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10.ママの話

 オフがあければ、そこからは週に2本、多い時は3本のライブをこなす初めてのツアーが幕を開けた。  名古屋、大阪にも初めて遠征した。  これだけ忙しいのは、絢也にとって逆にありがたかった。  忙しければ余計なことも考えなくて済む。  移動して、リハをして、本番をやって、打ち上げをして、また移動して、の繰り返しだった。  間に数日オフが挟まるときは、ファン向けに立ち上げたメーリングリスト用の写真を撮ったり、ひたすら寝たり、漫画を読んだりとそれぞれがバラバラに行動するときもあれば、たまたま朝同じタイミングで起きてきたメンツで一緒に楽器屋へ行ったり、買い物をしたりもした。  約1ヶ月のツアーが終わると、そこから2週間は短いオフだった。  このオフの間に、絢也は行ってみたいと思っているところがあった。  スタジオからの帰り道に通る駅前の飲み屋街に、いつも気になっていたバーがあったのだ。  ツアー中に20歳を迎えた絢也は、ようやく大手を振ってこの手の店に入ることができるようになっていた。  ネットで調べると、そこはいわゆる「オカマバー」で、かといってゲイばかりが集まるわけでもなく、女の子にも人気らしい。  これなら別に絢也がふらっと入っても、問題はなさそうだった。  特に絢也が引かれたのが、バーのママの人生相談が人気、という書き込みだった。  男心も女心もわかるママならではの視点と、バッサリ切り捨てる語り口が気持ちよく、的確なアドバイスがもらえるのでそれ目当てに通うお客も多いのだという。  別に、士郎のことを相談しようと思ったわけではない。  ただ、このママなら、もしプライベートな話をしても、絢也の職業や同性を好きであることに対して、偏見なくフラットに話を聞いてくれそうだな、と絢也は思った。  カランコロン、と昔風のドアベルが鳴って、扉が開いた。 「いらっしゃぁい。お客さん、ひとり? カウンターでいい?」  奥から低い声が聞こえて、体格のよい男性がカウンターの向こうから姿を現した。  これがママだろう。  絢也は頷いて、カウンターの奥の方に座った。 「初めて? あら、嬉しいわぁ。何にする?」  ウイスキーの水割りを頼んだ絢也は、そっと店内を見回した。  まだ早い時間だからか、客はまばらだ。  絢也はなんだか落ち着かなくて、カウンターにあったナッツをもてあそんだ。 「お待たせ。はい、水割り」  絢也の前にカタン、とグラスが置かれた。  喉が乾いていたこともあって、一気に半分近くを流し込んだ絢也に、ママが少し驚いた顔をしている。 「あらあら、すぐにお代わりがいりそうねぇ」  どんな顔をすればいいのかも分からない。  伏し目がちにグラスを握りしめる絢也を、ママさして気に留めるそぶりもなく慣れた口調で話を続けた。 「お客さん、うちにはどうして来てくれたの?」 「……いつも、前を通ってて、気になってた。あと、」 「あと?」 「……ネットで、ママの人生相談が人気だって、読んだから」  それを聞いて、ママがクスクスと笑った。 「アタシに相談したいー! って来てくれる子はありがたいことに多いけど、それが人気だから来た、って最初から言ってきたお客さんは、あなたが初めてよ」  絢也は、少しバツの悪い思いをした。  だが、他に何と言えばいいか、わからなかったのだ。  相談したいわけじゃない、と自分で思っておきながら、その実、誰かに話したくてここに来たのもまた事実だった。 「まあ、初めて来てくれたんだし。話したくなったら話せばいいし、普通にお酒を楽しんでくれてもいいし、したいようにしてくれればいいわよ」  ちなみにアタシの名前はキョウちゃんよ、とママは付け加えて、他の客のオーダーに応えるため移動していった。  絢也は残り半分になったグラスを口に運びながら、ぼんやりと士郎のことを考えていた。 「……お代わりは同じものでいい? 別のにする?」  ママの声で我に返った。いつの間に飲み干したのか、グラスは空になっている。 「……同じものでいい」 「はいはーい」  いつの間にかカウンターの中に人が増えている。  自分とさして歳が違わないように見える青年が、ママからオーダーを聞いて酒を作っていた。  アルバイトだろうか。 「バイトの子が来てくれたから、アタシ今なら少し余裕あるの。何か話したいことあるなら、聞くわよ?」  そんなに話を聞いて欲しそうな顔をしていただろうか、と絢也が少し怪訝な顔をすると、「悩みがあります」って顔に書いてあるわよ、とママに笑われた。  