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第1章 壱ノ谷越ゆ断ちて金覆輪
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北京 は、木綿豆腐に乗って家具屋敷に着きました。
玄関マット。ドア。
シャンデリア。
階段の手すり。
照明。クロゼット。
本棚。ソファ。
テーブル。
椅子。
一通りホコリを払って回ったのち、北京は枕のいる部屋に行きました。
枕は北京の気配を感じ取り、居ても立ってもいられず寝ていることにしました。
枕は北京が大好きでした。
しかし、枕は枕なので枕としてベッドの上にいるしかありません。
足があれば北京に会いに行けるのに。手があれば北京の頬に触れることができるのに。
枕は枕以外のものになりたかったのです。
もし枕に心臓があったなら、とっくに張り裂けていたでしょう。
北京はベッドに横になり、枕に頭を載せました。眼を瞑ります。天井が見えなくなりました。
しばらくして、北京は寝返りを打ちます。
枕はもう限界です。綿も羽も蕎麦もすべて飛び出てしまいました。
北京は眼を醒まします。急に枕が低くなり、吃驚したのです。何が起こったのか北京にはわかりませんでした。
北京は上体を起こしふと床に眼を遣りました。
そこには枕の中身が散らばっています。
可哀相に思った北京は、それを手ずから一つ一つ拾い集めました。
枕の中にそっと戻すと、枕は息を吹き返しました。
帰る時刻が来ていました。通訳も北京を呼びにきます。
枕は涙が止まりませんでした。哀しくて、嬉しくて。シーツまで濡れています。
北京は枕を抱きかかえ、魔法の呪文を唱えます。
枕が、枕以外のものになれますように。枕の望むものになれますように。
それから二度と、北京は家具屋敷に足を運ぶことはありませんでした。大切な家具たちを手入れする必要がなくなったからです。
枕はもっともっと北京が好きになりました。枕は枕以外のものになって、大好きな北京の代わりに家具屋敷を守り続けています。
そう、枕がなったものとは。
第1章 イチのタニコゆタちてキンプクリン
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やけに騒がしい。ざあざあと。
みぞれの混じる雨が降っていると思ったら、屋根に積もった雪が溶けて、庇を伝って落ちているだけ。ほかの窓から外を見る。
晴れてはいない。冷たい風さえ吹いていなければ暖かい陽気。
電話が鳴る。5コール。
相変わらず鳴っているので仕方ない。用件はわかっている。葬式が要るか要らないか。それだけ端的に伝えてくれれば。
違った。
ケータイに掛けてくれとあれほど。ヨシダだ。
「お勤めご苦労サンです? 迎えに行かせましょか」
「なんや間違うとる?」やけに深刻そうな声でヨシダが言う。
演技だったらいいが。
「なんでしょか。急にそないな」
「まあええわ。あとでな」切られた。
用があるならいま言ってくれればいいのに。気になって他の仕事が手に付かない。
それが狙い。ヨシダの手口。まんまと引っかかってるほうもほうだ。
結局、ヨシダが顔を見せたのが夕方。相変わらず時間感覚の麻痺したお人だ。
雑務に負われる雑用の身にもなってほしいものだが。望みはかけない。裏切られるのが心地よい。
「なんで逃げるんかな」思いの外重い話題がヨシダの口からこぼれた。
自分が間違っているから逃げられる。そう帰属したわけか。
「縋るもんがあらへんときっついのやもしれへんね。ヨシダさんにはありますでしょう。大事なお人が」
頬が紅くなる。
見逃さなかった。瞬きも追いつかないくらい一瞬。眼が乾く。
「戻ってくるとこが必要なんですわ。戻ってもええと思えるとこが」
「縋るもんかて、どないするん?」自分と同じものに縋らせたくないのだ。どない、はそうゆう意味。
ただでさえ、競争率が激しいところにもってきて。そんなに気を張らなくても。
ヨシダがいちばんだと思う。
主観で裏付けられないのがなんとも口惜しい。太鼓判ならぼかすか押す。
「俺は逃げられへんよ。片付きませんもん」いちいち列挙するのもアホらしい。
誰でもできる。
からこそ取り替えの利かないニンゲンに従事させる。メインテナンス。
「夢でも追いかけてきよりますわ。はようせい、て。ちーとも休まれへん」
「ほんなら、それ片付いたら逃げるん?」
返事の変わりに唇を舐めたかった。ヨシダの。
やっても意味ないからやめておく。
わかってやっているのでは。常々そう思う。
とっくに白旗なのに。いったい何色の旗に見えているのだろう。ヨシダには。旗自体を見逃されているか。
それだ。
手が出せないところにあるから欲しいのかもしれない。考察を進めてわかったことは、そうではないということで。万一ヨシダがメンテされる側にいたとしても、たぶん同じ。想像力が欠如しているだけだろうか。
ヨシダがヨシダでない状況が想像できない。
