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8.今更

 直樹が引き払った部屋に、啓介が引っ越してきた。  絢也にとって、直樹との別れは、正直そんなに気持ちの良いものではなかった。  お互い、たぶん言いたいことの半分も言えていないだろうという感覚が残ったまま、ワンマンライブの翌週、直樹は約10ヶ月を過ごしたアパートを去っていった。  ベースは続けるのかとか、帰って何するんだとか、そんな他愛ない会話すらできないままだった。  いや、おそらく、士郎あたりには話していたのかもしれない。  絢也との間にだけ、埋めることのできない溝が開いたままになってしまった。  直樹の意思を確認したあの話し合い以降、直樹も、絢也も、お互いに腫れ物に触るように過ごした。  必要なことだけ、事務的に会話をし、腹を割った話はできずじまいだった。  これが現実なのだと、絢也は苦い気持ちで直樹を見送った。  初めてのワンマンライブは、そんな状況を考えれば上出来だった。  少なくとも、対外的には。  だが、絢也はそれを言い訳にすることを自分に許さなかった。  もっとやれる。自分たちにはもっといいものを作れる。  だから、絢也にとって、このワンマンライブは一つの通過点でしかなかった。  啓介は、絢也の予想を上回る勢いで、すぐにメンバーと打ち解けた。  荷物の運び込みが終わって1時間後には、啓介は士郎と拓郎に挟まれて、リビングでゲラゲラと笑い転げていた。  その屈託のなさこそが、今の絢也には救いだった。 「ねえねえ」  それは、啓介を交えた初めての新曲を練っていた夏の午後のことだった。  啓介が加入してから4ヶ月は、ほとんど毎週どこかでライブを行った。  あっという間に2周年を通り過ぎ、怒涛のライブ日程をこなしているうちに、季節はいつの間にか夏を迎えていた。  約半年ぶりのまとまったオフに、士郎は少し息抜きがしたいと言ってどこかへフラッと出かけていき、数日間留守にした。  拓郎は、姉に子供が生まれたというので顔を見せに地元へ帰った。  絢也は、こうやってそれぞれが自分のしたいことを言ってくれるようになったのはありがたいと思いつつ、士郎は今頃一体誰とどこにいるのだろう、と考えてしまう自分を持て余していた。  士郎のことだ。彼女、くらいいるだろう。  きっと、傍若無人な士郎を笑って包み込むような、可憐で芯の強い女性だろう。  絢也は、それが自分を傷つけることにしかならないのに、考えるのをやめることができなかった。  小柄で愛くるしい姿をした女性と手を繋いで歩く士郎を思い浮かべ、その想像に自分で頭がおかしくなりそうで、絢也は布団に突っ伏した。  数日後、出て行った時と同じようにフラッと帰ってきた士郎は、絢也がそんな悶々とした日々を過ごしていたことなどつゆ知らず、「みんなに土産あるぜ~」などと呑気にどこかの郷土菓子をばらまいた。  啓介と、士郎より1日早く帰ってきていた拓郎は「女? さては女だな?」と士郎に絡む。  絢也は、その答えを聞かなくて済むように、さりげなく自分の部屋に戻ろうとした。  その時、啓介がいきなりとんでもないことを言い出したのだ。 「あのですね~、実はこの前ちょっとしたルートでこいつを手に入れまして」  啓介が手にしていたのは、Aから始まってVで終わる、2文字の、オトナなアレだった。  それも、限りなく修正がされていない、いわゆる「裏」と呼ばれる代物。  絢也は頭痛と吐き気を催した。  士郎と拓郎はと言うと、こちらは揃って色めき立っている。 「みんなが帰ってきたら観賞会をですねえ、しようと思って、取っておいたんですう」  啓介はいつものニコニコがややニヤニヤになった顔で、そう言った。 「……悪い、俺、パス」 「え?」  眉をしかめて片手を上げた絢也に、驚いた3人が綺麗にハモった。 「あー、俺に気ぃ遣わなくていいから。あんま大音量で見んなよ」  呆気にとられている3人を残して、絢也はリビングを後にした。  ——あんなん、無理に決まってるだろ……  女の裸自体、まず絢也には何の感情も呼び起こさなかった。  いや、正確には、裸だけならいいが、男女のそういうシーンを見ているとだんだん気分が悪くなってくるのだ。  そして、それ以上に。  それに興奮する士郎を目の当たりにして、正気でいられる自信が絢也にはなかった。  一つには、やっぱり士郎は女を性欲の対象としているのだ、ということを改めて確認することになるから。  