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喧嘩──第122話
「え、っと……ここ、病院?」
──橘が、僕を認識している。
した上で、一切怯えていない。あまりにも普通だ、一体どうして。
「あれ……透貴は? ここどこ? えっと……おれ、どうしたんだっけ……」
部屋の隅々を見渡す彼の姿に、そうかと納得した。
何が起きたかわかっていない。記憶が混乱しているのだ。
「うわっ、なんだよこの傷……いってェー」
橘が自分の腕を見て、うあぁと露骨にびっくりしている。
そこに引かれている無数の赤い線は、恐慌状態に陥った彼が自分で自分の身体を引っ掻き続けた痕だった。
それすらも、今はわからないのか。
「なぁ、ここ病院だよな? おれ、もしかして事故ったとか? けっこー時間とかたってる? 今日、何日?」
僕は普通に話しかけてきてくれる彼に、何も言えないでいた。
「姫宮? あ、もしかしておまえ、俺のお見舞い、きてくれたのか?」
僕が声を出したことで、橘がまたパニックに陥ったら。
ベッドの上で、点滴が抜けてしまうのも構わず逃れようと壁際に後退ったら。
誰か来てって、握りしめた手が血だらけになるほど壁を叩き始めたら。また気分が悪くなって、辛うじて胃に納めていた昼食を全て吐き戻してしまったら。
そんなことを考えると、橘を刺激したくなかった。反応することができない。
ただただ、服の裾を握りしめて俯くことしか。
ナースコールを押して看護師を待つか、それとも彼の兄を呼んでくるべきだろうか……でも。
「──ひめみや? おまえ、だいじょーぶか? 顔、青いぞ」
それは君だろう。
でも今の橘は、僕と会話することを求めている。
視線が、うろうろとさ迷う。『Ω性と診断された方へ~上手なお薬の飲み方~』などという説明書や、『これから覚えよう、自分の身体の仕組みのこと~Ω性でも毎日元気に、明るく楽しく!~』なんてくだらなそうな薄っぺらいタイトルの薄いパンフレットが、橘のベッドのサイドテーブルに置かれている。
いつも散乱してしまう薬の隣に、無造作に。
「……ぼ、ぼく……は」
橘は、相変わらずきょとんとした顔のままだ。
「ぼ、ぼく、は……」
少しでもいい、何か言わなきゃ。橘を安心させるようなことを──でも言葉が、一向に出てこない。
あのね、橘。
僕がここにいるのは、毎日君の様子を見に来ていたからだよ。
君のお兄さんは……よくわからないけど、たぶんお父さんと一緒にいるよ。
お父さんが、君に、そして君のお兄さんに酷いことを言ったから。
君のその腕の傷は、君がおかしくなって自分で引っ掻いた傷なんだよ。
シーツにいっぱい血がついて、大変だったんだ。
ここは、病院だよ。君がこの病院に運び込まれてからもう一か月くらい経ってるよ。でもそれは、君が事故にあったからじゃない。
君が学校でヒートを起こして、僕が君を一晩中犯してしまったからなんだ。
僕は君のうなじを噛んだ。
だから君はもうβ性じゃなくて、Ω性の人間になってしまったんだよ。そこのパンフレットにも、記載されている通り。
僕たちは、番になったんだよ。
だからこれから先、君はヒートを起こして苦しみ続けるんだ。
その都度僕と、身体を繋げなければならないんだ。
僕に、僕だけに、抱かれ続けなければならないんだ。
普通の生活だって、もう満足には送れなくなるかもしれないんだよ。
君はね、僕を求めずにはいられない、可哀想な身体になってしまったんだよ。
僕が、そうなるよう仕向けたんだ。
僕は、僕は……
「なんだよ、どうしたんだよぉ、ひめみや……えーっと」
黙し続ける僕に、橘は目に見えて困惑していた。
しかし、橘の声は、すぐに明るいものへと変わった。
「……あ、ああっ、なぁ、みろよあれ!」
久方ぶりに聞いた、楽しそうな彼の声に釣られた。
そろそろと顔を上げれば、彼は目を輝かせて、窓の外を指さしていた。
「なぁ! あの雲さ、なんかおまえみたいじゃね?」
「え?」
そこには、小さな窓枠に収まりきらないくらいの雲の王様が鎮座していた。
夏にふさわしい、大きな大きな入道雲……そうだ、今は夏だったんだ。
締め切られた窓の外から、くぐもった蝉の声が聞こえ始めた。
「な……なん、で僕?」
橘はやっぱり明るい声のままで、続けた。
「うーん、なんでだろ……あっそうだ、ふてぶてしい感じ?」
「──は?」
「ほら、どーんとでっかい感じがなんか神経図太そうっていうかさァ……おまえプライドたかそーだもん。なっ」
一体なにが、「な!」なのか。
白い八重歯を見せてきた橘に唖然としていると、橘は窓を指していた指をそろそろと下ろしていった。
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