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第5章 金魚は千夜の重ね盃

キンぎょはチヨのかサネさかづキ      1  殺してくれない?  厭だ。  死にたいんだ。  厭だ。  僕は死に方を思いつかない。  厭だ。厭だ。  厭な夢。髪がシャワーの後みたいに。雫が滴る。汗が止まらない。カラダ中の水分が出ていってしまう。シーツと枕カヴァが吸い取る。  寝ているのもつらい。足が重い。自分のところだけ重力が余分に働いているような。吐き気と頭痛と眩暈。  窓はどこだ。窓を開けたい。風に。  障子。襖。窓は。窓がない。窓窓窓窓。 「まだ夜だよ」  懐かしい声がする。この声の主がわかる。だからこれは幻だし夢。  キサだ。 「朝早いんでしょ。駄目だよ寝なきゃ」  窓を。 「窓? 開いてるよ。僕が」  開けておいた。  アタマがすっきりする。冷たい風。雪の。  におい。  雪が降っている。 「眠れないの?」  眠る気がないから。 「じゃあ起きてようか。僕も」  眠れない。  死にたい。 「殺してよ、ヨシツネ」  厭な夢。夢なんだから、もっと楽しい内容を。 「死に方がわからないんだ」  厭だ厭だ。  アノトキニシヌベキダッタンダヨ  呼ばれた気がして。ああそうか。そうだった。あまりにつまらなくてつい居眠りを。まだ終わってないらしい。お経。ぽこぽこ。  誰の。誰が死んだ。だれが、そこに。  隣にマキチヨ。向こうにダサ。黒尽くめはダースで数えるとして。ゲボ。低反発。誰がいて誰がいないのか。点呼を取りたい。いるなら返事。  ヨシツネ。  いない。それはあと回し。  キサ。  キサは?  連れてきたんだっけ。置いてきたんだっけ。  キサ。  まさかその。ぽこぽこぽこぽこぽこぽこぽこぽこ。  なんて名前、そう。木魚。ぽこぽこぽこぽこぽこぽこぽこぽこ。  死んだ。だれが。これは、いま。何をしているんだ。ぽこぽこぽこポコぽこぽこぽこぽこぽこぽこぽこぽこぽ。  何のために、そんな。お経。うとうとうとうとうとうとうとうと。ぽこぽこぽこ。  さすがに席を立ったらまずいか。マキチヨは俯いてしゃくりあげているし。ダサに観られてるだろうし。お経だのなんだの。死人に向けてるんじゃない。生きてるニンゲンのためにするのだ。葬式は。  葬式の夢。夢ならカラダだけ置いていけるはず。イシキとかセイシンとかそうゆうのだけうろうろしてこよう。眠くて仕方ない。眠気覚まし。  飛ぶこともできそうだったけど、飛ぶことに慣れてないので。歩く。壁にぶつかっても痛くないし、壁を抜けられる。眼を瞑っても辿り着ける。寒くない。  びゅうびゅう吹雪いた中を歩いても。歩ける。飛ばされない。  手水舎。柄杓に雪が積もっている。  水の中も、雪。  指で触れる。冷たいことはわかる。ひんやりと。芯を凍らせる。 「駄目だよ。抜け出してきちゃ」  カラダがアリバイ。 「戻れなくなるよ」 「キサ」  なあに? 「キサ」  触りたくて。手を。指を。  液体。氷に近い。  雪。白い塊。 「付いて」  来てた。  誰も誘ってくれないから。 「いつ」  この吹雪でしょ。タクシーも渋滞。全然動きそうにないから。 「歩いて」  来てた。  遠かったけどね。 「寒かったやろ」  温度センサは故障。  平気。 「キサ」  そんな顔しないでよ。ゲボって呼んでたじゃん。  人が死ぬのは。  慣れない。  君が泣いてるの、初めて見たよ。 「泣いてへんて。雪」  泣かないで。僕がいるよ。  僕がいる。  ずっと、ここに。  柄杓に躓きそうになる。雪に足を取られる。  雪も水も。冷たくて寒いだけ。寒い。こんな寒い。寒い場所で。  水の溜まっている石の。  なかに、雪と水と。  カラダを置いてきたから。  ココロを連れてきたから。  浮かんで。沈んで。 「泣いてへんよ」  キサ。  夢だから。ぜんぶ幻。  青い白い赤い黒い。  やっぱり夢だから。一瞬で巻き戻し。早送り。  キサの部屋。服と棺桶。