そういう客も多いからだろう、店内にかかる音楽は、ママと客の会話が少し離れると聞こえないくらいの絶妙なボリュームになっている。  迷った挙句、絢也は自分の職業を伏せて、同性の仕事仲間を好きになってしまった、と話すことにした。  会社の同じチームで仕事をしているメンバーの1人を、そういう目で見ていることに気づいてしまったと。 「でもそいつはノンケで、たぶん彼女もいる。ごく普通に、女の子が好きで、いずれ結婚して子供作って、そうやって生きてく人間なんだ。……俺が入る隙間なんか、どこにもない」  言っていて、絢也はだんだん心が重たくなっていくのを感じていた。  分かっていたことなのに、こうして改めて言葉に出すと、その動かしようのない事実が自分の心の傷を開き、血が流れ出るのが分かる。  ママは絢也が話し終わるまで、黙って聞いてくれた。  話し終わって、そのタイミングでコトリと前に置かれた水割りのお代わりを絢也が口に運ぶと、ママがおもむろに口を開いた。 「アタシねえ、お兄さんと似たようなこと、若い頃あったわ」  懐かしそうな、少し切なそうな顔で、ママが話し始める。 「このバーを開く前に、アタシも勤め人をしてたことがあったの。当時はまだこんなじゃなくてね、普通の好青年だったわよ? でも、周りにはカミングアウトしてなかった。アタシが当時好きだったその人ももちろん、アタシの気持ちなんて知らないし、知られちゃいけないって、思ってたわね。知られたら、近くにいられなくなるから。どうしてこの人を好きになんかなっちゃったんだろう、どこで間違えたんだろうって、思ったこともあったわ。すごく、苦しかったし、悩んでた。結局アタシは、そのことはずっと誰にも言わずにいて、会社辞めるときも言わないままだったわ。でもね、あるとき、このバーを始めてからだから、もう何年も経ってたんだけど、本当に偶然、その人に会ったの」  絢也は、身を乗り出してママの話を聞いていた。  店内を流れる音楽も耳に入ってこないくらい、ママの話に集中していた。 「で、お互いに今何してる? って話になって。まあ当然、そうなるわよね。久しぶりに会ったんだから。で、アタシは、そのとき初めて、カミングアウトしたの。それまでのことを、全部、話した」  そこで少し間を置いたママに、絢也は身動ぎもせずに続きを待った。 「それを聞いて、彼、なんて言ったと思う? 俺もその店行ってみたい、って言ったのよ。アタシがゲイだってことも、彼のことを好きだったってことも、全部すっ飛ばして、店に行ってみたい、って。で、アタシの顔に書いてあったんでしょうね、気持ち悪くないのかとか、どう思ったんだって。彼は、アタシが自分らしい生き方を選択できて良かった、それが素直に嬉しいって、そう言ったのよ。そのとき、アタシは、ああ、この人を好きだったことは間違いでもなんでもなかったって、そう思った。この人を好きだったから、今のアタシがある。そう思えたの。だから、笑ってお別れできた」  ママは、思い出を噛み締めるかのように、少し目を細めて遠くを見た。  そして、視線を絢也に戻すと、そっと言い添える。 「お兄さんは、今その人のことを諦めなきゃいけない、一生抱えて行かなきゃいけない、そういう思いですごく自分を追い詰めてるけど、アタシみたいに、いつかそんな自分も間違ってなかった、あの時があったから今がある、って、思えるようになるわよ。だから、もう少し肩の力を抜きなさいな」  ママに言われて、絢也は不思議な気持ちになっていた。  初めて、同じような境遇にいる自分以外の人間の話を聞いた気がする。 「で、その人は、その後本当に店に来たの?」  絢也の問いに、ママがウインクした。  その意味がわからない絢也に、ママが身を乗り出して、絢也にこっそりと耳打ちする。 「今日も来てるわよ。あの、奥の席のメガネの彼」  ママの指した方向には、確かに30代半ばくらいの、メガネをかけた男性が座ってグラスを傾けていた。  男性はこちらの視線に気づくと、穏やかな笑みを受かべた。  絢也は、初めて、今自分に見えている未来だけでない、いろんな未来の可能性があることを、おぼろげに感じた。  ——俺と、士郎の未来か……  ママとあのメガネの男性のように、自分の気持ちを知ってなお、士郎との関係が断絶することなく、緩やかに繋がっていくことができたら、どんなに幸せだろう。  嘘をつかなくても、一緒にいることができたら。  久しぶりに、自分でも作詞がしたくなって、絢也は駅へ向かう足を早めた。

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