたやつを開く。ぱらぱらと、寝転んだまま。
なにか。栞が落ちてきた。
まずい。読みかけだっただろうか。どこに入っていたかわからなく。
なにを焦っている。あいつはもうここに。置いていった。要らない。
適当に栞を挟んで。栞?
なにか。
なにか書いてある。書店で購入したときに挟んでもらえる、なんてことのない。毒にも薬にもなさなそうな人畜無害の猫の写真。猫は喋らない。猫に吹き出しが。書き込んで。
簡単なクイズ。
問うことすら恥ずかしい。忘れるわけがない。忘れてない。忘れる。ことはしない。憶えている。外に出さなければ、憶えているかどうかなんて。
なんのためにケータイを買ってやったのか。
なんのためにケータイを置いていったのか。
両方とも、同じ目的だ。
暗証番号。四桁。手が震える。指も自ずと震える。
手首を摑む。息を吐く。息を吸う。
瞬きする。入力。決定。ロック解除。
送信待ちメール。
送信。
すぐに、
受信。
どうせなら送ってからいなくなってくれ。
テレビを点ける。当たらない天気予報。明日は全国的に。
カーテンを引きながら空を見る。自分の顔が邪魔でよく見えなかったが。
ハズレだろう。
雪だ。
あいつの予言のほうが当たる。雪のにおいがわかるらしい。どんなにおいなのか。聞きそびれた。
4
3階。カネイラも入れたことがない。私室。
どうすればいいのかわからない。何をしても間違いのような気がして。呼吸も鼓動も間違えている。自分がいちばんうるさいのではないか。空調より冷蔵庫より。
「強情やなあ。ドーテイやないんやろ?」ツネが言う。
その話は。いまはどうでも。
「ここ座り。ほら、こっちは時間あらへんの」
「別に」
別に。やらなくとも。
「カラダだけ、が気に入らんのやったらココロもあげるよ。いまだけ」
いまだけ。
いま、でなくなったら。
なくなる。それが厭だ。
「ああも、はよう」
腕。
振り払う。
肩。
「今日のいましかあらへんの。もう会われへん」
「お前は」
俺は。
「俺が?」
「聞いてない」
「ああ、そか」
す
き
が聞きたい。
「好きやで。愛しとる」
誰にでも。
「お前しかおらへんよ」
同じこと。
「なあ」
背。
体温。冷たい。
「それでお前の気が済むのか」
手切り金。
「せやから好きやてゆうてるやろ」
嘘をつけ。
「どんどん時間のうなるよ。お前早いならええけど」
後ろ。向く。
口。
あと数センチ。
「なんでやめるん?」
「違う」
こうじゃない。これじゃない。それじゃない。あれでもない。
ここにあるものは全部違う。こんなの、俺は。
首も腕も肩も背も。
「シャワー浴びよか」
「いい」
眼も鼻も口も耳も。
「服脱ぐえ」
なんでそんなに。
簡単に。
「しゃちょーさーん? 聞いてる?」
「ここに」
ずっと。
「居られないのか」
「無理やね」
「どうしても?」
喉が苦しい。
「期限切れ」
もう一生。会えないのなら。いまここで。
しん
でし
まいた
「アタマおかしなるほど俺んこと好きなのはようわかった。せやけど」
俺は。
「好きじゃなくてもいい。嫌いでいい。なんとも思ってなくていいから」
お前が。
いないと。
「カネやのうて、違う方法で俺のこと引き止めようとしたの」
お前が。
「おらんよ。そないに我が儘な」
「いないのか」
「たいていはカネやな。カネさえあれば手に入らんもんはないと思うとる。まあ俺もそう思うとるけど」
背と腕と頬と息と。
「もう少し」
このまま。このほうがいい。そこにいるのがわかる。
「なんや眠い」
「寝てもいい」
「風邪引くわ」
「運ぶ」
「ほお、眠ってる間に。へえ、そっちのほうがええの?」
「やりたいのはそっちなんじゃないか」
「はあ? なんやのそれ。人がせっかく気ィ遣うて」
離れる。
「もうええわ。帰る」
「泊まってけ」
「なあんも持ってきてへんよ」
「なんでもいいだろ。厭なら裸で寝ろ」
「うっわ、考えることが歪んどるないちいち」
見る。久しぶりに見た気がする。
「なに?」
「愛してる」
物凄く厭そうな顔をされた。ここでゆうか、とか。アホやろお前、とか。でもこのタイミングで言いたかった。
どんな言葉で伝えてもありふれたようにしかならない。なんて言おうが、言わなかったとしても。どうせ未来が同じなら。
「好きなんだ。初めて会ったときから。いまもずっと。これから嫌いになる予定もない。だから」
いなくなっても。
いなくなるのなら。
「だから?」
肩と唇にだけ。
触れる。
眼。
「ヘタくそやな」
「余計なお世話だ」
そこから先を、よく憶えていない。
気づいたら隣にツネが、裸で寝てた。相当厭だったらしい。俺の服を着るのが。
「なにをにやにやしとるの?」
「起きてたのか」
ちょっと吃驚した。眠っているとばかり。
「ホンマはネコやろ」
「誰が」
「俺」
沈黙。
「疲れた」
「触っていいか」
「そらもうどーぞご自由に」
うつ伏せ。さっきふと見えて気になった。跡が。
決してにやにやしていたわけでは。俺が付けたんじゃないとすれば。
「ああ、まだ消えへんか。昔な、いろいろ」
「話せないか」
「さあなあ。誰に、とか。なにで、とか。数え切れんくらい」
なぞる。くすぐったかったらしく、ツネは身をよじる。
「こそばい」
舐める。もっと暴れる。
「やっぱヘンタイやろお前。そないなことせえへんよ、ふつー」
そのあとも、よく憶えていない。さっきと違うことは、気づいたら隣にツネが、いなかったこと。代わりにケータイが寝転がっていた。
夢だったのかもしれない。そう思って時計を確認する。店を閉めたのが。何時だ。わからなくなってきた。全身がだるい。頭がぼうっとする。寝ぼけ眼でゴミ箱を。見覚えのないものが捨ててあるので、もしかしたらもしかすると。夢ではない。という可能性もなきにしもあらずで。
カーテンを開けるまでもない。降っている。
大吹雪。
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