そしてもう一つには。  ——そんな士郎に、俺が反応したら……  絢也自身はもちろん経験がなかったが、高校のクラスの連中が親の留守に集まって、そうしたいかがわしいビデオを見たりしている話は嫌でも耳に入ってきたから、どういうことをするのかは大体分かっていた。  ——つまりは、集団自慰行為ってことだろ。  士郎のそんな姿を見て、自分が冷静でいられるわけがなかった。  そして、それを知られたら、すべてがおしまいだ。  どこをどう考えたって、参加できるわけがなかった。  部屋に戻ると、絢也はミニアンプに繋いであったヘッドホンをして、無心にギターを弾いた。  どれくらいそうしていただろう。  手元が暗いなと感じて目をあげると、外はもう夕暮れだった。  ——あいつら、もう、終わったかな。  ちゃんと部屋、換気しろって言っておけば良かった。  そんなことを思いながらコードをかき鳴らしていたとき、ブツッ! と絢也の手元に衝撃が走った。 「ッて」  弦が切れたのだ。とっさにのけぞったから、顔は無事だった。  だが、指に刺さったらしく、左手の人差し指から血が出ている。  仕方なく絢也は自室を出て、リビングの様子を伺った。  リビングは静まり返っている。もう解散したらしい。  ——確かこの辺りに絆創膏をしまっておいたはず……  棚の中を手探りで探すが、片手しか使えないこともあって、なかなか目標物が見つからない。 「絢也? 何暗い中でゴソゴソやってんの?」  絢也は一瞬小さく飛び上がった。 「なんだ、士郎かよ……びっくりさせんなよ」 「んだよ、人をバケモンみてえに。……あれ絢也、手、怪我?」 「ああ、弦が切れた。……ちょ、なんだよ」 「ケガ人は黙って座っとけ。あと、まずな、こういうときは電気をつけんだよ」  士郎は絢也を無理やりソファに座らせると、リビングの電気をつけて難なく絆創膏の箱を見つけ出した。 「ほら、手出せよ」 「あ、ああ……」  なんだか妙なことになってしまった。  士郎にされるがままに、指に絆創膏を巻かれた絢也は、落ち着かなげに目線をうろうろと彷徨わせる。 「ほい、一丁あがり」 「お、おう。助かった」  ありがとう、なんていうのはなんだか照れ臭くて言えなかった。 「そうだ、俺、絢也に歌詞見て欲しかったんだったわ」  絆創膏の箱を元の場所にしまいながら、士郎が言った。 「今度の新曲の。あれ、一応書き上がったから」 「いいよ。見せてみろよ」  一旦部屋に引っ込んだ士郎が、いろいろ書き殴ってある紙切れを持って戻ってきた。 「ん? どこから始まんの? これ」 「あー、これがAメロで、こっちがBメロ、で、これがサビで、これがラストんとこ」 「お前なあ、人に見せるときはせめて分かるように書けよ」 「へへっ、悪い悪い」  悪びれた様子もなく、士郎が笑った。  鼻歌でメロディを口ずさみながら、絢也が歌詞を追う。  士郎らしい、情緒的な言い回しがクセになる、なかなかいい詩だった。  今回は、絢也はあえて曲のイメージを伝えることをしていなかった。  士郎の持つ世界をできるだけ自由に表現してほしいと、絢也なりに思ったからだ。  そうして出来上がってきた士郎の歌詞は、大切な人を遠くから見守る、そんな内容だった。  詩の中で、その人物の性別を匂わせるような描写は出てこない。  だが、「細い指」や「小さな背中」といった言葉から、容易に女性だろうと想像はついた。  ——士郎の、恋人、あるいは叶わなかった恋の相手……  心の中に、鉛のような重たい感情がどろりと横たわるのを、絢也は感じた。  分かっていたはずだ。  散々、自分に言い聞かせてきたじゃないか。  今更、何を落ち込んでるんだ。  頭の中のもう一人の自分が、冷ややかに嘲笑う。 「……うん、大体いいんじゃねえ? ここんとこだけ、『ですか』が続くのが気になるっちゃ気になるけど、歌ってて違和感なければいいと思う」  自分でもびっくりするくらい、いつも通りの声が出た。  士郎相手には、無意識に仮面をつけることができるようになってしまっていたらしい。 「オッケー、サンキュ!」  士郎が嬉しそうに笑った。  その笑顔に、なぜか絢也は胸のあたりが痛くて仕方がなかった。  嘘をつくことには、もう慣れてしまったのに。その胸の痛みだけは、引いていかなかった。

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