そこにはいない。  ゲボの部屋。マキチヨが眠っている。そこにもいない。  小屋。隙間風の入る。見に行ってみたけど。そこにもいない。  折檻窟。行くのに時間がかかる。寒い。防寒具を忘れた。そこにもいない。  あとは。  離れ。いないような気がする。さっきまでヨシツネが眠ってたから。そこには。  アタマとカラダとココロと。  窓が。開いている。開けた憶えはない。夢で。  キサが開けてくれた。 「疲れちゃったよ」キサが言う。 「窓開けただけやろ」 「凍っててさ。水道もやばいかもね」  薬。散らばっている。中身。 「飲まなければよかった」 「ええよ。飲まんで」 「もっとひどくなった。喋れなくなったし。何をしてるのかもわからなくなった」  ストーブ。暖かくなるまで時間がかかる。 「まだ僕のこと相手にしてくれるんだね」 「なんで」  そんなこと。 「明日でしょ。僕も一緒に」  燃やしてよ。  生きたまま。生きてないけど。 「檀那さまと同じ棺桶に入れてよ。骨壷も墓も。ずっと一緒に」  ヨシツネ。  僕のゆうこと聞いて。  夢だった。どこからどこまでが夢で夢じゃなくて。じゃなくてぜんぶが夢。キサもいないのかもしれない。ここにも、どこにも。  離れの庭の柵を乗り越えて。雪が口に。檀那さま専用の風呂。露天。  湯なら温かい。  水なら冷たい。  雪が浮かんでいる。溶ける。降って、液体に触れて。  黒い赤い白い青い。  さっきのは夢じゃなかった。キサが会いに来てくれたのだ。最期の別れに。  泣いてへんよ。  泣いてない。  望みは叶える。望みを叶えてくれたから。  最初から、  勝ち目など。  くやしいくや しいく やしいくやしいなんでなん でなんでどうし てきさあああああああああ  あああああああああああ  あああああああああああああああああああああ  あああああああああああああああああああああああああああああああ  ああああああああああああ  あああああああ あああああああ   あああああああああ  ああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ ああああああああああああ  あああああああああああああああああ   ああああああああああああああああああああああ あああああああああ、あああ、あ。  抱き上げたカラダには。  アタマもココロもなくなって。  し          に  たい  雪のにおいがした。ニンゲンが消えてなくなるときの。       2  喪中により欠席。       3  あまりに下らなさすぎて早退。         4  よく考えるととんでもなく派手な格好だった。着替えてからにすべきだったか。着替えの時間が無駄だ。何事にも機運というものがある。  新幹線に乗った時点の着信数。  地下鉄に乗り換えた時点の着信数。  目的地に着いた時点での着信数。  だんだん少なくなったので諦めたと見ていいだろう。電話如きで舞い戻るとでも思っているのか。電源を切る。これでもう、数えなくて済む。  まずはエスカレータで最上階へ。順序なので逆らえない。幼稚園だか保育園だかの小さな団体が行く手を阻む。うっかり蹴りそうになった。危ない危ない。どこぞの誰かさんのように足癖が悪いわけではない。単に躓きそうになっただけだ。どこぞの誰かさんのように短気でもない。気が急いているのは確かだが。  中央の巨大な水槽に、これまた巨大な。サメだろうか。体表に斑点がある。その水槽を見ながら順路を進む。マンボウ。エイ。  皆一様にケータイを向けて何をしているのかと思ったら、撮影。集合写真のために何度も足を止める。迷惑だと思わないのか。思ってないからやるんだろう。  デート。友だち。家族連れ。このごった返しの中から御一人様を探すのは至難の業だ。幼いと確実に両親と一緒。学校に通うようになれば友だちと。そこを過ぎれば恋人同士。そしてまた家族に。勿論、ひとりで来たっていい。ひとりのほうが気楽だ。  