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姫宮 樹李──第101話

 橘と初めてまともに会話をしたあの日から。  僕は、おかしくなってしまった。  どういうわけだか、橘のことが頭から離れてくれないのだ。  *  ほんのりと茶けた色素の薄い髪は、毛先が遊びたがり跳ねている。  ふくふくとした血色のいい頬は、触れたら柔らかそう。  そして笑みの形にかぱりと開いた唇すら、惑うほどに赤い。  登下校の際は、橘の背で跳ねる黒いランドセルを目で追ってしまう。  緑を見ると、彼の目に痛い蛍光色のスニーカーを連想する。  どこにいても、何をしていても、橘のことが脳裏にちらつく。  イライラした。  その原因を探るべく、僕は「橘透愛」という人間を観察することにした。  橘は、単純明快な少年だった。全校生徒、みんな友達! とでも思っていそうなほど。  元気が有り余っていて溌剌として、しょっちゅう教師に煩いと叱りつけられていた。  そういやぼんやりとした日々の中で、ところどころやかましい何かが横切ることがあった。  どうやらあれが、橘だったらしい。  人懐っこい橘の周りには自然と人が集まり、彼は珍エピソードに事欠かなかった。  例えば、算数のテストでクラスで唯一の一桁点数を叩き出した時。  竹馬オリンピックなるものを開催し、放課後の校庭を占領した時。  転校してきた物静かな女子に真っ先に声をかけ、あっという間にクラスに馴染ませた時。  傘を忘れた女子に自分のを渡して、「足早いからぜってぇ濡れね~!」なんて叫びながら猛ダッシュで家に帰り、次の日見事に風邪を引いて学校を休んだ時。  そして、朝のホームルームに遅刻して駆け込んで来た時。  橘は「ちょっとな~」なんて笑うだけだったが、僕だけは理由を知っている。  自家用車での通学途中、見知らぬ老婦人の荷物を肩代わりし、彼女の歩幅に合わせて歩く後ろ姿を見かけた。  信号が切り替わったのでその後どうなったのかは知らなかったが、どうやら家まで送り届けたらしい。  バカなのかと思った。  自分の評価を害してまで、他人の苦労をなぜ負うのか。  天秤は、不利益側に傾くだろうに。  でもそれが、橘だった。  息をするように人に手を差し伸べる。僕に対してもそうだった。  僕が相手じゃなくても、きっと彼は同じことをしただろう。手を伸ばして、「友達になろうぜ!」なんて能天気な顔で笑うのだ。  そう思うと、さらに苛立ちが増した。  彼を知れば知るほど、橘を視界に入れたくてたまらなくなる。でも彼を見れば見るほど、橘に対するイライラが増していく。  だから見たくないのに、やっぱり盗み見ないと胸の奥がモヤモヤと蠢いて落ち着かない。  相反する気持ちが、橘のあずかり知らぬところでどんどんと膨れ上がっていく。 (やっぱり嫌いだ、橘なんて。気に食わない、気に食わない……本当に気に食わないよ、あんな奴)  同じ空間で息を吸い込み、存在しているだけで僕の心を乱してくる彼のことが。  僕は身勝手にも、気に食わなくなっていた。  *  ある日の放課後、教室に集まった女子たちが、「姫宮くんと橘、どっちを彼氏にしたいか問題」について語り合っているのを盗み聞きした。 「姫宮くんは美少年だし、橘はイケメンだよねぇ……ちょっとバカだけど」 「あ、わかる~」  鼻で嗤った──あの図々しくて無神経で頭の悪い橘が、誰かの彼氏になんかなれるものか。  それに、橘は彼女たちが言うように意外と整った顔立ちをしている。今、教室にいる適当な顔の女子が隣に並んだって、女子の方が見劣りするに違いない。そんなこともわからず橘と付き合いたいだなんて、哀れだな。  橘の相手は、特別可愛い子でなければ。  彼は髪が短いから、隣に立つのは髪の長い子がいいんじゃないだろうか。それに橘は地毛が茶色っぽくてくせっ毛だから、できればそれとは反対の、黒髪ストレートの子が似合いそうだ。  なら、黒髪のお姫さまみたいな子はどうだろうか。  そう……例えば僕みたいな。髪もサラサラで自慢だし。  ──はたと、止まる。  僕は今、何か、恐ろしいことを想像しかけなかったか?  僕が男にしては髪を伸ばしているのは、その方が周囲の受けがいいからだ。  それ以外の理由はない。なのになんで、どうして。  柄にもなく動揺して、焦った……なんでなんで、なんでだ、と。  何かに八つ当たりしたくてたまらなくなって──偶然にも手洗い場でリップクリームを発見した。  しかもこれは、橘が普段使用しているものだ。  よく物を無くす彼のことだ。大方トイレに落としてしまったのだろう。  躊躇なくそれを拾い、ポケットに入れて家へと持ち帰った。  掃除の時間、橘はリップがないないと騒いでいたけれども、返してやる気なんてさらさらなかった。  僕が、君の私物を持ってるんだからな、ざまぁみろ。  僕に困ればいいんだ、橘なんて。  

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