手が出せれば楽になれる。そんな簡単な理屈ではない。ヨシダが振り向くところが想像できない。想像力が足りないだけなのだ。
何をしていてもヨシダのことが気になる。アタマなかにはヨシダがうようよ蠢いている。心地よいので駆除しない。殖えるだけ殖えればいいし。殖えたら殖えただけこちらが苦しめられる。
「サダがおらはってよかったわ。俺だけやったらとっくに」ヨシダがぽつりと言う。
「とっくに? お国にお帰りなのと違います?」
帰りたいんだろうに。
追い出された、わけではないが、事実上追い出されている。
見るに見兼ねて付いてきてしまったのが運の尽き。楽しいんだか楽しくないんだか。
楽しくないや。
何が哀しくて、ヨシダが抱かれる客を選ばなければならないのか。
ヨシダは指示された相手の元にのこのこと出掛ける。拒否権もあるし疑問を抱いたって構わない。信用してくれている。そう考えたほうが心が軽くなる。
ヨシダを送り出すのも、客のところから戻ったヨシダを出迎えるのも。
楽しいはずがない。
「帰れるんかなぁ」ヨシダが呟く。
「帰りましょ。懐かしお家に」
電話が鳴る。いい雰囲気になるとすぐこれだ。監視映像を見ながら荷電 てきているのではなかろうか。底意地の悪い。
用件。死体はあるのかないのか。あったら葬式。なければ。
ないといい。なければこのままヨシダと。ないとヨシダが哀しがる。切なそうな顔をする。ないわけがない。
ない、すなわち見るに耐えない死体。だから他の奴にやらせているだけ。火にくべて灰に。
死因。ヨシダが聞き耳を立てているのでのちほど。
切った。何がのちほどだ.知りたくもない心臓が止まったから死んだんだろうたったそれだけのことで手を煩わせるな。
「俺も行っても」ほらヨシダがこうゆうことを言い出すのだから。
「ねちゃねちゃのぐっちゃぐっちゃゆうてましたよ。脳味噌内臓ばーんで何がどこにあったんか皆目見当つかれへんそうですわ」
「誰やろか」
名前。付けたばっかの。
逃げたから死んだ。
逃げなければ死ななかった。死ぬために逃げた。
死にたいなら逃げるしかない。
手持ちがまた減った。補充は見込めるだろうか。
「お話、しはりましたか」
「そこでな、すれ違うて。そんだけ」ヨシダが言う。
泣けばいいのに。抱き締める口実ができる。つい、でことは穏便に過ぎ去る。
泣きもしない。我慢すら。慣れたのだろう。
ニンゲンが死にすぎて。
廊下の電球が切れた。昨日交換したばかりなのに。おかしい。けちって安いのを買ったのがいけなかったのか。
それにしたって、たった一日。寿命が短すぎる。
椅子に乗ってきゅるきゅる外す。雑務だ。
シャンプーとトリートメントと、入浴剤と。洗濯洗剤も底が見えていたはず。今日はドラッグストアが1割引の日なのでそこに行こう。頭痛薬もついでに。雑務だ。
メールをチェックする。ヨシダにご指名。
帰ってきたばかりだから休ませてあげたいが。こっちもそっちも指名。すっかり人気者だ。
候補は三人。一番ぼったくれそうなのは。
本音を言えば、どんなにカネを積まれても門前払いしたい。指名が入らないからと嘘をついてヨシダに長期休暇を与えたい。
代わりに雑用の首が飛ぶが。雑務だ。
「サダはヤらへんの?」ヨシダが障子の隙間からのぞいていた。
スリープ状態にして笑顔を向ける。
引き攣ったふりをして答える。「それは、なんです? なんじょうサダはこのヨシダさんとヤらへんの俺はこないに想うとるのに、ゆうことでしょか」
万に一つもそのような意味でないことはわかっている。サダさんのいつもの冗談だ。
ヨシダがそう思ってくれたことを期待。
「ヤらへんよ。どこぞのヨシダさんのように引く手数多のもってもて、ひっきりなしのラヴコールもありませんし」
「俺の客増やされへんかな」ヨシダがぼそぼそと言う。
ああそうか。欠けた分を補わないと。
嫌われてしまう。見捨てられてしまう。
「ちょどええとこにいらっしゃいましたわ。一気に三人、こなせます?」
頷かなくていい。首を振れば調整くらい簡単に。
「サダはヤらへんのね」ヨシダが言う。
「負担でしょか。俺かてヨシダさんの力になりたい思うとりますよ、いつだって。せやけど適材適所ゆいますか資本主義の根底は役割分業ゆいますか」
「メンテんときは」
寝るんやろ。
頷いてほしいのか。首を振ってほしいのか。
「やっぱりヨシダさん、俺のこと気にしてはるのと」
「カネ足りる?」ヨシダが言う。
「足りてませんかったら、どないします? そんで客増やそう思いました?」
「俺はメンテせえへんの?」
なにか、あったのだ。
それがなんなのかわからなくて途方に暮れる。文字通り受け取ってはいけない。
ヨシダはぐるぐる遠回りして複雑怪奇なルートをえっちらおっちら歩いて、挙句迷うのだ。一緒に迷うより迷っている場所を突き止めてそっと手を引いてあげる。こちらの望む方向へやわやわと押し進める。だからとうとう、ヨシダの伝えたかったことはわからずじまい。
今回はなんだろう。文字通り受け取れば、誘っている?
