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痛み──第147話

「君は何度注意したら覚えるんだ? 忘れすぎだぞ。いちいち返さなければならない僕の身にもなってくれ」 『あー……ごめん、ぼーっとしてた』 「そんな風に呆けてばかりいるから……」 『あ? なんつったおまえ』 「……いいや、なんでもないよ」 『なんだよっ、言いたいことあんなら言えよ。俺別に、呆けてねーし』 「へえ、自覚がないんだね。恐れ入ったよ」 『おまえは口が悪すぎるんだよ、嫌味な奴ぅ』  人の気も知らないで、相変わらずな橘にイライラもした。  そんなんだから、僕なんかに目をつけられるんだよ。  でもそう吐き捨てることもできず、何度も彼の私物を突き返した。  彼のものが手元にあるのは、正直嬉しい。けれども、そこにあればどうしても手を伸ばしてしまう。登山家がどうして山に登るのかと聞かれて、そこに山があるからと答えているのは有名な話だが、その気持ちが今ならわかる。  橘の欠片がそこにあるならば、手を伸ばすなという方が無理だった。  返すこともできなくて、ドロドロになっていたから捨てたよと嘘をつき、僕の部屋のショーケースに丁寧にしまっているものもある。  彼を家に呼ぶごとに、橘のコレクションが増えていく。  彼の下着も、歯ブラシも、その他のたくさんの忘れ物という名の宝物が。  時折取り出して、時間をかけて触れて、匂いを嗅いで、歯で噛んで、口の中で舐めてふやかして、ここにはいない橘を想う。  橘と触れ合える距離にいるというのに、彼に思う存分彼に触れられない。  これは、かなりのストレスだった。  数か月に一度しか会えない苦行に耐えられなくなり、夜にこっそりと、彼のアパートを訪れる頻度も増した。  もちろん、行為時以外、彼の家族に出迎えてもらえるわけもない。  だから裏手にある団地の階段に腰を掛け、彼の部屋をよく覗き見て、観察した。  ……橘と違って嗅覚が鋭いのか、彼の兄にはしょっちゅうバレてしまい、ぼうっと夜をまとう僕の姿を確認されるたびに、しゃっとカーテンを引かれてしまったけれど。    橘の兄に関しては、もう憤怒にも似た憎悪は抱いていない。  あの時、殴られたのは自分ではなく父親だった。あの日以降彼に睨まれることもトゲトゲしいことを言われることはあれど、手を上げられたことはない。  橘透貴という男は、今の僕にとって橘の一番近くにいる憎い相手ではなく、橘を育てた「橘の兄」という位置にカテゴライズされている。  もちろん、橘に心から愛されているであろう彼を好いてはいない。  彼がいなければ、きっともっと楽だった。  ままならない対抗心は、いまだにある。  けれども彼がいなければ、僕はきっと「今の橘」とは出会えなかった。それも、もうわかっている。  それに橘とは基本的に1対1で連絡を取ることができないので、どうしても彼を間に挟むしかない。  ──見定められている。これからの橘にとっての、僕を。  それがわかるからこそ、無茶はできないのだ。  ほんのり透ける黄色いカーテンから漏れる光から確認できる橘の影を、電気が消えるまで眺めたこともあった。  冬に吐く息が白い中、明け方になるまで、一晩中そこにいたことだってある。  しんしんと降り積もる雪の中、橘のひょこっと跳ねる髪が隙間から見えるたびに、身を乗り出した。  今、橘が笑った気がする。今、橘が怒った気がする。今、橘がテレビを見ている気がする。今、橘が上着を脱いだ気がする。  あ、橘が髪を乾かしている。相変わらず雑な手つきだ、僕が乾かしてあげたらもっと早く乾くのに。  橘が台所に立っている、何を作っているんだろう、橘の手料理を食べられる兄の存在が羨ましい。  あ、橘が見えにくい。せっかく横顔が見えやすい位置にきてくれたのに。あのカーテン、やっぱり邪魔だな。  橘が、橘が、橘が──橘が。  彼が何時に就寝するか、何時に起床するか。ただの生活習慣や時間帯を把握しているだけで、不思議と心が落ち着いた。  同じ部屋にはいられないけれど、彼と一緒の空間で、暮らしているみたいな気持ちになれて。  すぐ傍に、橘がいてくれる気がして。  この頃から陰でこそこそと、父親の仕事の手伝いが終わった時や、休日に時間を見つけては、橘の姿を覗き見るべく団地の階段に真昼間から入り浸るようになった。  右手には、このために新しく購入した双眼鏡。  まるで薬物中毒者だ。いや、橘中毒者か。  出来得る範囲で、橘を観察する日々。  橘を想い続ければ続けるほど、胸に開いた穴がさらに広がっていく。    そんな、3年目だった。

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