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キレイな人──第172話

 橘が一人で、何杯目かのウーロン茶をちびちび啜っている。  突然、知らされていなかった僕がこの場にいて迷惑していると、顔に書いてあった。  *   『おまえそれで童貞とか人生終わったも同然だぞっ、なんでそんなに枯れてんだよ!?』  橘に蟻みたいにちょこまかとまとわりついている小男のセリフが、耳から離れてくれない。  この男は橘が気に入っている人間の一人で、時折ふっと橘と同じ匂いを漂わせてくる男だった。  同じ香水をつけていると知って、橘のお人よしっぷりに怒りに拍車がかった。  それに、さっきから大声で橘の大きさが普通だとかどうとかこうとか──僕だって、今から1ヶ月と3日と4時間前の夏祭りでの橘の男性器を脳内にインプットできたのが最後だというのに。  この男は僕よりも橘の男性器を見る回数が多いというのか、忌々しい。  あの女の次に、目障りな男であることは確定だ。 『なぁ姫宮! おまえもそう思うよな?』  思うわけがないだろう。  女を抱けないのならば、男の人生は終わるのか。  ならもういっそのこと、橘が僕の下でどんな風に鳴いて、どんな風に僕に足を絡めて縋り付いて、どんな風に腰を揺らしているのかをここで知らしめてやろうか。  彼の男としての人生が、7年前の時点でとっくに終わってしまっていることを。 「あはは、それとはちょっと違うけど。うーん、強いていうなら──愚かな人、かな」  終わらせたのが、僕であることを。 「人の地雷を踏み抜くのが上手な人なんだよ。あと図々しくて無神経で頭も悪い。考え足らずで最悪レベルの人たらしなんだよ、本当に。誰に対しても平等でずかずかと人の懐に入り込んできて勝手に溶かして勝手に笑う、身勝手極まりない人間だ。それにバカだしね。とんでもないよね……ねぇ、みんなはどう思う?」  止まらなかった。 「正直、好きっていうのもちょっと怪しいんだ。好きって相手の気持ちを慮れる優しい気持ちを指すだろう? でも僕はそれじゃあ生ぬるいというか。相手の気持ちなんて割とどうでもよくて……というか邪魔だね、全てが。できることなら近づく奴ら全員、嬲り殺しにしてやりたいよ」  テーブルの下から、橘の足を撫でる。  橘の肩がふるりと震え、彼の前髪の付け根のあたりから、冷や汗が滲み出ているのが見えた。こんな座卓なんて大股で跨いで、その首をひっつかんで顔中を舐めてみせようか。  拳を、ぎゅっと握りしめる。 「そうしたらスッキリするのかな。友人も、知り合いも、家族も、全部……その目に映る僕以外の生き物ぜんぶ、今、目の前でブチ壊してやったら」  静まり返った周囲を見渡していた顔を真正面に戻し、橘にぴたりと焦点を当てた。 「そろそろね、限界なんだよ。ねぇ、橘くんはどう思う?」  橘は、僕の視線を受け止めた。 『……知るかよ』  それでも、誤魔化そうとするとはね。 『橘ぁ、マジ? なんでそんな大事なこと隠してたんだよ~』 『……別に、隠してたわけじゃねぇって。だって同じクラスっつっても話したのなんて数えるくらいだったしさ。と……友達ってわけでもなかったし、わざわざ言わなくともいっかなーって思って』 『いやいや言えよっ』 『ははっ、ごめんて』    ──そんなに嫌なのか、自分の第二性を公にされてしまうことが。 『──悪ィな! 姫宮。最初、俺おまえに変な態度取っちまったよな。いやー、ガッコ同じだったはずなのにあんまりにも住む世界が違ぇからさ、ちょっとイラついてたんだわ。マジでごめんな?』  僕との関係を仲の良い友人に知られてしまうことが、恥なのか。 『ほら仲直り、な!』  仲直り──そんなもの、橘はもう覚えてすらいないだろう。あの二人だけの病室で、僕に、「仲直りしたいんだ」と再び、手を差し伸べてくれた記憶なんて。  君が起きている間に手を握り返していれば、何かが変わっていたのかな。 「身勝手な君に言われたくない」    怒りのまま、ジョッキを乱暴にテーブルに叩きつける。 「君の友達も、来栖さんも、誰一人として君を普通の男だと信じて疑わないだろうね」 『ひめみや』  水分はとっているはずなのに、口の中が痛いほどに渇いて仕方がない。 「はは、かまととぶるなよ。本当の君をみたらみんなどう思うんだろうね。君、幻滅されちゃうんじゃない? もうそろそろ、潮時だと思うけど」 「──樹李!」  ここ長らく、水を張ったようにくぐもっていた橘の声が、一瞬で鮮明になった。    僕は、いま、彼に名前で呼ばれたのか。      視線だけを上げて、前髪の隙間から彼を伺う。絶対に聞き間違いなどではない。僕が橘の声を聞き間違えるはずがない。  確かに彼は、「樹李」と僕を呼んだ……息も絶え絶えに、苦し気に。   「おまえ、そんな風に思ってたのかよ……」  橘の肩から力が抜け、瞳もどこかぼうっとしている。虚ろ、だ。  居酒屋特有の薄らぼんやりとした照明が、あの日、窓から注いできたオレンジの光と重なり、橘のショックに染まった顔を、ぼうっと照らし出していた。 「俺のことを、俺を……」  それは、今にも泣きだしそうな声に聞こえた。  困惑と、驚愕と、戸惑い。それらによって冷え切ってしまった空気が、ひしひしと橘と僕に突き刺さってくる。  彼が友達を誰よりも大切にしていることは、知っている。そんな彼があたため続けた安住の空間を、僕は叩き潰そうとしたのだ。  彼の悲しみを、引き換えにして。  僕はいつだって、この人を泣かせることしかできやしない。   「どうして今ここで、名前で呼ぶの……」  これ以上、橘の痛ましい姿を視界に入れていることが耐えられなくて。      ジョッキの次は万札を座卓に叩きつけて、僕は店から飛び出した。

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