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10 月森のいない夜
デスクに戻り、とりあえずPCを操作してテキストを開いた。
まだ昼休みの時間だが、メンバーが皆仕事を再開する中で休むのは気が引ける。
「先輩」
月森がキーボードを叩きながら声をかけてきた。
「うん?」
「林さんと食事に行くんですか?」
もしかして気にしてくれた?
期待を込めて月森を見るも、いたって普通の表情でPCを操作していて、見たことを後悔した。
「ちょうどよかったです。俺も今日、同期の奴に飲みに誘われてて」
「あ……そう、なんだ」
答える前にそう言われ、行かないとは言いづらくなる。
言えばたぶん月森も行かないだろう。こんなに毎日俺と一緒なんだ。たまには月森だって同期と飲みに行きたいに決まってる。
「遠慮しないでいつでも飲みに行っていいよ? 俺だって子供じゃないんだしさ」
「それは先輩もですよ。俺に遠慮しないでくださいね」
遠慮しなくていいなら、行くなって言っちゃうよ……。
「じゃあ、今日は俺も飲みに行きますね」
「……了解」
月森がスーツのポケットからスマホを取り出し文字を打ち込む操作をすると、すぐにフロアの奥から誰かの走る音が派手に聞こえてきた。
驚いて振り返ると、走ってきた男がものすごい勢いで月森に後ろから抱きついた。
「月森ー! サンキュ! マジで助かる!」
……は? なんだこの男。月森から離れろよ。
内心で嫉妬心が渦巻いたが、必死に冷静を装った。
月森が「なんだよ、離れろよ」と男を振り払う。
初めて聞くその砕けた口調に、また嫉妬で心が荒れる。
「助かるってなに、ただの飲み会だろ?」
「だって絶対月森を連れてこいって彼女に言われたんだよ」
「え、彼女? 今日って同期会じゃないの?」
「違う違う。俺の彼女とその友達。お前に一目惚れしたから会いたいんだと」
「え? なにそれ、一目惚れっていつ?」
同期と飲みに行くと聞いて、男だけだと思い込んでいた。まさか月森のことを好きな子がいるなんて想定外だ……。
「忘年会の写真だよ。俺が酔っ払って何枚も彼女に送ったやつ」
「ええー……ただの同期会だと思ったのに」
「いいじゃん。行くだろ? 行くよな?」
「……いいけどさ」
「よっしゃー!」
ガッツポーズで喜び、男が小躍りで自席に戻っていった。
やっぱり食事には行かないとはっきり言えばよかった。そうすればきっと月森のことだから飲みには行かなかっただろう。
後悔に押しつぶされそうになりながら、俺は月森にかける言葉を考えた。
――――一目惚れだって? やったじゃん。
――――可愛い子だといいね。
――――連れて帰ってくるなら連絡して? 実家に帰るからさ。
グッと拳をにぎる。どれも言いたくない。口にも出したくない。
俺はモニターに表示されたテキストに集中する振りをして沈黙をつらぬき、月森も何も言ってはこなかった。
「だる……」
一人だし牛丼でも食べて帰ろうかと思ったが、それすらも面倒でまっすぐに帰宅した。
どろんとした身体をソファに沈ませ、深いため息をつきながらネクタイを緩める。
少しだけ残業して飲みに行くという月森に「じゃ、お先」と声をかけ席を立つと、「行ってらっしゃい」と微笑まれてしまった。
それ以上月森の顔を見るのが辛くて「うん」とだけ返し背中を向けた。
笑顔で返さなかったことを今更になって後悔する。
「……変に思ったかな」
どうしよう……嫌われちゃったら……。
俺が林さんと食事に行くと思ってる月森があまりにも無関心に微笑むから、胸が痛くて泣きたくなった。
だからってあんな感じの悪い態度、とるんじゃなかった。
もう、本当に重症だ……。月森への想いを自覚したとたん、気持ちを隠しきることもできないなんて。
月森のあの態度を見れば、脈がないのは歴然だ。この気持ちは隠し通すしかない。このままそばにいるためには。
でも、それも月森に彼女が出来るまでだ……。
「もう飲みに行ったかな……」
壁にかかった時計を眺めてつぶやいた。
どんな子だろう。可愛い系かな。綺麗系かな。
月森の好みはどんな子なんだろう。
今日会う子は、好みじゃないといいな……。
そんなことを思って自己嫌悪したとき、インターフォンの音が響いた。
月森なら黙って鍵を開けて入ってくるから月森ではない。こんな時間に誰だ?
記憶のない今、たとえ知り合いだとしても俺にはわからない。
腰を上げ、不安と戸惑いの気持ちでインターフォンに出た。
「……はい」
『あ、陽樹? 月森くんかな? 私わたしー。開けてー』
カメラ機能のないインターフォンが声だけを通す。顔が見えなくてもわかる強烈な存在感。入院中の数日間しか接していないのに、すぐにあのケバい母だとわかった。
玄関の鍵を開けドアを開くと、母は相変わらず派手な出で立ちで香水の匂いを振りまいた。
「久しぶり陽樹。元気? 記憶は戻った?」
そして、無遠慮に笑顔で部屋に入り込んでくる。
「月森くんはまだ仕事?」
「……今日は飲みに行ってる」
「あら残念。タイミング悪かったかぁ。あ、はいこれ。ビール」
母は六缶パックのビールが二つ入った袋を俺に押し付け、勝手知ったるとでも言うように、リビング奥のハンガーラックに薄手の春コートをかけてソファに座る。
「……よく来るんですか?」
「え?」
「ここに」
「まあうん、たまにね? それよりまだ記憶戻らないのね。また敬語に戻ってる」
入院中に一度は敬語を外したが、どうにも気安く話すことができない。
月森のいない部屋で母と二人きりは、気まずさしかなかった。
ビールを冷蔵庫にしまいつつ、二缶だけ手に取って母のところに戻り、床に腰を下ろしてあぐらをかいた。
「このままでいい?」
缶を手渡しながら、そう尋ねる。
敬語を外して話しかけると、母が満足そうに笑ってビールを受け取った。
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