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痛み──第152話

 赦せない。  どうして?  僕がいるのに。  赦せない。  赦せない赦せない赦せない。  どうして、どうしてどうして。  どうして。  あの女、あの女、あの女、あの女、あの女──あの女、あの女!!  来栖、由奈。  くるすゆな。クルス、ゆな。くるすユナ、くるすゆな。  嫌でも覚えた。あんな、女の体を持っただけの肉の塊のくせに汚らしい手で橘にべたべた触るな。顔に何かを塗りたくらないと人前に出てこれないレベルの醜女のくせに僕は橘に「好き」すら伝えられないのに無駄に腫れあがった脂肪を橘に押し付けて発情した猫みたいな声ですり寄って気色が悪い。  僕より勝る部分なんて穴の数が多いことぐらいじゃないか──あの女!!  殺してやりたい。  ああそうだ、殺そうか。  一人くらいならできそうな気がする。  僕と橘の生が終わるまで、犯人がバレなければいいだけの話だ。  αとしての頭脳をここで活用しないでどうする。  でも実行して万が一の確率で隠蔽できず、僕が実刑でも食らったら橘が苦しむな。  彼はすでに僕の番で僕と結婚していて姓は姫宮なんだから。  彼は僕の妻で僕は彼の夫なんだから。  彼を未亡人にするわけにはいかない。捕まったら誰が橘を抱くんだ。僕以外いない。いていいわけがないゆるさない。  だから殺すのは、ひとまずは無しだ。  実行するにはまだリスクが大きすぎる。他に何か手はないか。  橘を取り巻く環境の全てが憎くなった。  橘に笑顔を向けられる人間、橘に目を向ける人間、橘の吐いた息を吸う人間、全員何かしらで死ねばいいのに。  不慮の事故でも天変地異でもなんでもいい、息絶えてくれ。  あれだけ見たいと願っていた橘の笑顔が最近では見れるようになって、確かに僕は嬉しかったのに。  それが自分に向けられていないという事実がなによりも痛い。  深く自覚する、自身の身勝手さを。  でも、この身が擦り切れるような焦燥感の方が今は上だ。  どうすればいい、このままじゃ取られてしまう。  どんなに優しく組み敷いたって、丁寧に身体を暴いてあげたって、橘の心の中に僕はいない。  彼は、僕のモノにはならない。  橘の言動、表情、行動の全てが僕の神経を逆なでする。  橘が僕を見てくれないことに歯茎が痙攣しそうなほど腹が立つ。  僕は毎日毎朝毎晩毎秒、橘のことしか考えられないというのに。  これじゃあ、せっかくわざわざ同じ大学に入って朝から晩まで橘の姿を拝めると思ったのに、生き地獄そのものだ。  橘にあの女の影がまとわりついていないか気になって気になって、時間の許す限り、これまで以上に橘の後を付け回した。  もちろん、バレないように。  講義の席は必ず斜め前。橘たちグループの会話がよく聞こえる位置だ。  父親からは、「おまえの透愛くんのストーカーっぷりは日に日に酷くなっていくな」なんて憐れまれもしたけど、そのセリフそっくりそのまま返してやりたい。  ケツに指を突っ込まれて奥歯をガタガタ言わせられ、汚い背中の皮を引っぺがされて塩を塗り込まれた結果、弱者男性だと見下していた橘の兄の尻を追いかけまわしているおまえに言われたくはない。  しかもいつのまにか、父は橘を「透愛くん」呼びするようになっていた。  僕だって、7年前以降まだ一度も彼の名前で呼べていないというのに。  橘も橘だ、父のことを「義隆さん」なんて名前で呼んで、随分と砕けた態度を取るようになった。  僕のことは名前で呼んでもくれないくせに。  それでも橘に堂々と優しくできる父は、彼にとって僕よりもずっとずっと話しやすい存在なのだろう。一瞬だけ父に抱いた尊敬と感謝の気持ちなんてすぐにかき消えた。  7年という歳月の中で、父と橘の関係は変わった。  初対面の時は最悪極まりなかった、父と橘の兄の関係も、だ。  ただひとつ、何も変わらないのは僕と橘だけ。  気が急く。髪を掻きむしりたくなる。このままじゃ橘の心があの女に奪われてしまう。だってあの女も自然と、橘のことを呼び捨てするようになっていたから。  この前まで「くん」もついていたのに。  透愛って……とあって、呼ぶんだ。  どうして呼ばすの、橘。あの女が好きだから? 『なんだよ、透貴に殴られて脳みそすっぽ抜けたんか? おまえってホント、どうしようもねぇやつぅ』  そうだよ、僕はどうしようもない男なんだ。  君の兄に殴られたのはあれが初めてだった。きっとすさまじい表情で、君を犯そうとしていたに違いない。  確かに昨日の僕は本気だった。本気の僕を、橘に叩き込もうとした。  それほどまでに、自分の感情をコントロールすることが難しかったんだ。 『おまえがけっこー短気なのも、口が悪いのも知ってるし。それが、姫宮だしさ』  でも君が、僕の前でふにゃりと口元をほころばせるものだから。 『おまえみたいな性格悪い奴と付き合えるのなんて、俺ぐらいだよなぁ……』  そんなことを、言ってくれるものだから。  考えるより先に出ることが恒例となっていた嫌味すらも、どこかにすっ飛んでしまった。 『お、おい、姫み──うぉっ、なっ、なんだよ危ねぇだろ!』  橘の腕を掴み、場所も考えずに抱きとめる。 『お、おいバカ、離せよ、人が……!』 「そんなに僕と一緒にいるところ見られたくない?」 『……あたりまえだろ』  そう。  嫌で嫌で仕方がないのに、君はそんなことを言ってくれるんだね。 「橘」 『お、おう』 「君は、君は、僕と──」  僕は元々気が短い男だ。特に君のこととなるとそれが顕著になる。  それに、人当たりの良さでカバーしているものの、本来ならば口も悪い。  橘以外の他者を、他者とも思わない。自分の世界を構成するために必要となる人間以外、どうなろうが関係ないと心底思っている。  僕は生まれた時から、おかしい。  人として、いや人間としてそもそもが欠陥品なのだろう。  それでいいと思っていた。  でもそんな僕の前に、ある日君が現れた。  本当の僕を見つけてくれた。この手を差し伸べてくれた。  君は、そんな風に、おまえ性格が悪いなとはっきりと言い切れてしまえるこんな僕と──君は、まだ。  仲直りしたいと、思ってくれている……?

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