実に新しい方法じゃないか。どこで覚えたんだそんな手口。
淋しかったら客に慰めてもらえばいい。カネも入るし一石二鳥。雑用メインテナンス係では、液体も気体も満たすことができない。
買い物に行くからと、一旦中断。予定が大いに狂う。
ヨシダも付いてきた。もの珍しそうにきょろきょろしている。連れてきたのは初めてだったか。
「欲しいもんありましたら、ここ」カゴに。「なんでもかんでもはあきませんけれど」
「飴ちゃんは」ヨシダがきょろきょろしながら言う。
「あんれ、お好きやったかしらね」
「美味かったさかいに」
客のところで食べたのだろう。美味しかった。食べてもらいたい。嬉しいこと楽しいことは分かち合いたい。
なるほど。今度の会合の手土産。
「何のお味でしたん?」
ヨシダが客からもらったのは。梅。
好きだっただろうか。絶食させて久しぶりに食べたから鮮烈に記憶に残っているに過ぎない、と仮定。
絶食。ああ、あいつか。わかってしまうのが疎ましい。
適当な理由をつけて回数を減らしたくなる。ヨシダを送り込みたくなくなる。
「もしやですけれど、梅の飴やのうて梅やなかったのと」
「どっちやったかな」ヨシダが首を傾げる。
梅の飴。あっただけぜんぶ買った。レジに行って思い出す。
そもそも買いに来たもの。メモすら置いてきたことに気づく。何をしに来たんだか。ヨシダとデート。
晩御飯を食べて雑務を片付けていたら、電話。
また訃報。死体があった。
廊下でヨシダが立ち聞き。
電球を買ってくるのを忘れた。ヨシダの顔が見えない。哀しいのかどうでもいいのか。近々葬式。
「なんとかならへん?」ヨシダが言う。
「死にたくて死んでるのと違いますやろか」
「なんで死ぬん?」
わからない。わかりたくもない。
死んでないニンゲンに、死んだニンゲンのことなんか。
2
試しにグラフを作ってみていよいよ手を打たないと、と思い直す。
この死亡率は、一種の感染症ではないだろうか。
誰かが死ぬと誰かが後を追う。後を追った誰かとまた誰が追って。
そして誰もいなくなる。
ヨシダと雑用係以外。ふたりだけ。
ヨシダの手土産が功を奏せば、それとなく補充が見込めるのだが。これだけ立て続けに鬼籍に入っていると原因を追究して早急に対処せよ、で終わる可能性が高い。厳重注意、というやつで。何の解決にも至っていない。
そして、ふたりぼっち。
同棲みたいだ、と冗談半分で言ったら、
ヨシダさん。本気にしたらしく、やけにそわそわしたりして。
面白いお人だ。
「お家でも一緒やったやありまへんか。仲睦まじう」
「ほんなら、俺」客の所へ。
送り出した先の三人の面が浮かぶ。
ヨシダを壊したら。
「ただじゃおかねえぞんなことしやがって」威勢のいい。猿轡をして尚この声量。教育のし甲斐が。
それも面倒くさい。
ヨシダには聞こえていない。すでに発車。そわそわしていたのはもしかして。
気づいていたか。
補充が見込めないならこちらでなんとかする。苦肉の策。
補充されるそれは即戦力になるが、こちらで調達したこれは。ゼロから教え込まないと使い物にならない。
「別に俺はええよ。お前が尿の道とケツの穴がばがばんなって糞便垂れ流しおっても。自分で取替えるんやね、オツム、やのうてオムツ」モニタを横目で見つつ。
急に静かになった。
それもつまらない。漏らした厭な思い出でも。トラウマ掘り当てたか。
本当にしょげてしまった。
抵抗してくれたほうが面白い。改めて噛み締める。こうやって情にほだされるのが悪いところ。
つらいなら逃げてもいい。まさか実行するなんて。ちらちらと隙間から見せたあり得ない選択肢を唯一のものと信じ。
死んだのは、
俺のせい。ヨシダのせいのはずがない。
逃げ道なら他にある。それを教えておけばよかったのだ。
死にたいほどつらいなら死ねばいい。
