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26.心に吹く隙間風

「うぉ、すげ、結構いんな」 「去年とはさすがに違うねえ」  4人がバラバラと空港の到着ゲートへ向かって歩く中、啓介と拓郎が後ろでボソボソと小声で会話しているのが聞こえてくる。  2人が指しているのは、国際便の到着ゲート出口で待ち構えているファンの数だった。  無事6枚目のアルバムをリリースし、その足で繰り出した海外ツアー。  なんとか全公演を無事終えて、帰ってきた空港の到着ゲートの向こうにチラッと見えた限りでは、人だかりの規模は去年の倍くらい、いやもっといるか。  おそらく後方には三脚にカメラを構えたメディア勢もいるだろう。  時差ボケの残る頭でそんなことを思い描きながら、スーツケースをガラゴロと引いて絢也は出口をくぐった。  当然のように焚かれるフラッシュ、ファンの歓声。  心地よくそれを受け止めながら、絢也が人の列を抜け、事務所の用意した車が止まっている乗降エリアへ向かおうとした時だった。 「紗栄子(さえこ)……?」  歓声に紛れて士郎の声がした気がして、絢也が後ろを振り返った。  絢也の視線につられて、後からついてきていた啓介と拓郎も振り返る。  士郎が、ファンの列から少し離れて立っていた一人の女性の前で、立ち止まっていた。  何か言葉を交わしているのかどうかは、絢也の経っていたところからでは分からなかった。  やがて、出待ちをしていたファンたちまでがなんだなんだとざわめき始め、それに気付いた士郎が何度か絢也の方とその女性の方と忙しなく視線を走らせたあと、小走りで絢也たちに追いついてきた。 「どうしたんだよ」  拓郎に聞かれ、士郎が気まずそうな顔をする。 「や、ごめん……ちょっと、昔の知り合いが来てて」  それ以上話したがらない様子の士郎に、拓郎と啓介は肩をすくめると、元どおりの速さで歩き始めた。  車に乗り込んだ後も、士郎はずっと黙っていた。  普段はおしゃべりな士郎が黙り込んでいるものだから、あとの2人も空気を読んであまり話さない。  車内には、なんだか妙な空気が流れていた。  絢也は今すぐ士郎に事情を問い質したかった。  だが、同時に、何も聞こえなかったことにしてしまいたくもあった。  目の前は青空なのに、視界の隅、まだ遠くの方に、重たく横たわる雷雲があるような、そんな気分だった。 「今日はさすがに疲れてるし、荷物を片付けたら寝たいから」  士郎にそう言われて、絢也は大人しく自分のマンションに帰ってきた。  だが、頭の中は、士郎が空港で向かい合っていたあの女性の姿で占められている。  絢也の聞き取った言葉と、勘が正しければ。  あのとき士郎を呼び止めたのは、6年前に士郎と別れたはずの、士郎の元恋人だった。  ——今更、こいつに何の用だ。  もしすぐ隣に自分がいたなら、そう言っていただろう。  明らかに、昔の恋人を懐かしんで応援にきた、という雰囲気ではなかった。  もしそうなら、士郎があのあとあんな複雑な顔をして黙りこくったりはしなかっただろう。  それに、疲れているから、と絢也を遠ざけるようなことを言ったことについても、疑いだせばきりがない。  遠くにあると思っていた暗雲は、いつの間にか絢也の心の中にどす黒く垂れ込めていた。  気乗りがしないが、他にやることもない。  絢也も荷物をほどき、洗濯物とそれ以外に分けて、片付けを始めた。  士郎じゃないが、一眠りしつつ、合間に地元の友人たちや仕事で知り合った知人たちからの連絡に対応しているうちに、気がつけば日が傾いている。  海外へ出る前に冷蔵庫は空っぽにしてしまってあったから、今夜食べるものだけでも買いに出ねばならない。重たい身体を叱咤して、絢也は外へ出た。  近くのコンビニだけで済ませようと思ったが、出てきたら、どうしても士郎の顔が見たくなってしまった。  玄関で追い返されてもいい。留守にしていたり、寝ていて出てくれなかったら、諦めよう。  ツアー中は連日現地メディアの取材、ファンミーティング、ライブ、と非常なタイトスケジュールで、10日余りの行程は文字通り休む間も無く、当然士郎と2人で過ごせる時間もなかったのだ。  一休みした絢也が士郎を恋しく思ったのも、無理はなかった。  空港でのこともあり、士郎の顔を見て不安な気持ちを落ち着かせたかった。  絢也の足は意識する前に駐車場へ向かい、車のエンジンをかけて士郎のマンションまで走らせていた。  いつも停めるコインパーキングが運悪く満車だったため、少し離れた別の駐車場に車を入れ、歩いて士郎のマンションの前まで出る。  そこで、絢也の足が止まった。  ——あ、れは。  周りの音が全て消えた。  自分の心臓の音だけが、やけに大きく聞こえる。  声が出したくても、喉に何か詰まったようになってしまって、出てこない。  マンションの入り口で、士郎と女性が並んで立っていた。  