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姫宮 樹李──第102話

 橘の一部をランドセルの中に入れていると思うと、鼓動がはやる。  廊下ですれ違った担任に「気を付けて帰れよ」と声をかけられても、いつものような元気いっぱいの「は~い、先生さようなら」(笑顔付き)が返せないくらい、ドキドキしていた。  そして帰宅早々部屋に閉じこもり、リップを取り出し、キャップを開けた。  すうっと、鼻孔を通り抜ける爽やかなミントの香。  これが、橘のくちびるの匂い。  そう思ったら……思ったら、本当に突然、操り人形になったみたいに手が動いた。蓋を取ったリップを自分の口に近づけ、ぺろりと先端を舐めてみる。  その瞬間、びりっと電流のようなものが走った。  薬用リップクリームの苦味は、決して美味しいわけじゃない。  だというのに胸が、甘やかな何かでいっぱいになる。 「は……」  今度はそっと唇に押し当て、端から端までじっくりと塗り付けてみた。スースーする。そろりと寝台の小さな鏡を覗いてみれば、そこに映った自分の唇はしっとりと赤く濡れ、光っていた。  橘の美味しそうなくちびるに、よく似ていた。  鏡の向こうに橘がいる。僕を見ている。僕は鏡の中の橘のくちびるを見つめながら、自分の唇を舐めた。  その夜は枕元にリップを置いて、目が覚めては唇に塗るという行為を繰り返した。  使い過ぎて、ちょっとくちびるに違和感が残り痛くなったくらいだ。  そして次の日の早朝、誰もいない時間を見計らい教室に行き、リップを隅っこにこっそりと転がしておいた 「あ、リップあるじゃん!」  朝礼が終わり、隅に転がっているそれを見つけた橘が大げさに騒いだ。 「っかしいなァ、昨日ここになかったのにな……」 「おまえが見落としてただけじゃねー?」 「そんなことねぇもん、探したもん!」  友人にわーわー言い返しながらも不思議そうに首をひねり、橘はそれを乾燥した自分の唇に、塗りつけた。  その瞬間と、いったら。  まるで電流が流れ込んできたかのようにゾクゾクと背筋が伸び、自然と脚に力が入って、内股になった。  天にも昇るような気持ちというのは、まさにこのことかと思った。  その日は丸一日中、乾燥した唇にリップクリームを塗る橘を盗み見ては口を押さえて、ついつい漏れそうになる喜びの声を我慢し続けた。  帰宅時間になるまで、ずっと。  僕は橘にだけ、熱い視線を送っていた。

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