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喧嘩──第124話
「なぁ、おまえの、こと、名前で呼んでも……いい?」
橘の声が、だんだんと小さくなっていく。
「おまえ、キレーだなぁ……」
そんな優しすぎる言葉を僕に与えてくれた橘はついに、うとうとと眠りの世界へと旅立っていった。
ようやく、鎮静剤が効いてきたのだろう。閉じられたまぶたは、きっとしばらくは開かれない。
そんな橘を前にして、僕の目からは涙が溢れて止まらなかった。
──僕が、キレイ? そんなわけがない。キレイなのは君だ。
僕はそんな君を、欲望に身を任せて汚してしまった。
そうだ、僕は……僕は君をこんな形で手に入れるべきじゃなかった。
君は、橘は、こんな形で手に入れていい人じゃなかった。
僕は……僕は──間違ったんだ。
今、僕の頬を伝う涙は一体どんな味がするのだろう。
シロップのように甘いだろうと夢見ていた橘の涙は、彼の絶望を溶かしたように苦く、塩辛かった。
橘という存在によって零れ続ける僕の目の雫が、白と黒に逆戻りしていた世界をゆっくりと溶かしていく。
まず、肌色が見えた。橘の肌の色だ。
次に、茶けた色が見えた。ほんのりと色素の薄い、焼けた橘の髪の色だ。遊びたがりで、常に四方に跳ねていたはずの髪は、しばらく洗えていないので油が滲んでぺたんと萎れている。
橘は入院してからしばらく、大きな音と水を怖がっていた。
あの夜のことを思い出すのだろう。耳を塞いで、歯をカチカチと鳴らして震えていた。
赤色も見えた。薄く開いた橘の唇から見える、舌の色。散々僕がしゃぶり尽くして、腫れてしまった舌。少しだけ、白いぷつぷつのできものがある。
ストレスからくるものだと、聞いた。
そして黄ばんだ白が見えた。少し伸びてしまった、橘の爪の色だ。
あっという間に深い眠りへと落ちた橘を起こさないよう、音を立てずに近づき、だらんと投げ出されたままの腕に指だけでそうっと触れてみる。
氷みたいに冷たかった。
そろそろと、紅葉のような小さな手を、取る。
久しぶりにまともに、彼に触れられた。
軽い、けれども重い。この世のどんな命よりも。
痛々しいほどの死と生の色をまとった橘が、ここにいる。
でも僕からしてみたら、この世に存在する色が全て、ここにいる橘に凝縮されているように見えた。
モノクロだった世界が、最後のひとしずくを押し出した瞬きによって、鮮やかなものへと変わった。
くぐもっていた蝉の声までもが、鮮明に。
気付いたら濃いオレンジ色の夏の夕暮れの世界が、僕を取り囲んでいた。
他でもない橘を、起点にして。
「いい、よ……」
眠る橘の傍で、震える声を絞り出す。
「いいよ、透愛……」
名前で呼んでほしい。どうかお願いだ。
でもきっと、遅すぎる僕の懇願は、橘の耳には届いていないだろう。
「僕も……君のこと、名前で、呼びたかったんだ……」
ずっとずっと呼びたかった。
再び彼が目覚めた時、それが叶うかはわからないけれど。
ひっかき傷の痕が、あまりにも生々しかった。手首に染みついた青痣も、血が滲んでいた噛み痕も、まだ完全に消えてはいない。
患者衣の隙間からのぞく怪我も相当酷いものだ。
あれからそれなりに、時間が経っているというのに。
どれほど容赦なく、強い力で、橘に乱暴してしまったのかを今更ながらに自覚した。
これらは全て、僕がつけた傷なのだ──胸を、かき毟ってしまいたい。
今になって思えば信じられなかった。なんでこんな痛々しいことができてしまったんだろう。
あの日僕はどうして、抵抗一つできなかった橘に、無体を強いてしまったんだろう。
心から嫌がっていたのに。苦悶に満ちた顔で、声で、喘いでいたというのに。怯えていたのに。もうやめてって、許してって、痛いって、気持ちいいのイヤだって、泣き叫んでいたのに。
僕と背丈もほとんど変わらないこの小さな小さな身体に、ありったけの激情と欲望をぶつけてしまった。
血が出るほどに噛みついて、皮膚がざらざらに擦れるぐらい舐めて、痣ができるぐらい殴って、手の痕が消えなくなるぐらい首をキツく絞めて、何度も何度も腹の中を抉り、犯してしまった。
僕はあの日、盛りのついた獣そのものだった。
怖かっただろう。苦しかっただろう。地獄を見ただろう。
僕はこの瞬間、ようやく、自分が引き起こした罪と向き合った。
橘は気を失ったように寝ている。
再び意識を取り戻した時、また彼はおかしくなってしまうのだろうか。僕にされたことをまざまざと思い出し、僕を視界に入れたくないとばかりに、目と耳を塞ぐのだろうか。
やっぱり僕を僕だと、認識してくれなくなるのだろうか。
仲直りしたいと言ってくれたことも、名前で呼びたいと言ってくれたことも、全て忘れてしまっているのだろうか。
口調こそはっきりしていたが、意識はずいぶんと朦朧としていたはずだ。
わからない。
「ん……」
橘がむずがるように小さく唸り、きゅっと、手を握ってきた。
慣れない感覚に、緊張で少し手が強張る。
その瞼が再び持ち上がる気配はない。でも目の前で、すぅすぅと穏やかな寝息を立てている橘だけが、僕の唯一の救いだった。
僕は、彼の肌に刻み付けたこの惨たらしい罪の残骸を、忘れてはいけない。
だからせめてと、強く強く、無残な傷痕を網膜の裏に焼き付ける。
「誓う、よ。もう、繰り返さない……」
もう二度と、同じ過ちは繰り返さない。
これから先、いいや、僕はこれから一生、自分の理性を決して手放しはしない。
「もう二度と、君を、傷つけないから……」
橘に牙をむく獣にはならない。この牙の鋭さは、死ぬまで隠し通す。
誰からの返事も返ってこない静かな病室で、僕は肩を震わせ、みっともなくしゃくりあげながら。
どこまでも眩しすぎるこの小さな身体に、そう誓った。
誓ったんだ。
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