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喧嘩──第119話

 小学校は、病欠という体で一週間ほど休んでから復学した。  橘は大きな病気をして、しばらくの間学校には来られない……という設定になっていた。クラスはざわついていたけれど、変わらない日常、変わらない世界が続いた。  ただ教室に橘だけがいない。あの溌剌とした声が聞こえない。  それだけで、あれだけ色づいていた世界が再び白黒へと戻ってしまった。  そして放課後は父親と共に、橘が入院している病室へと足を運び謝罪をし続けた。  けれども橘はいつまでたっても、僕を僕だと認識してくれなかった。  幼い頃から自分を守ってくれていた兄という存在以外、何もわかっていないみたいだった。  ──橘は、壊れていた。  僕が壊した。壊れてもいいと思ったから。  彼のヒートに触れた瞬間から、思考回路がおかしくなっていたのか。  いいや違う、あの時の僕は確かに正常だった。  冴えきった思考で、僕は橘を確実に手に入れるための算段をしたのだ。言い訳はできない。  あまりの惨状に、冷徹と名高い流石の父ですらも、「あの子をどうするんだ?」と煙草を蒸かしながら髪をかき上げていた。  どうするもこうするもない、責任は取る。元よりそのつもりだった。  でも、今の橘とは話すこともできない。  少しでも近くによろうとすると、彼は「やだぁ」と泣いて泣いて、僕を拒絶して兄にふらふらと手を伸ばす。  3歳の、赤ん坊みたいに。  何が引き金となって、橘がまた身体中を掻きむしるかわからない。  僕を視界に入れた瞬間恐怖の路地に迷いこみ、パニックに陥り、酷い時は薬を打たれて意識を飛ばす。そんな日もあったぐらいだ。「家に帰る」と喚きたて、病院内を徘徊して連れ戻されることもざらだった。  日を追うごとに、橘の異常行動は増えていく。  次第に僕は、彼の病室に入ることさえ、できなくなっていた。 「どうして……どうして、こんなことに……」  半開きの扉から聞こえてきた橘の兄の慟哭は。  僕が毎日心の中で繰り返している言葉、そのものだった。  * 「よりにもよって卑しいΩを襲うとはな」  病院の奥の廊下で、それまで押し黙っていた父が口を開いた。  父の目の下には隈が出来ている。ただでさ忙しい中、息子の不祥事という不測の事態が続いて、心底疲弊している様子だった。 「おまえの軽率な行動のせいで、将来的にΩの男を身内に迎えることになったんだぞ。全く……これが外に漏れればとんだスキャンダルだ。ヒートに当てられたとは言え、おまえは一体何を考えてるんだ?」  つい先ほど、第二性専門の弁護士の仲介の元、橘の保護者との話し合いを終えたばかりだ。  決まり事は、いくつか。  1、この事件の真相を口外しないこと。  2、これから定期的に訪れるであろうヒート時には、必ず性交を行うこと。  3、橘の将来的な責任を、姫宮の家が負うこと。  4、18歳になったら入籍すること。  これらの取り決めにこれから僕は縛られることになる。  いや、縛られるのは橘の方か。  酷いことになったとばかりに舌打ちをして、父が足を組んだ。かなりイライラしている。 「それとも、これは私に対する当て付けか? 樹李」  父との仲は決して良好とは言えない。分かり合えるとも思っていないし、分かり合うつもりもない。僕がいずれ継ぐべき会社の頂点に座っている男、それだけだ。  けれどもその一言だけは、聞き捨てならなかった。 「──当てつけ?」  どうしてそんなことを考える必要があるんだ。  僕はただ、橘が……あの人が、欲しかっただけだ。 「当てつけだって? そんなくだらないもののために……」  口の端が、痛いぐらいに震えた。 「僕は橘を、手に入れたわけじゃない」  再び髪をかき上げようとしていた父の手が、止まった。 「おまえ……」  瞠目する父に笑えてきた。自分の息子が、こんなおぞましいことを考えていただなんて、思いもよらなかったのだろう。  自分でもわからなかった。  今僕が浮かべている笑みは、一体なんの笑みなのかと。 「どういうこと、ですか」  そして、あまりにも間の悪いことに。 「貴方はわざと透愛を、襲ったのですか?」  青ざめた橘の兄が、廊下の向こう側からふらふらと近づいてきた。    ────────  バレてしまいました。

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