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ふたつの嵐──第223話

 これは自分でも、予想だにしていなかったセリフだった。  気付かぬうちに、こんなことを自分は考えていただなんて。  しかもだ。今の自分がどんな顔になっているかなんて、姫宮の目を見なくともわかってしまうのだ。きっと見たこともないような満面の笑みを浮かべているに違いない。  7年前や、食堂で浮かべたようなあの笑みとは、比べ物にならないくらい。  恍惚とした、表情を。 「あーあ……どうしよ、俺もやっぱ、頭おかしいんだろうな」  ほう……と甘い息を吐く。  ああ、ほっぺが今にもドロドロととろけてしまいそうだ。  このまま、落ちちまうかもしんねぇ。 「俺、さ。俺にトチ狂ってるおまえが、そのまんまのおまえが、さ……」  俺は、はたから見れな歪だけれども、その歪ささえも真実であるこの男に。歪だけれどもイビツくない、姫宮樹李という男が。   「誰よりも愛おしくって、しょうがねぇや……」  少しだけ開いた姫宮の唇とは反対に、俺の胸に開いた穴は、温もりで完全に塞がれていった。  もうここに寂しい風は吹いてこない。それどころか、さっきから引っ切り無しに胸の奥から湧き上がってくるのは、熱だ。  まるで喜びに焼かれているみたいだった。  息もつけないくらい身体中が熱くて熱くて、眩暈までしてくる。  姫宮に苛烈な目で見据えられた瞬間、手足が痺れた。唇も舌も痺れた。脳髄も、震えた。こいつがこの世界で俺だけを見つめているのかと思うと、背筋やうなじの辺りがぞわぞわ、ぞくぞくした。  今は、もうわかる。  これはまぎれもない、快感そのものなのだと。 『お似合いだよな、似た者同士ってやつ?』 『破れ鍋に綴じ蓋って感じ』  そうだな、みんなの言う通りだったわ。   「俺もおまえがいい。もしもこれから先、俺に運命の番ってやつが現れたとしても、俺だっておまえじゃなきゃダメだ。おまえがβでもΩでも……それこそ女でも惚れてたんだからな?」  第二性から由来する、本能で結ばれてしまった俺たちだけど。  これから先一生涯、俺たちはαで、Ωでしかないけれど。 「だっておまえ……すっげぇ可愛いんだもん」  右の口角を吊り上げる──そんなもん、くそくらえだ。  姫宮の前髪を、梳いてやる。  だって関係ないのだ。俺だって、姫宮がαだからってこいつのことを好きになったわけじゃない。第二性すら、俺たちを阻む何物にもなりはしない。  今だったら、そう言い切れる。  そんなこと考えちまう俺って、Ωらしくねぇのかな。でもこいつだって、αらしくねぇや。  俺が何者でもかまわない、運命でなくてもかまわない、なんてさ。  俺たち二人そろって、外れ者だ。  でもそれが、「俺ら」らしいってことなんだろう。 「……いったろ? 一生憎んでやんねぇって。おまえにヤラれたこと自体は許せねぇよ。他にも方法あっただろって、今でも思ってる。俺をずっと放っておいたおまえのことだって、恨んでる。でも俺は……俺のことが好きでたまらなくて俺を手に入れようとしたおまえのことは……はなっから、赦してんだよ」  だって憎めるわけがないだろう。こんな可愛い奴。 「だから俺はさ、何度過去に戻ったって、おまえに犯されるために、あの用具室に逃げ込むんだろーな……」  そして姫宮を待つのだ。  俺を食い荒らすために扉をあけ放つ、この狂った獣を。  祈るように、目を閉じる。  いま俺は、自分の溢れんばかりの想いを噛み締めていた。  姫宮は確かに、怖い男だ。おぞましい男だ。  でも俺は、他でもない『俺』が、怖いのかもしれない。  こんな姫宮であっても、まるっと受け入れてしまえる自分自身が。  だって、こいつにΩにされて番になれば、俺の世界は一変する。  大好きだったサッカーもできなくなる。中学校も高校も、普通の男子学生みたいな生活は送れなくなる。誰とも深く関われずに、学校と自宅を緊張しながら往復する日々。  部活にだって入れないし、修学旅行にだっていけない。  青春そのものが、消える。  そしてそんな毎日しか送れない自分という存在が、嫌で嫌で仕方なくなる。  でもそんな俺を、他でもないこいつが心の底から愛してくれるというのなら。  俺はきっと、耐えられる気がする。  たとえ犯された恐怖が染みつき、この身体が震えようとも。  たとえ襲いかかってくる黒い影に毎夜怯え、後遺症に苦しむことになっても。  薬が手放せない身体になっても。  たとえそんな俺の姿に、大好きな兄の八重歯がすり減ることになったとしても。  ──そう、他の何を、犠牲にしてでも。  俺がこいつに犯されれば透貴が泣く。そんなことわかりきってる。俺がもし透貴の立場だったら、姫宮を憎む。  心の底から憎悪する。  それなのに。周囲も家族も心の底から大切で大切で仕方がないというのに、そんな人でなしなことを考えてしまうのだ、俺は。  普通であるはずの自分が、姫宮の前だと普通でなくなる。  俺はそんな自分が、怖くてたまらない。  ──これが、恋か。  ならば恋とは、なんて罪深いものなのだろう。  でも……と思う。  それでもなお、と。  だって、たとえ罪深くったって、こいつは俺の姫宮なのだ。  俺の番の姫宮だ。  俺の夫の姫宮だ。  このキレイな頭の天辺から足の爪の先まで全て、俺の姫宮だ──俺の樹李だ。  俺だけの愛おしくて可愛い樹李だ。  こいつに抱かれるのは俺だけで、俺を抱くのはこいつだけだ。    こいつは、俺の男だ。  俺のものだ、誰にもやらない。やってたまるかってんだ。病める時も健やかなる時も、死がふたりを分かつまで……いや、違うな。  ぱちりと、目を開ける。  ああそうかと、目から鱗が落ちたどころではなく、世界の全てが開けた気分だった。  ゆるやかに、三日月のように目を細める。  透貴との関係、周囲との関係、自分の身体のこと。いろんな現実という重たい蓋に抑え込まれていただけで、ずっと胸の奥に巣食っていたのだ。  この、おぞましいまでの激情が。  すとんと、表情が落ちた。  真っすぐに、姫宮を見下ろす。  病める時も、健やかなる時も。  ──そう。たとえ死が、ふたりを分かつとも。    こいつ、しんでもだれにもやんねーわ。  ────────────  姫宮の性格が悪くても、仲良くなりたいと手を伸ばした透愛。  姫宮がおぞましくても、可愛らしい、愛おしいと思えてしまう透愛。  姫宮はかなりヤバい男です、そんなヤバい男に心底惚れてるぐらいですよ。  透愛もヤバい男に決まってます。

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