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第2話
実際、高校を卒業する頃には、俺は先生のことはぼんやりと覚えているくらいになっていた。仕送りしてもらえるほど実家は豊かじゃなかったから、地元の大学に進学して、同じ悩みを抱える友達もできた。だけど、好きな人だけはできなかった。いいな、と思う人は何人かいた。だけど、もう顔は忘れかけているのに、あの時の先生の大きな手に撫でられたときのような、ドキドキする感覚はあれ以来、誰といても起こらなかった。
その日の夜は、サークルでの飲み会。サークルって言っても、「旅行同好会」とは名ばかりの、飲み会くらいしかしていない、小規模な集まり。俺と同じゲイで、ネコの祐一 が入るって言ったから、俺もなんとなく入っただけ。祐一にだけは、先生のことを話してあった。案の定、「そんな昔のこと、さっさと忘れて新しい恋人作んなよ」と言われたけれど。
旅行同好会のメンツは、悪くない。先輩もゆるいノリの人たちばかりで、個人をあまり詮索してこない自由な人たちだから、気兼ねせずに話せるし、変なところに旅行に行く人も多いから、結構世界観が違う話を聞けたりして面白い。土曜日だったけど、俺は二つ返事で参加を決めた。
バイトで遅れる先輩もいるから、集まれるメンツだけで始めてようってことで、18時から、会場である居酒屋に直接集合。そう言われた俺は、少し早めの17時40分頃、駅で祐一と待ち合わせて、居酒屋のある繁華街に向かって歩いていた。祐一と一緒に取っている授業の、期末のレポートの話なんかをしながら、ぼんやりと歩いていたとき、ふと視界のすみを誰かが横切るのが見えた。
今でも、どうしてそれが先生だって分かったのか、分からない。だけど、一発でそれが先生だって分かった。バッと振り返った俺に、先生が驚いて立ち止まった。
「先生!」
「お……前、結城……か……?」
先生は、記憶の中の先生より少し顔つきが男らしさを増してて、今日は休日だからなのか、ちらほら無精髭も生えてて、なんかとにかく、恋しい気持ちがブワッて胸の中で爆発したみたいに、たまらなかった。
「先生! 俺だよ、結城累 ! 先生は今どっかの帰り?」
祐一に目で謝って、先に行ってくれってジェスチャーをして、俺は慌てて先生に駆け寄った。祐一は目を丸くして訝しげな顔をしてたけど、きっとあいつのことだからうまく言い訳してくれるだろう。
「先生、飯まだなら、食ってかない? それともこれからなんか用事だった?」
少し強引だったかもしれない。でも、先生は、ちょっとびっくりした表情のあと、記憶のままの笑顔で俺に頷いてくれた。
「へーえ、そうかー。しかし、結城と酒を飲む日が来るとはねえー。あんなに小っさくて、ヒョロかったのに」
「小っさいは余計だろ、センセ。俺だって背ぇ伸びたんだぜ? 今年の春の健康診断で、173cmって出た」
「おおー、伸びたなあ。俺も追い越されそうだ」
「先生は無理っしょ、デカすぎ。188だっけ?」
「そんな細かい数字までよく覚えてんなぁ」
「だって女子が大騒ぎしてたもん」
俺は肩を竦めて運ばれてきたレモンサワーのお代わりを喉に流し込む。カッと胃が熱くなって、思考がほどよく緩んでくる。俺は先生の顔を見ながら、やっぱり、この人が好きだ、って、嫌というほど思い知っていた。
酒も進んで、先生もほろ酔いになってきた頃、「そういえばさ」と俺が何気ない風を装って切り出した。
「先生、結婚とかしてないの」
「俺? いやあ、してないねえ。残念ながら」
「じゃあ彼女は?」
「チビたちの面倒みるので、毎日忙しくて、とっくに愛想尽かされたよ」
「別れたの? 最近?」
「いやー、もう何年になるかな……」
「じゃあ、俺の担任だった頃はいたの?」
「うーん……もう時効だから話してもいいか。あの頃ちょうど別れる別れないで揉めてたんだよな」
「え」
「俺もさ、お前の学年が初めて持った担任で、まあテンパってたのよ。お前のことも放って置けなかったしな」
「俺?」
「そうだよ。あの頃、お前、悩んでたろ。俺に話してくれたのがめちゃくちゃ嬉しかったから、なんとか力になりたいって、いろいろ調べたりもしてさ」
「調べたりって……」
「そう、思春期の子が同性愛者だって性自認した時、どういうサポートがいいのかなとかね。そしたら、当時の彼女に、『私とのことより、その子のことを考えてる時間の方が長いじゃない』って言われて、結局フラれたよ」
「なんか、俺のせいでフラれたみてえ……」
「いやいや、結城のせいじゃないよ。俺がそうしたくてしていたんだしね。で、結城は、その後うまくやれてるのか? 彼氏とかできたりしてんのか?」
先生がいたずらっぽく笑うから、俺は胸がきゅっと締め付けられた。
——先生が、彼氏だったら、どんなにいいだろう……
そう思ったら、なんだか、止まらなかった。気付いたら、ぽろっと、口からこぼれていた。
「俺、先生のことが、好き、なんだ」
「……え?」
先生は、一瞬目を見開いたあと、くしゃっと微笑んだ。
「おう、ありがとうな」
「そう、じゃない……先生は、わかって、ない」
俺がボロボロと泣き出すから、先生はおいおいって困った顔で笑って、おしぼりを差し出してくれる。
「ずっと、先生のことが、先生だけが好きだった、から……それが、さっき、分かった」
「さっきって?」
先生が展開についていけないって顔をしてる。
「俺、卒業して、先生のこと忘れようって思ってたんだ。卒業したらもう顔も見ない。俺なんか10も下の中坊で、しかも男で、恋愛対象になんかしてもらえるわけないから、忘れて、新しい恋をしようって。だけど、全然誰にも先生にしたみたいにはドキドキしなくって。それで、さっき、先生のこと通りで見かけて、顔を見た瞬間、先生しか好きじゃなかったんだ、って気づいた」
涙でぐしゃぐしゃの俺の顔を、先生がおしぼりで拭ってくれる。顔をに触れる先生の手はやっぱり大きくて、暖かくて、ドキドキした。
「先生が思ってるような、憧れとかそんな綺麗なもんじゃねーよ……俺、先生で抜いたことあるもん」
「ぶほッ」
先生が派手に噴いて、今度は自分の手元をおしぼりで拭っている。
「お前な、さっきから黙ってれば……一体何言ってんのか分かってんのか」
口調は呆れていたけど、怒っているわけではなさそうだ。
「ねえ、先生は俺で勃つ?」
「おまッ、あのね、そういうことは」
「ねえ、答えてよ先生。俺のこと抱ける? 一回でいいから、抱いてよ」
自分でも、もう何を言っているのか分からなくなっていた。次から次へ、蓋をして閉じ込めていた願望がボロボロと口をついて出てくる。
——だって、今を逃したら、もう会えないかもしれない。
そう思ったら、もう必死だった。
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