縦に長い水槽の周りをぐるぐると下りていく構造なので、反対側で同じ水槽を見ている人が見える。眼が合うとなんだかばつが悪い。  やっと  見つけた  しゃがんで水槽に張り付いている割には、水槽など見ていない。俯いている。じっと動かずに。明らかに挙動不審だ。誰も関りたくないらしく、そこだけすっぽり空いている。他は押し合い圧し合いのぎゅうぎゅう詰めだというのに。  隣に立つ。立たせようとして、やめる。立ちたくないからそうしているのだ。無理に立たせることもあるまい。  暗くてよく見えないが、肩が震えている。寒いのだろうか。泣いて。  いや、まさか。  暗くてよく見えない。誰にもわからない。暗いから。水槽の中のほうが興味深い。二人の世界のほうが心地よい。 「遅いわ、ずアホ」  声が嗄れている。わざと指摘しなかった。  頷いて謝った。  必死で考えてきた言い訳も、何かの拍子にどこかに置いてきてしまったらしい。サメに食われたかペンギンにつつかれたか。 「それにな、なんやのそのおめでたい席の途中で抜け出してきました、みたいなカッコ。ウソくさ。女からカネ巻き上げる如何にも優しげなおにーさん、にしか見えへんよ」  我ながら上出来、かつ格好のいい返答を思いついたが、眼の前を悠々と泳ぐ巨大なサメに駄目出しされた。それはない。空気を読め、と。水の中にしかいられない魚類に言われたくない。 「ホンマにな、おそ」  い  わ  見下ろしているのがつらくなって思わず。どうせ誰も見ていない。見ていないのだ。あとで殺されるかもしれない。足癖の悪い足で蹴られたり、畳み掛けるような罵声を浴びせられるかもしれない。一生口を利いてもらえないかもしれない。それでも。  一生会えないよりは、ずっと。  そういえば接近禁止を見事に破っている。まあいいか。黙っていればバレないだろう。嘘をつくのは下手だが黙っていることには慣れている。口を開かなければいい。それだけのこと。大したことじゃない。  顔を見ないように立ち上がる。見えない。あの距離じゃ。  ツネが動くまでそこにいた。何時間か後、ふらふらと立ち上がってベルトコンベアの上にいるみたいに移動する。付いていくので精一杯。人にぶつからないように避けつつ、その速さを保っていられるのは、いったいどうゆうテクだ。  すっかり日が落ちている。真っ暗。曇っているので星は見えない。見えたかもしれないが、空は見なかった。見たほうがよさそうなものがほかにあった。街灯とか施設案内図とか噴水とか。 「雪、降るえ」ツネが呟く。 「だろうな」 「寒い」  関連施設らしきホテルに入る。一番高い部屋がよかったがない、と言われる。三ヶ月先まで予約でいっぱいとの。ツインかダブルか。いちばん安い部屋じゃないか。俺を誰だと思ってる。天下のKRE社長だ、といけないいけない。切れそうになって押し留める。  当日滑り込みで部屋があっただけでもよしとしよう。他に探すといっても、防寒具の類をまったく身に付けていないツネを連れて、雪が降りそうな寒空を散歩するのは気が引ける。 「いっちゃん安い部屋やね」  ちくちく文句を言われている気がしてならないが、部屋に着くまでは我慢。エレベータに乗るまでもないくらい地上から近い。やはり安い部屋なのだ。溜息。  狭い。シャワーを浴びて寝るだけと言ってしまえばそれまでだが、それにしたってもっと工夫すべきところが。これならうちのほうが広くて居心地がよい。値段も控えめだし。  張り合ってどうする。強いていえばオーシャンヴュー。海が見えるからなんだと。  ツネはベッドに寄りかかっていた。 「座ればいいだろ」  床じゃなくて。 「てっきりダブルやと」 「さすがにまずいだろ」 「なぁにをいまさらどの口がゆうてはるの」 「すまなかった」 「どっちに対する謝罪なん?」  いちばん安い部屋。  水槽の前でつい魔が差して。 「両方だ」 「ええよべっつに。来るのおっそいし」  それがいちばんいけなかったのか。しかし時刻を待ち合わせていない。  日付と場所だけ。  開館時間からずっといれば、いらいらするのも当然。ただでさえ短気で。