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限界──第86話
頑なに押し黙る俺に痺れを切らしたのか、姫宮がヤケ酒の如くジョッキを煽った。
上下する姫宮の喉に、氷の溶けたジントニックが流れていく。
「は……クソまずいな。よくこんなものが飲めるね。水道水の方がはるかにマシだ」
でも、俺への嘲りが周囲に向くのは耐えられない。
「なんっ、だよその言い方……! おまえが来たいっつって勝手に着いてきたんだろ、なんでいつもいつもそう自分勝手なんだよ!」
「黙れ」
「黙るのはおまえだ、急にキレやがって!」
「身勝手な君に言われたくない」
俺より乱暴に置かれたジョッキの底が、割れてしまいそうだ。
「あの日僕は君に好きにしろと言った。来栖さんと付き合うんだろう? だから僕も好きにする。それの何が悪い」
姫宮の目はだいぶ据わっていた。それでいてくつくつと喉を鳴らしてせせら笑うものだから、少し腰が引けてしまう。
あまりにも歪な笑い方だった。姫宮のこんな顔、滅多に見ない。
「ねぇ、橘。君の服、キレイなYラインだね。よく似合っているよ」
「……は?」
「ハイウェストのスキニーの黒パンツに白シャツ、そして中はボーダーか。いかにも女子ウケしそうな格好だな、すごくカッコいいよ。ふふ、君の努力は本当に涙ぐましいね。髪も染めて、よくもまぁ毎日毎日上手に擬態しているものだ」
擬態。その一言に首の後ろがひんやりする。
夏祭りの日に乱暴してきたあの男たちにも、似たようなことを言われた。
透愛ちゃん、擬態が上手だねって。
「君の友達も、来栖さんも、誰一人として君を普通の男だと信じて疑わないだろうね」
「ひめみや」
口の中が、痛いほどに渇く。
「はは、かまととぶるなよ。本当の君をみたらみんなどう思うんだろうね」
「……」
「君、幻滅されちゃうんじゃない? もうそろそろ、潮時だと思うけど」
「──樹李!」
唾を吐き捨てる勢いで叫び、テーブルを叩く。
息が乱れ、肩が上下した。
名前で呼んだのは姫宮を止めたかったからだ。7年前のあの時も、名前で呼べば姫宮の激情はほんのわずかばかり和らいだ。
居酒屋特有のぼうっとした照明が、あの日窓から注いできたオレンジの光と重なって。
「やめろ……!」
ギリっと歯を噛み締め、唸る。
かつての姫宮の瞳には、怯え切った俺の姿が写り込んでいた。でも今は違う。お互いにそれなりに成長した。
今の俺は姫宮の言いなりになることはないし、姫宮が望んだ「いい子」になる気もない。
過ぎ去った過去に怯えてしまうことはあったけれど、今の姫宮は怖くない。
──そうだったのかと、この瞬間理解した。
夏祭りの夜、同じαでも、姫宮に恐怖を抱かなかったのはこれが理由だ。あいつらは俺をΩとしか見なかった。でも姫宮は違う。
姫宮と俺は、対等だった。
あの夏の日から今日まで、姫宮は一度たりとも俺を「Ω」として見なかった。Ωだからと扱われ、馬鹿にされたこともなかった。心配は、されたけど。
こいつは俺をずっと、「橘透愛」として見てくれていた。
襲ってきたあいつらをぶちのめした姫宮が怖くなかったのは、慣れじゃない。
こいつと身体の関係があるからでもない。
番、だからでもない。
俺を助けてくれたのが、他でもないこいつだったからだ。「姫宮樹李」だったからだ。
今、俺はそのことに気付けたのに。
それなのに今こいつは、俺を嘲った。
何もかもが違うと思っていた、あの男達と同じような厭らしさで。
「おまえ、そんな風に思ってたのかよ……」
力が抜けた。声がどうしても震えてしまう。
「俺のことを、俺を……」
卑しい賎しい、Ωのメスだって?
お互いに煮え立つような沈黙が続いたのは、たぶん10秒ほど。
「どうして今ここで、名前で呼ぶの……」
ぽつりと零した姫宮が俯いた。黒い前髪が落ちて彼の額を覆い隠す。
突然、姫宮が革の財布から万札を10枚以上取り出して、ばん、と叩きつけるようににテーブルに置いた。
枚数の多さに周囲がぎょっとする。
ここは古いタイプの居酒屋なので、現金しか取り扱っていないのだ。
「騒がしくして悪かったね。これは迷惑料だよ、どうぞ?」
大して悪びれてもいない姫宮がさっさと立ち上がった。「おい待て」引き留めようと伸ばした手は届かず袖を掠め。
「好きなだけ食い散らかして騒いでから帰ればいい。頼まれたって二度とこんなところ来るものか。反吐が出る」
奴は最悪過ぎる空気だけを残して去って行ってしまった。
「こ──のバカッ」
ごめん! と友人たちの顔も見ずに謝って、俺は急いで姫宮の後を追いかけた。
*
一方その頃、残された面々はというと。
「え、えーっ、なに今のぉ……!」
「すごいものみちゃった……」
「うっそぉ衝撃。そういうこと、だったの?」
「ちょ、ちょっとまて、どういうことだよ! 姫宮って来栖狙いだったのか? ごめん、俺てっきり」
「いーかげんにしろバカ、おまえってマジで幸せな生き物だな」
「あたたっ、なんだよ綾瀬ぇっ」
「うーん、姫宮、お釣り受け取ってくれるかなぁ……」
などなど、反応も三者三様だった。
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