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9 自覚と恐怖
昼休みはいつも、俺が作った月森と同じ弁当をデスクで食べる。
メンバーは皆、のんびり一時間ゆっくりなんてする余裕がない。食べ終わったらすぐにまた仕事に戻れるように、誰も食堂には行かない。
やっぱりブラック企業だな。それともこの分野では普通なんだろうか。
自力の勉強に行き詰まってから、申し訳ないとは思いつつも帰宅後に月森に教わっていた。月森は快く教えてくれる。仕事中も気にせず聞いてほしいと優しく微笑んでくれた。
おかげで勉強がはかどり、いよいよ新人研修も来週からだ。
「あ、先輩もトイレですか?」
「月森も?」
食後にトイレに立つと、めずらしく月森と一緒になった。連れション、なんて言葉が浮かんで笑みがもれる。
「今日のお弁当もすごい美味かったです。ちくわの磯辺揚げ、また入れてほしいな」
「おっけー。あれ簡単だから助かる」
「あとピーマンのおかか和え、あれやっぱ好き」
「それいつも言うよね。じゃあ毎日入れようかな」
「やった。嬉しいです」
「え、本気?」
「もちろん本気ですよ?」
「え、マジで?」
ただトイレに行くだけでも月森と一緒だと嬉しい。
肩を並べて歩くだけで嬉しい。
どうしよう。心臓がうるさい。
なんか俺、重症かも……。
いやいや、雛の刷り込みだよな。
用を足したあと、コーヒーを入れて給湯室を出たところで「中村さんっ」と声をかけられた。復帰初日に給湯室で『アプローチしようかな』と言っていた女性、人事部の林さんだ。
「あ、あの、今日こそ一緒にお食事に行きませんかっ?」
もうこれで何度目の誘いだろう。やんわりと断り続けていてもきりがなさそうだな、と内心でため息をつく。
今は月森と一緒だ。できれば一人のときにしてほしかった。
「俺、先に戻ってますね」
「あ、ああ、うん」
どうせすぐに終わるから待っててくれてもいいのに。そう思ったが止めなかった。
毎日、月森への執着が増していく。月森の存在は俺にとってあまりにも大きすぎる。もはや離れると不安にかられるレベルで、自分でも少し……いやかなり困惑していた。
時折、新しい友達を作ろうかと考えることがあるが、そのたびに、俺には月森だけいてくれればいいという気持ちが強くなっていく。
「えっと、何度も誘ってくれてるのにごめんね」
もうはっきりと断ろう。できればこれで最後にしてほしい。
「全然記憶が戻らないし、今はちょっと気持ちに余裕がないんだ。だから、今はそういう気分にはなれなくて。本当、申し訳ないけど……」
嘘ついてごめん。記憶なんて戻らなくてもいいと思ってるのに、どの口が言うんだと自分でツッコみ心が痛む。
「あの……私、中村さんの力になりたいんです。そばにいて、中村さんが抱える悩みや不安を一緒に乗り越えていけたらって思ってます。中村さんを支えたいんです!」
すごく真剣なその瞳に、思わず胸を打たれた。
あの日、給湯室の話を盗み聞いた感じではそれほど真剣だと思っていなかった。だから今のはかなり胸に響いた。
よく見れば綺麗な子だ。俺なんかを気にかけてくれて、何度も誘ってくれて、支えになりたいとまで言ってくれる。
食事か……。一度くらい、行ってもいいかな……。
そんな考えが頭をよぎったとき、心の中に月森の姿が浮かび上がった。
月森の笑顔や、共に過ごした時間が脳裏を駆け巡る。
月森は毎日俺のそばにいて支えてくれている。
月森となら悩みや不安を分かち合って、一緒に乗り越えていける。
なにより、俺がずっとそばにいたいと思えるのは月森だ。
触れた肩が熱く感じたり、並んで歩くだけで心臓がうるさかったり……それでも何度も何度も気のせいだと自分に言い聞かせてきた。
でも今、やっと自分の気持ちをはっきりと自覚した。
月森を思い出すだけで胸が苦しいこの気持ちは、雛の刷り込みなんかじゃなかった。
俺はやっぱり月森が好きだ……好きなんだ。
強烈な感情の波が押し寄せて、一瞬めまいでふらついた。
「中村さんっ、大丈夫ですかっ?」
「……うん、大丈夫」
月森への気持ちは友情じゃなかった。男同士なのに……それでも俺は、月森が好きなんだ。どうしようもなく、好きなんだ。
「中村さん……?」
呼びかけられてハッとする。
「あ、ごめん」
「あの……やっぱり迷惑ですか……?」
彼女の顔を見て、一気に現実に引き戻された。
そうだ。月森を好きだという気持ち、男同士だということ、そんなことの前に大事なことがあった。
今は彼女にはっきりと答えを伝えなければならない。
でも、他に好きな人がいるなんて伝えるわけにはいかない。記憶のない今の俺のそばには、月森しかいないことは誰の目にも明らかだ。好きな人がいるなんて言えば、きっとすぐにバレてしまう。
だとすれば……他にはこれしかないだろうな……。
月森が好きだと自覚した今、急に現実感が増した重大な問題でもある。
「もし……いつか記憶が戻ったとき、今の記憶は消えるかもしれないんだ。今の俺が完全に消える可能性がある……。だから、今は誰かと付き合うなんて考えられないんだ。本当に……ごめん」
彼女もその可能性には気づいていたはずだ。あの日給湯室でそんな話をしていたのを俺は聞いている。
それでも彼女はショックを受けたようで、一瞬で顔を強ばらせた。
「……そ、……そう……ですか。……わかりました。何度も誘ってすみませんでした……」
彼女の声が震えていた。今にも涙がこぼれそうな表情を見て胸が痛む。
「本当にごめんね。でも、林さんの気持ちはすごく嬉しかったよ。本当にありがとね」
俺がそう笑いかけると、彼女は涙を堪えるような微笑みを浮かべた。
彼女のおかげで月森を好きだと自覚できた。感謝の気持ちと、傷つけてしまったことへの申し訳なさが募る。
本当にごめん。そして、ありがとう……。
林さんと別れてフロアに戻りながら、俺の心は複雑に入り乱れていた。
月森への気持ちに気づくことができた喜びと、急に襲われた不安と恐怖。
この気持ちがいつか、消えてしまうかもしれないという怖さ……。
今この瞬間に消える可能性だってある。
まるで綱渡りのような今の状況に、俺は記憶を失ってから初めて恐怖を感じていた。
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