そんな一日中いることはないのに。 「訊かへんの?」ツネが言う。 「なにを」 「なんで」  照明はつけていない。近づいても顔が見えない。カーテンも開いている。外からも見えない。空調もつけていない。かたかたと小刻みに震える。 「言いたいなら言えばいいし、言いたくないなら」 「ふられた」  見てない。 「俺、ふるなんてな、一京年早いゆう話やわ。天下のヨシツネさまやぞ。引く手数多のもってもて。なんぼ貢いでも惜しうない。ぜんぶ犠牲にして、俺に振り向いてもらうためになんでも、ホンマになんでもしよるん。アホやて、むっちゃくちゃずアホぉの」  聞こえない。  眼を瞑って耳を塞いで。  抱き締める。  そこにいればいい。それだけで。 「お前もアホやで」 「そうだな」  ツネをふった奴。おそらくもうこの世にはいない。この世にいれば、カネで買えないものはない。カネさえあればなんでも手に入る。地獄の沙汰もカネ次第。地獄にはカネの概念はないだろうから。あの世にいる。あの世にいるから手に入らない。  ふられた。ツネをフる理由がよくわからない。俺にはわからない理由でツネをフったのだろう。わからなくていい。わかったら、あの世に乗り込んでぶっ殺してやりたくなる。あの世にいたってもう一度くらい死ねるだろう。  微かに線香のにおい。髪と服と。服。なかなか見つけられなかったのは、それのせいもある。学ランかそれに順ずる普段着しか見たことがなかった。一瞬どころかいまも誰なのかわからないくらいに。 「似合ってる」 「遅いわ」  ほんまに。  セリフをとったら睨まれた。すぐに見えなくなる。  吹雪いてきたのでカーテンを引いた。       5  だれもさわるな。  だれも近づくな。  だれも。  くるな。  きさはきさはきさはきさはきさはきさはきさはきさはきさはきさはきさはきさはきさはきさはきさはきさはきさ  だれにも。  黒尽くめを何匹か再起不能にしたかも知れない。仕方ない。邪魔をするから。ついてくるな。金魚のフンみたいに。お前らが付き添うべきは。 「どこに行くんですか」マキチヨが言う。  どけ。 「目的地によっては、僕はあなたを」  どうする。  ころす。それでもいい。  やってみろよ。 「行くならひとりで行ってください」  蹴る。避けない。  吹っ飛んで壁に。  力の加減ができなかった。蹴ったあとに気づいた。気づいたら。  脚が。 「お、いていってく、だ」  やらない。だれにも。  きさは。  きさはなんで。  なんであんなつめたいなまぬるいあついみずのなかで。  あおくしろくあかくくろく。  きさ。もうすぐだから。  もうすぐおなじところ。  また。  邪魔が。 「止めへんよ。いってらっしゃいませぇ」ダサが言う。  檀那さま。  だれが。だれがその。 「お名前決めましたさかいに。そんだけ聞いてってもろうても損は」  蹴る。避けた。  避けられるのは計算ずく。  背中。入った。 「あいか、らず、あばれんぼーなお人ですな」  ケイラクの  だんな 「先代が畿内でしょう。せやからね」  京洛。  だからそれがなんだ。  きさ。きさがいなければ。  またせている。かわをわたったむこうぎしで。  てをふって。  てをふって?  いやだ。いくな。  いかない  で  ヨシツネナンカキライダヨナンデヨシツネナンカニ  葬式は急遽延期になった。猛吹雪。きっと一度に人が死にすぎた。におい。あまりに強すぎて、片方が詰まって。横から白い塊が吹き付ける。歩けないし、こんな日に外に出るのは単なるアホぉの。 「風邪引きますよ」マキチヨが言う。 「俺はアホぉやさかいに。しっかもず、の付く。放っといてくれへんか」  聞こえなかったようで。マキチヨが耳に手を当てる。パラボラアンテナのように。  ジェスチュア。手で追い払う。  引っ込んだ。やれやれ、と思ったのも束の間。ダウンジャケットを持って出てきた。 「せめてこれを」マキチヨが言う。 「ええて」 「じゃあ僕が着ますけど」  どこぞで見覚えが。  