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限界──第87話

「姫宮、待てっ……待てって!」  姫宮の背はだいぶ遠かった。靴も半脱げのまま、追いかける。 (これだから足の長い奴は!)  やっと追いつき、ぐんっと後ろから肩を引けばこれまでの早歩きがウソのように足を止めてくれた。力を失った姫宮の腕が、ぶらりと垂れる。  姫宮の髪が、少し乱れていた。  前に回って向かい合っても、姫宮は斜め下を見ていて俺と目を合わせようともしない。  ここは繁華街から少し外れたアーケードだが、人通りがないわけじゃない。男2人が妙な体勢で手を繋ぎ合っていれば奇異の目で見られてしまう。  でも今は、人の目なんて気にしている場合じゃない。 「おまえ、なんであんな態度取ったんだよ! 得意の猫っかぶりはどーした、もしあいつらが今日のこと誰かにしゃべったら……ッ」  おまえの、立場が。 「一生童貞なのが辛いの?」 「……は?」  会話のキャッチボールどころが、変化球をぶつけられて目を瞬かせる。  それが先ほどの瀬戸の発言であることを思い出すまで、数秒かかった。 「人生終わったも同然、か。じゃあ代わりに、僕が君に足を開けばいいのかな」 「な……に、言ってんだ?」 「構わないよ、別に。いくらでも抱かれてあげるよ、これも番の義務だからね。それで君の気が済むのなら。今すぐホテルにでもしけこもうか?」  姫宮を見上げる。唖然とした。  いや本当に、何を言っているんだこいつは。 (抱かれてもいい? 義務? 馬鹿言うなよ)  俺はおまえを抱きたいんじゃない。俺はおまえに──おまえ、に? 「俺は、おまえを抱きたいと思ったことなんて、一度もねぇよ……」  姫宮の整った顔が、歪んだ。 「えっ……わ」  二の腕をわし掴みにされて、浮き上がるくらいの勢いで路地裏に引っ張り込まれた。抵抗する隙も与えてもらえず、手首を掴みあげられて腕をダァン! と顔の横に押し付けられる。 「いッ、て……ぇ」 「そう。君は本当にみだりがましいΩだね。そんなに可愛い女の子に突っ込んで腰を振りたいの? 散々僕に突っ込まれて喘いでるくせに」  掴まれた手首がギチギチ軋む。力に圧されて指も丸まり、振りほどけない。 「く……」 「ねぇ、みだりがましいってわかる? 性的に慎みがなく品が無いって意味だよ。僕はね、7年前にそれを知ったんだ。他でもない君の体でね」  痛みに閉じていた片目を薄っすらと開ける。  姫宮の口角がぐぐっと持ち上がると同時に、手首を絞めつけてくる力も増していった。 「──君は苦しそうだった……痛いと、泣き叫んでいた。それなのに、最後は僕の腰に足を絡めて、僕の動きに合わせて腰を揺らしていた。とっても気持ちよさそうにね……」  ぐっと、鼻がぶつかりそうなぐらい顔が近づいてきた。  姫宮は、焦げ茶系が多い日本人の中ではかなり珍しく、虹彩が真っ黒だ。だからそれに重くて長いまつ毛が被さると、目全体が異様に黒く見える。  星が夜に呑まれて、闇一色になるみたいに。  初めてそれを知ったのは、7年前のあの夏の日だ。  ──急に、暗がりに引きずり込まれそうになった。 「いっぱい殴ったから、ほっぺも真っ赤に腫れちゃったね。何回殴ったんだっけ、覚えてないなぁ。だって君がイラつくぐらい抵抗するから。僕だって無我夢中だったんだよ?」 「姫、宮」 「縄跳びで縛った手首も擦り切れて血まみれで、体中に噛み付いたから至る所に僕の歯型がびっしりついて、グロテスクで」 「ひ、めみや、いたい」 「ああ、首の後ろが一番酷かったかなぁ、血も滲んで、君は暫く上を向いて眠れなかった。包帯すら、外せなかった」 「……っ」  両手首をひとまとめにされ、片手で頭上に押さえつけられる。  それでもびくともしないのは、俺が震えているからか。  するりと臀部に手が回ってくる。ぐいっとわし掴みにするよう持ち上げられた。 「特に酷かったのは肛門と子宮だったね。覚えてる?」

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