空港で士郎を呼び止めたあの女性と、同じ人物だとすぐに分かった。  士郎の、元恋人。  なぜ、なんで、ここに。 「あ、……あ」  絢也の喉が、意味をなさない音を立てた。  それが届いたのか、士郎がこちらを振り返る。  2人の視線がぶつかった次の瞬間、絢也は踵を返して駆け出していた。 「絢也!」  後ろから士郎の声が追いかけてくるが、絢也は振り返らなかった。  絢也は、走って、走って、コインパーキングで料金を払うのももどかしく思いながら、慌ただしく車を発進させた。  士郎は、追いついてこなかった。  絢也は、上の空で運転しながら、今見た光景を頭の中で繰り返し再生していた。  そして、その意味を考えていた。  士郎は、あの女性に、自分のマンションを教えたのか。  なぜ。何のために。  何度考えても、絢也の頭の中には一つの答えしか、浮かばなかった。  ——士郎と、別れよう。  今までが、幸せすぎたのだ。  良くも悪くも、士郎に甘えすぎた。  現実は、残酷だ。  自分と違って、士郎には、女性と結婚して、子供をもうけて、家庭を持つという選択ができる。  それを、自分が奪うような真似はできない、と絢也は思った。  もともと、士郎は彼女と結婚するつもりでいた。  それを彼女が心変わりして、2人は別れを選んだ。  だけど、一度は結婚まで考えた彼女が、心を入れ替えて、どうかやり直してほしいとすがってきたらどうだ。  士郎は、断れるだろうか。  少なくとも、揺らぐだろう。  その揺らぎにさえ、絢也は耐えられなかった。  どこをどう帰ってきたのか記憶にないが、士郎は自分のマンションの駐車場に車を停めていた。  車を降り、鍵をかける。  あたりはもう暗かった。  予定していた買い物もしていないから、このまま家に帰っても食べるものもないし、部屋で1人で夕飯という気にはどうしたってなれなかった。  ——久しぶりに、行ってみるか……。  パーカーのフードを目深にかぶって、メガネをかけてマスクをする。  仕事帰りのサラリーマンで溢れる電車内ではちょっとした不審者だが、その格好を咎めるものは誰もいない。  電車を降りてマスクとメガネを外し、フードはかぶったままで繁華街の方へ歩みを進めた。  次第に、道ゆく人が男ばかりになる。  そう、ここは都心でも有名なゲイタウンだった。  絢也は、ここへは上京してから数えるほどしかきていない。  万一マスコミにすっぱ抜かれたら面倒だということと、士郎さえいればそうした遊びをする必要もなかったからだ。  だが、今の絢也には、士郎の代わりにはならなくても、その隙間を埋めてくれる誰かが必要だった。  あのあと、士郎からは何回か着信があったが、1度も出ていなかったし、出たとしても何を言えばいいのかも分からなかった。  今はとにかく、現実から逃げてしまいたかった。  適当に入ったゲイバーで、酒を頼んで、フードを下ろした。  店内の明かりは程よく落としてあり、お互いに顔を近づけなければ誰が誰かはぼんやりとしかわからない。  出されたショットグラスを飲み干し、おかわりを頼む。  そんな絢也の前に、するりとしなやかな人影が現れた。 「お兄さん、ひとり? 今夜の相手、探してるの?」  綺麗なアーモンド型の瞳をした、明らかに抱かれる側特有の色気をまとった男。  整えられたさらさらの髪を揺らして、絢也の目を覗き込んでくる。  顔は全然違うけれど、士郎と同じ、艶のあるクセのない黒髪。  柔らかく薄手の上質そうな生地のシャツに、下はぴったりとした光沢のあるパンツが、ほっそりとした腰のラインを際立たせている。 「俺でよかったら、遊ばない? 俺、お兄さんの顔、すごく好み」  紅い唇が、蠱惑的に動く。  直接的な言葉が相手を喜ばせると知っている顔だった。  さら、と頬に触れて、髪を撫でると、気持ちよさそうに目を細める。  まるで動物の猫さながらの仕草だ。 「いいよ」  ちょうど出てきたお代わりのショットを胃に流し込む。  胃と頭がカッと熱くなり、全てがどうでも良くなった。  黒髪の彼の細い手首を掴むと、店の扉を押して外に出る。  次の瞬間、絢也は雷に打たれたようにその場に固まった。 「絢也!」  絢也の目の前に立ちはだかった人物が、鋭い声で絢也の名を呼んだ。 「士、郎……」  これはデジャヴか。  以前も、こうして繁華街でホテルへ連れ込まれそうになったとき、突然現れた士郎に引き戻された。  そして、今度も、また。 「絢也! お前、何やってんだよ。こいつ誰だよ!」  叫んだ士郎に、黒髪の青年の手首を掴んでいた腕を掴まれて、振り解かされる。  青年は、「あれ、痴話喧嘩……?」と小さな声で呟いて、目を丸くした。 「絢也、帰るぞ」  士郎は掴んだ腕を引っ張って、絢也を引きずるようにしてズンズンと歩き出した。

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