袖を通そうとしたところを引っ手繰る。それは駄目だ。  キサの。  着てた。  においが。雪の。  寒い。  寒い。本当に寒い。  キサ。  寒かったんだろうに。  いよいよ息が苦しくなってきた。まともに呼吸をしていなかったせいか。アタマがふらふらしてきた。吸ったところで白い塊。違う。欲しいのはもっと、透明な。 「雪だるま作りませんか」  と言われた気がする。そこまでで記憶がぷっつり。  やけにアタマがひんやりする。カラダは熱いのに。  きもちい。  あのときのよう。キサに。  看病してもらいたいがために風を引いた。  枕元に。なにか。  盆の上に手の平サイズの。  雪だるま。  こんなことをするのはひとり。笑えてきた。熱も引きそう。 「あ、よかった。うなされてたようでしたので」マキチヨが言う。  起こしていいかどうか迷った。 「そんなん叩き起こしたったらええやん。気ぃ遣いすぎやわ」  しゅんとしてしまったので、面倒くさくなる。寝返り。 「まあ、看病してもろたらしいしな。おおきにありがとう。迷惑かけたわ」 「いいえ、そんな。そうだ。何か食べますか」 「いよかん」 「わかりました。買ってこさせます」  こ、させ? 「何か変でしたか」 「お前、ようゆうよーになったな。すっかり檀那さまの貫禄やん。この調子で頼むで」  黒尽くめに言伝る。決して下手に出ず上から押さえつけるでもなく。  やはり、向いている。 「そのことですが」マキチヨが改まって言う。 「ああ、譲るえ」 「あのときはその、勢いであんなことゆってしまっただけのことで本当は僕なんか」 「あーもー、僕なんか、禁止やで。次ゆうたらぶっ殺すさかいにな」 「ぶっ殺されたい気分です」  笑う。思い出したらしい。 「お元気そうで」 「そっちこそ。風の便りも聞かへんからとーっくにくたばったもんやと」 「くたばってたんです。でも」  北京。 「お声をかけていただいて。だからこんなところでぐだぐだしてるわけにいかないな、て思ったんです。そうしたらヨシツネさまがお帰りになられると聞いて」 「そら逆やな。俺が帰るゆう前提があって、お前が呼ばれたんやろ」  低反発もゲボも死んだから。  からかう相手がいなくなった。たったそれだけの。 「あ、溶けてる。どうしよ。水が」  畳に染みている。慌ててタオルを取りに行った。 「ええよ、そんなん。畳ごと変えたら」 「無駄遣いはしませんよ。だいぶ滞納してるらしいので」 「なあ、これ」  雪だるま。 「誰でしょうね。僕ちょっと違うことしてたので」 「そか」 「かわいいですよね。僕も大きいの作ろうかな」  不恰好でさほど可愛げのない。お世辞にもなんとも言いようにない。コメントを求められたら黙秘権を発動するほかない。  その代わり、優しさが詰まってる。作った本人がとぼけているのでそうゆうことにしておくが。風邪が早くよくなるように。わざわざ作りに来てくれたものだと。手が真っ赤になっただろうに。痛々しいあかぎれ。  眼を瞑ったら、気を遣って出て行ってくれた。  キサはどこだろう。万一顔をあわせたとしてもなかったことにしてくれるだろう。離れ。  白い。蒼い。  雪が積もっているのかと思った。畳。首を振る。もう一度眼を開ける。  顔の布。  取り払う。のにだいぶ躊躇った。あっち行ったりこっち行ったりうろうろ。部屋を何週もしてようやく。そうっと。両手で。  眼を逸らす。ゆっくり。戻す。焦点が合わない。ぎゅうと眼を瞑る。息を吐いて。  息を。  雪のにおい。死のにおい。雪が降る日は決まって人が死ぬ。人が死ぬのを察知して天が雪を降らすのだ。知り合いの雲に頼んで。  息を。  吸い込む。  咳き込む。化粧の。白い粉。  雪の。  粒が。  視界がぼやける。なかなか像を結んでくれない。  雪に。  水が。  溶けた。丸く。  キサ。  呼んでみる。  キサ。俺や。ヨシツネ。  帰ってきた。キサに会いとうて。  なあ、キサ。  なんで死んだん?  なんで逝ったん?  野暮な質問しないでよ。  せやな。俺は、ずの付くアホぉやさかいに。