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喧嘩──第120話

 どうやら盗み聞きをされていたらしい。  彼は快活な橘とは違い、随分と大人しい印象の男だった。  あれだけ憎々しく思っていた相手だというのに、実際のところほとんど彼の顔を見れていない。  橘は僕のだって、言ってやりたかったのに。 「おかしいと……おかしいと思ったんです。透愛は、私にメッセージは送っていないと言っていました。最初は、混乱しているだけかと思っていました……でも今思えば、確かに違和感があった」  橘の兄がバッグから取り出した何かを、僕の目の前にぐいっと突き出してきた。  それは、あの日僕が電源を落とした橘のスマートフォンだった。 「これは……これは貴方が、透愛のふりをして、私に送ってきたものですよね?」  開かれているのは、メッセージアプリ。 「とあは、ね? 太田くんのことを春政とは、呼ばないんですよ。太田って、いうんです。ふざけて名前で呼ぶことはあるけど、これはそんな文脈じゃなかった。それに、あの日あの子たちは透愛とは遊んでないって……学校でしか。公園に、行く前に透愛は家に、帰ったって」  考えればわかることだった。小さなミスを仕出かした。  冷静でいたつもりで、内心ではかなり焦っていたらしい。太田とかいうクラスメイトの本名を橘が口にしたことを、僕の脳内は無意識のうちにしっかりと記憶していたらしい。  僕が、橘の兄に送り続けた文章を見ていたくなくて下を向く。  それは、ほとんど肯定のようなものだった。 「やっぱり、そうだったんですね?」  橘の兄の唇が、わなわなと震え始める。 「こんな……ここまでの冷静さがあって、一体何がラット状態だと──……!」 「ほぉ、おまえそんなことまでしていたのか、やるな。手段を選ばないところまで私にそっくりとは」  父が、ふらつく橘の兄──透貴に向かって肩を竦めた。 「で、橘さん。貴方は何をおっしゃりたいのですか?」 「……は?」 「つい先ほど私の申し出に貴方は同意し、弁護士を通して話し合いも終えた。それ以外の事実が今更判明したところで何になるというんです? 行くぞ、樹李」 「ま、待ってください! まだ話は終わっていません」 「はァ……子供のやったことでしょう、そんなに熱くならんでください」  あまりの返答に、橘の兄は声を失ったらしい。 「確かにうちの息子は貴方の弟さんに暴行を加えましたが、それは貴方の弟さんが激しく抵抗したからでしょう?」 「……どういう、意味ですか」 「そのままの意味です」 「透愛が、黙って犯されればよかったとでも?」 「貴方の弟さんが悪いとは言っていない。ただこれはまだ幼い、本能を抑えるだけの理性も培っていない未熟な個体なんです。そして、それは貴方の弟さんも同じだ。そんな状態で抵抗の一つでもされたら暴走してしまうのが普通ですよ。それにこれがあそこまで極端なラット状態になったのは……貴方の弟さんも、原因の一つだと思いますけどね」 「……なにをおっしゃりたいのですか」 「第二性性質検査の結果も見せていただきました。貴方の弟さんは、下手なΩよりもΩとしての素質が高いでしょう。instinctの値は規定値をゆうに超えていた」 「それは、樹李くんも、同じでしょう? 透愛が、とあが悪いとおっしゃりたいのですか? 姫宮さん」 「だからわかりませんか? 今回の件は未熟なもの同士が偶然ぶつかってしまった……コドモ同士の過ちだと言っているんですよ、橘さん」  静かな廊下が、さらに冷え切った。  橘の兄の唾を飲み込む音が、やけに大きく響いた。 「……透愛は好きでヒートになったわけじゃない。突然αに、貴方の息子に乱暴された被害者なんです……っ、今も毎日毎日苦しんでいます。それは貴方もわかっているでしょう! あんな小さな身体で、透愛は悲鳴を上げ続けているんです、あの子の痛みがわかりませんか?」 「ええ、わかっていますとも。そこまで言うのなら民事裁判でもします?」  縋り付くように胸元を掴んできた透貴の手を、父は強く払いのけた。  そして乱されたスーツのネクタイを、煩わしいとばかりにきゅっと正した。 「それでもいいですよ、私は。治療費はこのままお支払いするとして……それ以外の慰謝料はいくらがいいんです? 貴方に支払う損害賠償などはした金だ」 「……」 「まぁ裁判の決着がつく前に、貴方の弟さんが狂い死にしなければいいですけどね。そちらがその気なのであれば、私とて大事な息子を、貴方の弟さんの性欲発散処理の棒にさせるつもりもありませんから」  橘の兄がよろめき、壁にとんと背を預けた。  折れそうなほど細い腰だ、自力では支えきれないらしい。

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