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32 溶かされる

 家にたどり着くと一気に緊張が襲った。いや……羞恥か……。  定着したはずの偽りの自分と、仮面の剥がれた昨日までの自分、どちらも月森に見られてしまった。もうどう取り繕えばいいのか完全に迷子だ。  それでも早くドアを開けて月森に会いたい。昨日までの俺が消えたと思って絶望しているだろう月森を、早く抱きしめたい。  俺が出ていったまま鍵もかかっていないドアを開けると、奥でガタンッと大きな音が響き、月森が血相を変えて走ってくる。  俺は思わずうつむいて視線を逸らした。 「せ……先輩……っ」 「…………っ」  すぐに抱きしめたいと思っていたのに、ただいまも言えず顔も上げられない。もう火が出そうなほど顔が熱くて恥ずい……。  深くかぶった帽子のおかげで見られずに済んで助かった。 「先輩……あの……ご、ごめんなさい……っ、本当に……ごめんなさい……っ」  ああ……声だけでわかる。月森が泣いている。  泣かせたくないのに、素直になれない。  いっそ、もう一度記憶喪失になりたい気分だ……。 「……ごめんなさいは、禁止だって言っただろ」  記憶は残っていると素直に言えない代わりに、遠回しに伝える。伝わるよな? 「………………え……? い、今……なんて……」  たっぷり考えてから月森が聞き返してきた。  色々言いたいし聞きたいし、話したいことがありすぎる。  でも、今は話よりも早く月森に笑ってほしい。  今にして思えば、俺が記憶喪失の間の月森は、笑顔の裏に不安が見え隠れしていた。もっと無邪気に笑う月森が、不自然に整った笑顔だった。いつもはちょっと子供っぽく可愛く笑う月森が、やけに大人くさかった。  きっと、ずっと気を張っていたんだろう。  俺の記憶が戻ることを恐れてずっと怯えていた月森を、今は早く安心させてやりたい。  どんなに蓋をしても殻で覆っても、結局俺はお前に惹かれるのを止められなかった。おかげで、記憶を失った途端にこれなんだから本当に参る……。  一生友達としてそばにいるなんて、抱かれてしまった今となっては、幸せどころか拷問だ。 「月森」 「は、はい……」 「俺は、重いぞ」 「お……重い……って?」 「俺はお前を、一生失いたくないから友達でいようとしてたんだ」 「え、……えっ?」 「付き合ったら、もう一生離さない。いつかお前が俺を捨てても、絶対しつこく追いかける。それでも俺を愛せるか?」  未来のことなんてわかるわけがない。それでも答えが聞きたかった。  月森のことだから、きっと泣きながら「愛せます!」と抱きしめてくるだろう、そう予想してた。  ところが、目の前で月森の身体がグラッと揺れ、糸が切れた人形のように崩れ落ちていく。俺は慌ててその身体を支え、膝をついて抱きとめた。 「おい、大丈夫かっ?」 「…………っ」  月森が、震える手で俺にしがみつく。 「せ……せん……ぱい……」 「なんだ?」 「まだ……まだ先輩は……俺のもの……ですか?」  その言葉で、昨夜の記憶があるのかと遠回しに聞かれたことを悟る。   『これ……で……っ。月森は……俺のものだ……っ』 『先輩も、俺のものですよ……っ』  ほんと……昨日までの自分の言動がマジで恥ずい。思い出すだけで顔が熱くなる。  俺は覚悟を決めて、キャップを外した。  真っ赤になっているだろう自分の顔がよく見えるように、月森を真っ直ぐに見つめた。  月森が、わずかに目を見開いて瞳を揺らす。  言葉なんていらないくらい、これだけで伝わるはずだ。こんな顔で月森を見つめるなんて、事故の前じゃ考えられない。    「俺は、お前のもんだ」  伝えた瞬間、月森の身体が震えた。俺の言葉が信じられないというように、大きく見開かれたその目。そしてさらに強くしがみついてくる。  その震えは、月森が抱えていた不安と葛藤の大きさを物語っているようだった。 「月森」  俺は月森の腕を引き寄せて抱きしめた。 「……っ、せ……んぱ……っ」  俺を抱きしめる月森の腕が、まだ不安そうに弱々しい。 「月森……実は昨日な」  ちゃんと気持ちを口にする前に、どうしても伝えておきたいことがあった。 「自分が、初めてかどうかもわからなかったんだ」  俺の言葉に身体を強ばらせる月森を、さらに強く抱きしめる。  昨夜はあんまりイイから、もしかして経験済みかと自分を疑った。  思い出すと本当に笑えるな。 「昨日が初めてだったよ。俺はお前としかやってねぇ。正真正銘、俺はお前だけのもんだ」  伝えながら、初めてが月森でよかったと胸が熱くなる。  俺は、誰も好きにならないと心に誓いながら、初めては愛する人と……そんな昔の夢を捨てきれずにいた。  まさか夢が叶うなんて思いもしなかった。  俺を抱きしめる月森の腕に力がこもり、途端に胸が高鳴った。  俺は、静かに、そしてゆっくりと気持ちを口にした。 「月森……好きだ」 「……っ、……」  月森が、声にならない声を発して身体を震わせる。  一生誰にも言うことは無いと思っていた言葉。  すでに昨日何度も伝えたが、記憶が戻ってからのこの言葉は、俺にとってはものすごく重い言葉だ。 「ほんと……もう一生手放してやれねぇぞ」 「……っ、せん……ぱい……っ」  ぎゅっと強く抱きしめられて、胸が痛いほど締めつけられる。  あふれる幸福感と、まだどこか素直になりきれない自分、そんなまぜこぜの感情に苦笑する。   「月森、さっきの返事は?」 「……そ……そんなの……決まってます……っ。一生、先輩だけを愛しますっ。重いのは俺のほうですよ……っ」    期待通りの返事に、顔が緩むのを止められない。  ああ……もう俺、一生幸せでいられるな。  修也の裏切りを知ったあの日、もう誰も信じないと心に誓ったけれど、月森だけは信じられる。根拠のない『一生』という言葉すら信じられる。 「ありがとな、月森。こんな俺を好きになってくれて」 「それは……っ、俺のセリフです……っ」    またしても期待通りの返事に、愛があふれて止まらない。 「先輩……」  月森がゆっくりと身体を離し、涙に濡れた瞳で俺を見つめた。 「好きです先輩……一生愛してます……っ」 「……俺も、一生お前を愛してる」    伝えながら月森のうなじを引き寄せ、唇を合わせた。  月森は一瞬驚きに目を見張って、でもすぐに深いキスに変わる。  俺の頭に手を添えて奪うように舌を絡めてくる月森に、全身がゾクゾクと震える。  ああ……もう偽れない。  俺は月森に素直に甘えたい。  心も身体も月森に優しく包まれ、完全に溶かされていく。    あの日助けた男の子に、  そして記憶喪失に、  俺は心から感謝した――――……    

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