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痛み──第151話
橘は大学生らしく、香水も身に着け始めたみたいだ。
Ω性としての「香り」を出してしまった時に隠せるだろ? 不安定だしさ……とかなんとかもごもご言っていたけれども、まぁそれも一理はあるが、普通に付けてみたかったのが本音だろう。
橘は、イマドキの男だ。
爽やかな、ほんのりとしたフルーツ系の香り。
僕は何も身にまとっていない、「橘」本来の匂いが好きだ。
でもそのみずみずしい香水の香は、橘の清らかさをより一層浮き彫りにしていた。
大学から帰路につく彼の後を追うたびに、彼の横を通り過ぎる女たちが彼にちらちらと欲の孕んだ目を投げつけている光景を目にした。
できることなら見るなと牽制しながら隣を歩きたい。
けれどもそんなことはできないので、遠くからスタスタと歩く彼をこっそり伺うことのみに留める。
これは惚れた欲目だろうか、橘は随分とカッコよくなった。
細身の少年から、艶やかな色気と儚さをまとう青年になった。
まるで羽化をして、短い命の中懸命に鳴く蝉みたいに。
こんなにイケメンになってしまっていいのだろうかと、少し不安を覚えるくらいだった。芸能プロダクションなんかに声を掛けられでもしたら……テレビ会社ごと潰そう。
橘の顔が全国のお茶の間に晒されるなんて嫉妬で頭がどうにかなってしまう。
「遅かったな、橘」
ただ遠くから歩いてくるその姿さえも、カッコいい橘。
「くち開けて、橘」
いまだに慣れないキスに、うぶな反応を示してくる可愛い橘。
「ねえ、橘──しようか」
僕の愛撫に力が抜けきり、枝垂れかかってくる愛おしい橘。
「どうする、橘」
林檎みたいに真っ赤な頬で、じっと僕を見上げてくる愛らしい橘。
「──とあ」
夏祭りの夜。初めてヒートを起こしていない君を抱いた。
決して僕のモノにはならない、ただ一人の透愛。
人に、二度恋をすることはあるのだろうか。なら僕は、一分一秒ごとに彼に恋をしている。恋をした回数なんて数えきれないくらいだ。
仕方のないことだ。
だって橘は成長するにつれ、一分一秒ごとに素敵になってしまうのだから。
18歳になった彼は、この世にいる誰よりもキレイだった。
それでも、最中に、理性を飛ばした彼に引っかかれた背中の爪痕を鏡で確認しながら撫でる日々。
頬の引っ掻き傷さえも愛おしい。彼と僕を繋ぐ証だ。
しばらくは消えないでくれと願いながら、次の彼のヒートという僕にとっての降誕祭を、待ち望む。
そんな風に、今年という毎日も過ぎていくはずだった。
──はず、だった。
『あ、透愛くん、おはようっ』
『おー由奈、はよ。なんだよ、目の下クマじゃん』
『うん。結局あのあと眠れなくて、夜更かししちゃって……でも、LIME付き合ってくれてありがとう』
『ははっ、いーっていいって、俺も眠れなくてうんうん唸ってたから丁度よかったし。で、レポートは?』
『ちゃんと提出できたよ! 透愛くんのも次は、手伝ってあげるから』
『マジで!? さんきゅーっ……じゃああの課題とぉ、あれと、あれとあれだわ』
『全部はしません~』
『あの~由奈様! お荷物重そうじゃないですか、頂戴いたしますっ』
『持ってくれてもダメですよ~』
なんて、野球ボール一つ分もないほどの至近距離で、肩を並べて歩く男と女。
橘と、見知らぬ女。そんな女の荷物をさらりと持ってやる橘。『おまえこっちこい』なんて、さりげなく、流れるような動作で女を道路側から反対側に移動させてやる橘。
そこに混ざる、彼の友人たち。
『おまえ、いつまで来栖のこと待たせるわけ?』
『そーそー、おまえもまんざらじゃないくせにさっ』
『まぁまぁ、橘のペースってものがあるんだから』
なんて、女がいなくなった瞬間友人に背中を小突かれて、「まぁな」と苦笑して肩を竦める橘。
ぼうっとした頭で、それでもしっかりと盗み聞きはする。彼はなんて答えたんだっけ……ああそうだ──知り合ってまだ数カ月だぞ、早ぇだろ。そういうのはちゃんと順番をだな……とかなんとか笑って濁していたんだっけ。
濁すんだ、否定しないんだ。まんざらじゃないんだ。
あの日はどこをどう家に帰ったのか、覚えていない。
漠然と抱いていた不安が、的中してしまった。
橘がカッコよくなりすぎたせいで、悪い虫が付いた。
ぱっと見ただけでわかる。偶然同じ大学で同じ学部に入っただけのどこにでもいる低レベルな女。ただ僕よりも華奢で背が低くて体つきが丸くて声が高くて女の臭いがするだけのただの女。
甘ったるい悪臭を放つ勘違い女。反吐みたいな女。
そんな女に橘は、恋をした。
恋を、したのだ。
自分の手のひらを見る。
爪の形に食い込んた皮膚が裂け、血が滲んでいた。
憤怒にも似た憎悪が再び甦り、顔を上げる。
青い空が見えた。
──あのおんなころしてやる。
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次回 : 樹李ヘラります。ヘラ宮です。
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