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俺たちの関係──第31話
*
「橘、次の君のヒートについてなんだが」
「ん……」
熱を発散してもらうだけの行為を終え、帰り支度を始めた背中をぼーっと眺める。爪で引っ搔いてしまったせいで、綺麗な肌に痕が付いている。
まぁ謝っても、「別にいい」しか返ってこなかったけど。
「予定通りであれば再来月の23日頃からだろうけど、ホルモンも不安定だ。予定日よりも3、4日前には籠っていた方が安全だと思う」
「あー……」
「丁度後期試験が終わった頃だ、以前と同様僕の家で過ごすということでいいだろうか。それとも会社系列のホテルか別荘がいいか?」
ヒートは年に三回ほど。前のヒートは……もう四カ月経つのか。
「いや、おまえん家でいい。どっかから漏れンのヤだし。今回も世話んなるって義隆さんに伝えておいて……悪いないつも、ベッドとか汚しちまうし」
「君に安全な空間と時間を提供することは僕の義務だ」
──義務、か。
チクリと刺さった胸の痛み。体調は劇的に改善したが、心は重いままだ。
「他に要求はあるか?」
「ない。体もけっこう楽んなったし。ありがとな」
「……そう」
姫宮がシャツのボタンをしめ終わった。
「さっきの話だけど、無理に君とのことを言いふらすつもりはない。ただ、大学に関わらず、僕以外にもα性の男はいる。どこにいても油断はするな、気を付けろ」
「わかってるって……ったく、がみがみうるせえな、おまえは俺のかーちゃんかよ」
「そういうことじゃない」
淡々と、姫宮は続けた。
「また、僕のような男に襲われたくはないだろう」
姫宮の声のトーンが、低くなった。
綺麗な背中しか見えないので表情はわからないが、きっと、難しい顔をしているに違いない。
こういう時、どういう反応をしたらいいのかわからなくなる。
だってそうだなとも違うとも、言い切れないから。
姫宮は俺に、並々ならぬ罪悪感を抱いてる。本人に言われたことはないけどそうに決まってる。だってそうじゃなきゃ、帝東大を蹴ってここには入らない。
俺に不測の事態が起こった時のために近くにいた方がいいだなんて、考えているに違いない。
つか、実際言われたし。なんでここ入るんだよって詰め寄ったら、「何かあったらすぐに対処できるだろう」って。
よくもまぁ、姫宮の親父さんが許したものだ。
──あの日、予期せぬヒートによって引きずり出してしまった姫宮のα性は、おぞましいほどに暴力的だった。
ラット状態のαの中には、本能の強さ故に理性を失うほど暴力的になる個体がいるらしい。
それが、姫宮だった。
朝方、俺は発見された。正確には、俺たちが。
最後の方のほとんど意識がなかった。けれども、「なにをやってるんだ!」と、誰かが俺に圧し掛かってへこへこ腰を振る姫宮を引きはがし、青ざめた年配の女性(教頭先生だった)が上着で体を包んでくれたことを、覚えている。
全治6週間以上。それが、俺に下された診断だった。
当時、俺は酷い有様だったらしい。たった一晩で、何人に暴行されたのかっていうくらい。
実際は、姫宮一人だけだったけど。
最中に、耐え切れず何度か兄の名前を呼んでしまい、その度に激昂した彼に殴られた続けた。そのため頬は腫れあがり、絞められた首には痣ができ、長時間縛られた手首は擦り切れ血が滲み、体中に刻まれた噛み痕はうっ血していた。
姫宮に凌辱された俺の体を診た医者も、かなり顔を顰めていた。
『子どもが、ここまで凶暴化するとは』
俺が寝ていると思ったのだろう。当時の担当医がぽつりとそんなことを呟いたのを、覚えている。
『もしかしたらこれが、運命の番……?』
子どもの頃は、よくわからなかった。
でも、今はそれを明確に否定できる。
(運命の番? ンなわけねーし)
むしろ鼻で笑ってやる。ありえねーって。
だって今の姫宮は、冷静すぎるくらい冷静に俺を抱く。さっきだって俺を組み敷く瞳は終始凪いでいて、噛み痕の一つだって残してこなかった。
キスだって、性的な接触時以外は決してしてこない。
されたとしても数えるぐらいだ。
7年という歳月は、相手の体を知り尽くすには十分な時間だった。
身体を重ねるたびに伝わる、お互いの虚無感。
ずっと一緒だよ、とかなんとか言ってきたのは姫宮の方なのに、その言葉通り一緒にいても全く楽しそうじゃない。むしろ憂鬱そうだ。
番になってしまった者としての責任みたいなのは感じるけど、それだけ。
昔は、馬鹿の一つ覚えみたいにちゅっちゅちゅっちゅしてきたくせにな。
今の姫宮は、あの日の荒々しさがまるでウソみたいにみえる。
──俺は、樹李のものです。
あの夜、狂ったように言わされ続けたセリフは、俺の口の中で出口を求めて彷徨っている。
「なぁ……姫宮」
「なに」
冷淡極まりない返答に、ぎゅっとシーツを握る。
『僕の、可愛い透愛』
なあ、姫宮。
おまえは、あの夜の凶暴さをどこに置いてきた。
根本的に、社会的弱者と社会的強者は相いれない。番になったらはい終了でも、お互いに幸せになってハッピーエンドでもない。
現実はそんなに甘くない。
こんなものが運命だというのならば、それはただの呪いだ。
生涯解けることのない、忌まわしき呪いそのもの。
お互いに好意もない、年に数回のヒート時にのみ顔を合わせて、俺が発情して、姫宮がそれにつられて。義務で抱いて抱かれて、快感を得るためだけに腰振ってケツ振って喘いで鳴いて善がって……のたうって。
それの一体何が、運命だっていうんだろう。
いまだに俺たちは、苗字でしか呼び合えないままなのに。
「おまえ、彼女いる?」
ぴくりと立ち上がりかけた姫宮の動きが、止まった。
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