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喧嘩──第121話

「……いいですか? どんな事情があろうが、貴方の弟さんは既にΩ性に変異してしまった。これから年に数回、必ずヒートは起きる。樹李の協力無しに、貴方は貴方の弟さんを守れるんですか? 抑制剤を過剰摂取すれば命にもかかわる。貴方の弟さんはこれから先、否が応でも、樹李とセックスをしなければ生きていけない身体になってしまったんですよ……Ω性の人間を我が姫宮の家に迎えることになって、迷惑をしているのはこっちだ」  カツカツと、煽るように父が革靴を鳴らした。 「こちらは、貴方の弟さんの将来を保証するとお約束させていただいたんです。うちが全面的にバックアップをすると、ね。それでこの件は手打ちでしょう? はぁ……大切な弟さんを不慮の事故で傷つけられてしまった貴方の気持ちはよくわかりますが、弟さんのためにも、少し頭を冷やしてよく考えるといい──では。樹李、いつまで座っているつもりだ。さっさと立て、行くぞ」  父は、はらはらと涙を零す橘の兄を冷めた目で一瞥すると、さっさとその前を通り過ぎた。 「……てめぇもっぺん言ってみろや」  そして真横に吹っ飛び、自販機に激突した。  父の顔面がめきょ、と漫画みたいにへこむところなんて、初めて見た。  強烈なパンチを右頬に食らって、父は自販機に手をついて、溢れる鼻血を呆然と押さえていた。 「頭冷やすのはてめぇの方だろうが……!」  犯人は、ついさきほどまで胸を押さえ、儚げに涙を零していた橘の兄だった。 「……、な、」 「さっきから聞いてりゃ性根腐りまくってんなてめえ、未熟な個体? 自分の息子をこれ呼ばわり? 性欲発散処理の棒? コドモの過ち? ガキのやったこと!? ああそうかよよくわかった、こいつがこんなこと仕出かしたのはどう考えてもてめぇのこれまでの教育のせいだろうが! それでも人の親かよ……ぁあ!?」 「え、いや……は? な、ん」  まるで般若のごとく、がらりと雰囲気の変わった男に父は驚きすぎてまともに声も出ないようだ。 「お、い……は、はな……やめろっ」 「うるせぇ! ケツの穴から手ぇ突っ込んで奥歯ガタガタ言わせられてぇか!?」 「な……」  なすすべなく、ガクガクと首を揺さぶられる父を呆然と見る。 「責任の取り方が全部間違ってんだよ! 子どもっつーのはな、親の背中見て育つんだ! てめえのきったねぇ背中の有様はなんだ? カス野郎ッ、この脂ぎった背中の皮ひっぺがして塩塗り込んでやる──こい!!」  父の方がはるかに身体は大きいというのに、橘の兄は殴打された衝撃のあまり力の入らない父の自慢の襟をわし掴みにして、芋虫のようにずるずると引きずっていった。 「あ……」 「あなたはそこにいなさい!」  思わず手を伸ばしかけ、しかし橘の兄に鋭く睨みつけられて、椅子に座り直す。  場所が廊下の突き当りだったため、大きな音に何事かと看護師たちが駆け付ける前に。 「ひィ……!」  非常階段の扉が閉じられ、父の野太い悲鳴がかき消えた。    *  ふらふらと橘の病室へ戻る。  引きずられていった父も、ブチ切れた橘の兄も、今はもうどうでもよかった。  ただ、橘のことだけが頭に浮かぶ。  面会謝絶扱いではない。医者からも、これから関わっていくのだから顔を見てお互いに慣れる必要があると、指示を受けている。  もちろん、無理をすれば橘がおかしくなってしまうので、慎重に。  今は誰もいないので、から……と開けやすい扉を引き、部屋に入ってみる。  ──橘は、寝ていた。  よかった……まだ、叫ばれない。  冷えるといけないからと、厚めのタオルケットはめくれた薄い腹にかけられていた。  より一層細くなった腕に刺さっている点滴が、あまりにも痛々しい。  扱けた頬は青白くて、死人みたいだった。  近くには寄れない。でも、傍にある椅子に座ろうとも思わない。  夕暮れの薄いオレンジが、狭い個室を照らしている。できるだけ橘から離れたところにぼうっと突っ立ったまま、ベッドに横たわったままぴくりとも動かない彼を、眺めた。  もう、事件から一か月近く経つ。  橘はまだ、僕のことがわからない。  今だって、目が覚めて僕を視界に入れてしまえば、また恐怖に慄き兄を呼んで泣くのだろう。  いつまで、この状態は続くのかな。  橘はこれから先、ずっとずっとおかしいままなのだろうか。  あの時は壊してしまえと思っていた。どんな形であっても手に入るのだから、それでいいのだと。  でも、欲しくて欲しくて橘を無理矢理手に入れたら、肝心の橘が遠くへ行ってしまった。  橘の陽だまりみたいな笑顔が、跡形もなく消えてしまった。  笑ってくれない。  たったそれだけで、胸の中に暗い穴が空いたような気分になる。 (僕は──僕は、橘を……) 「ひめみや?」  驚きすぎて、反応するのが数秒、遅れた。 「姫宮、じゃん。おまえ、なんでここにいんの……?」  しばらく逡巡して、ようやく顔を上げる。  上を向いて寝ていたはずの橘が、顔を傾けて僕を真っすぐに見ていた。  ベッドに寝そべりながらも、不思議そうに。これまでとなんら変わりのない、あどけない表情で。  ────────  大人組の喧嘩(という名の指導)はここで勃発していました。

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