堪忍な。  丸と。  円と。  ずっと死んでたんだ。すっと前から。  死んでへん。キサは。  なに泣いてるの。ヨシツネらしくもない。ヨシツネに泣かれると厄介なんだ。奥様の秘書とか畿内の檀那とかに睨まれるから。ほら、泣き止んで。  ないてへん。おれは。  顔が赤いよ。また風邪引いたんでしょ。まったく面倒だなあ。  すぐ治る。  僕が看病しなきゃいけないんだから。早く布団に戻って。  もう少し。おっても。  駄目だめ。ひどくなって僕まで引いたらどうするの。  キサ。  ベソかいたって駄目だよ。  ありがとう。  なに、急に。キモチワルイなあ。  おおきにな。俺は。  キサのおかげで。  楽しかった。生きていけた。  そう。ならよかった。君のご機嫌取りは僕の仕事のうちだからね。  キサ。  キサ。  ほな、  さようならは言わない。また会える。また。  もう逃げ出しちゃ駄目だよ。  布を。  戻す。  雪が溶けてしまった。丸く円く。  逃げへんよ。俺は。  檀那さまになりたくなくて逃げてたんじゃない。ここが厭だから逃げ出してたんじゃない。ここにはキサがいる。逃げ出す必要も意味もない。  俺が  逃げてたのは 「あ、こんなところに」マキチヨが言う。  買いかぶりすぎた。見逃してはくれなかったか。  文字通り背中を押されて部屋に戻る。檀那様の部屋。布団に入る。冷たい。 「こじらせてひどくなったらどうするんですか。出られませんよ」  出なくてもいい。  とは言えない。もうお別れは済んだ。  あとは、  亡骸を始末するだけの儀式。 「ちょっとお待ちくださいね。いよかん買ってきてもらいましたから」  仕事が早い。絶対に継いでもらったほうが。 「だっさいの、出てきぃ」 「あらあ、バレましたな」ダサが機敏に姿を見せる。  こいつも相変わらず。堂々とやっているのが怒る気力を殺ぐというか。それが狙いか。 「そうゆうビョーキと違うん?」 「窃視症ゆうやつでしゃろか。なきにしもあらしませんねえ」  いよかんを剥いてくるだけならそうは時間はかからない。  そうか。気を遣って。 「ええ子ですなあ。どっかの誰かさんと大違い。よく気ぃのつく優しい。黒尽くめさんにも労いの言の葉をおかけになる。俺もうっかり懐柔されそうに」 「懐柔されたらええやん。お前、人事権あるんやろ」 「そんなん耳クソの足しにもならしまへんわ。要はやる気と素質と」  血。それが一番重要。  どれだけ力があっても、相応しくても。北京の血を引いていなければ、息を吸うだけで許可が要る。 「どないします? 京絡の」ダサが言う。 「なんやそれ、けらく、みたいやな。快楽の」 「わかりました? うれしいですわ、気ぃついてもらえて」  気が抜ける。いよかんが待ってるので追い払う。 「まあ俺としましては、天下のヨシツネさま。推しますさかいに」 「とっとと消え」  手を振る。振ったのは向こう。病人にそんな重労働。 「ごめんなさい。剥くのに手間取りまして」マキチヨがいよかんの入ったガラス容器を床に置く。 「うまそやね」  手は赤くない。さっき言ってたことは本当かもしれない。とぼけたのではなくて、本当に知らなかったのだ。  そうだった。マキチヨはそんなに器用じゃない。手際が悪くてとろくて、何をやらせても失敗の。思い出したら腹が立ってきた。  いよかんを剥くだけでこんなに手間を取る。オレンジと違って手で剥ける。それなのになんでこんなに実がなくなるんだ。わけがわからない。黒尽くめだってもう少し丁寧な仕事を。  雪だるま。  手を振ったときに気づいた。まったく。  いい年してガキっぽい。 「あれ? 新しくなってる」マキチヨが言う。  こちらの反応を見ていたのだ。雪だるまを置いて。天下のヨシツネさまがどんな顔をするか。 「いつの間に」 「ホンマ、ぶっさいくやな」  推薦されたからには。  全うな理由がなければ断れない。

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