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透愛と樹李──第186話

「で?」 「……で、って……」 「だから! 俺の好きな奴、今目の前にいるんだけど。返事はねぇの? それとも俺、もしかしてふられる?」  びっと本人を指差ししても、姫宮は固まったままだった。 「──き」 「き?」  たっぷり、十数秒。  徐々に、強張る肩の硬直が溶けても、奴の視線は俺の指先と俺の顔を10往復ぐらいしている。 「君……そんなに、お人よしで、だ、大丈夫か……?」 「……おまえ、頭じゃなくて耳までやられたんか? 俺の話聞いてた?」 「聞いているから言ってるんだ。頭をやられたのは橘の方だろう、君……頭を打ってしまったから、余計に……頭が悪くなって、そんなことを」 「ほんっと性格悪ィなおまえ! そーいうところだぞっ」  言うに事欠いてそれかよ!  それでも姫宮は、何の冗談だとばかりにとふるふる首を振り続けている。口を押さえて、「うそだ」とか「君が僕を好き? 意味がわからない」なんてぶつぶつ呟きながら。 「なんでわかんねーんだよ、そのまんまの意味だよ」 「だ、だって……だって君、僕に、殺されたくないからそんなことを言うんだろう?」 「はぁ?」  目に見えて狼狽えている。まさにパニック、という感じだ──あれだな、どんなに頭のいい人間でも思ってもみなかったことが起こると脳がフリーズすんだな。   「僕が、君のことを……殺してやるとか、喚いたから……」 「おまえ、マージで往生際の悪い男だな」  思わずため息が漏れた。こいつのこの頑なさは折り紙付きだな。  まぁでも、俺も、似たようなもんだったか。  意地張って、こいつのことちゃんと見ようとしてこなかったのだから。 「じゃあ聞くけどなぁ、おまえ、なんで俺のものになりてぇわけ?」  テレビ台に背を預けて腕を組む。なんでって……と、姫宮が唇を震わせた。 「さっきからおまえ、一番肝心なこと俺に言ってないと思うんだけど」 「肝心な、こと?」 「そ。俺が欲しくて手に入れたとか、俺に狂ってるとか殺してやるとか屁理屈ばっかりこねやがって……おまえのその歪んだ感情って一体どこに帰結すんだよ。ずっとずっと俺の独り相撲か? 姫宮」    なあ姫宮、それは──それはさ。 「もっとわかりやすく聞いてやろうか?」  これまで、暗黙の了解でお互いに口にしなかったその、直接的な一言を。 「おまえ、なんで俺をレイプした」  ひゅっと息を呑んだ姫宮から、俺は目を逸らさなかった。 「おまえは、一晩中俺を犯しまくった。やめてって泣き叫んでも……聞いちゃくれなかった。苦しかったよ、痛かった、身体中、どこもかしこも……おまえにこのまま、ここで殺されるかもしんねぇって思った」  今でも、朝と夜には薬を服用している。  襲い掛かってくる黒い塊に身体が怯えてしまう夜も、ある。Ωとしての本能故の、恐怖だ。 「めちゃくちゃやりやがってって、俺のこと、こんなおかしな、惨めな身体にしやがってって恨んだよ。犯されたこと自体は許せないよ。だから自分の気持ち認めるまで、ここまでかかっちまった」    姫宮は、俺の恨み言をしっかり聞いているようだった。彼の手が死人のように白い。後悔しているのだろう。  でも、じゃあ。 「でもさ、なんで? なんで俺だったんだよ」  これは、純粋な疑問だ。 「俺のヒートに、α性の人間として抗えなかったからか? αとしての本能が理由か? おまえが理性を踏み潰して『本能』を選んだ理由を……獣になることを選んだ理由を、俺は知りたい」  姫宮が、口を押さえていた手を下ろしていく。 「ぼく、は……」 「答えろ、姫宮。これが、全部の始まりだろ」  止まってしまった続きを、促す。 「僕、は、きみが……ほしく、て」  目を細めて続きを待つ。姫宮の語尾が、深く、震えた。 「君が……君を、手に入れたくて、本能を、えらん、だ……獣に、なった」  そして姫宮は、上掛けを強く強く握りしめ。 「──いや、違う……僕は、ただ」  拳を震わせて。ついに観念したかのように長い睫毛を伏せて──項垂れた。 「君が、好きで……好きで好きで、仕方がなくて、君をレイプした。橘──ごめん」

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