もっとつらいから。
自殺幇助。限りなく遠い。
心中未遂。限りなく疎い。
切れたままの廊下の電球。今日こそは買ってこないと。
メモをするとメモをしたことで安心して忘れてしまう。出掛ける前は憶えていても目的地に着くなりすっぱり忘れてしまう。
どうすればいいのだいったい。
「帰れねえのか」誘拐してきた少年が言う。
「ええなあ。帰るとこあるんか」
「ここよりゃマシだ」
「住めば都ゆう有り難いお言葉もあるえ」
「お前が気に食わない」最高の第一印象。
もうこれ以上嫌われることはない。これからどう振舞おうとプラスにしかならない。
まずまずの滑り出し。
「ほんなら知識入れずに第一陣行こか」
「は?」
「カネ儲けてきてな。どんな方法でもええけど、まあおススメは脚開く」
未開通が好きそうな客。の元に送り届けたはずだったが、
顛末を耳に挟んで笑いが止まらない。初回でタチ。
そんな展開聞いたことない。ネコときどきほんのときどきタチ、はないこともないがタチのみ。しかも初回。
確かな予感。これは、
イける。
縋る対象。それがないから心が揺らぐ。
帰る場所。それを与える。
帰ってきてもいい場所。安全基地。
すっぽり空いた隙間を埋める。絶対の信仰。
ヨシダのイジンさんに対する想いと同様。同じ仕組みを下層ピラミッドでも再現すればいいだけの。
そうと決まればそれとなく下準備を。ヨシダが戻る前に土台を据えて。
ようやく電球も取り替えなおす。
点けて、
消して。点ける。ケチるのはやめよう。
「お疲れさんどした。ちょいとお話ええですか」
「二度とやらねえからな」彼がこちらを睨みつける。
池が臨める座敷。
寒くて仕方ない嫌味な部屋。この時期は特に。
「タチでええから続けてくれへんかな。ただここにおって、偉そなヒトのふりしてくれたったら」
「やだね。二度とご免だ」
「キモチええのと違いましたん?」
「あいつらぜってーおかしいだろ。ふつーじゃねえよ」
あいつら、ということは。
初っ端から複数。
これまたご苦労さまで。
「なんやら食べましょか」
ありあわせのもので作った、昼食とも夕食とも、はたまた夜食とも似つかない、しかし決して朝食ではなさそうな料理を運んでも、彼は部屋の内部に興味がないようで。
内部に見るものがなかったのかもしれない。消去法として仕方なく外を見ていた。
声を掛ける。
無視。料理の腕を謙遜しつつ勧める。
彼は首を振る。冷めるからお先に失礼。
勝手にしろ食べたいといった覚えは。
「怒ってはるの?」
「あきれてるだけだ」彼が言う。
「ほんならええですけれど」
「なんで急に敬語なんだよ」
形式的に上位に君臨させる予定。ヨシダのほうが偉いがヨシダに人事権はない。
トップというのはいつの世も危ない。暗殺のターゲット。替え玉身代わり。
そうゆう面でも彼は使える。本来の目的は。
「昨今のたっかい自殺率に歯止め掛けよ思いましてな。なんで死ぬ思います? こっちの世に心の残りがのうなるからですわ。なんやらぐちゃぐちゃ気になることがありましたらそう易々とおっちねませんよ。せやからね、あんたはんに」
心の残りになってもらいたい。
考える余地は与えない。あれよあれよと言う間にすべては通り過ぎている。気づいたときには。
「死ぬ? 何の話だ」彼が言う。
「あんたはんみたいにここで金儲けの道具んなって、ぜってーおかしいふつーじゃねえ、とかゆいますヘンタイどものオモチャんなってるかわいそな少年ですわ。とかく哀しゅうことがありますさかいに。戻ってきいひんのですよお客んとこ行かはったっきり。亡骸が見つかるときもありますけれど大抵は、どっかの部分があったらええほうで。客が殺してはるのと違いますよ。ヒトの肉食うのがお好きやったり、ハメながら解体ショウとかなさるお変りの種はここのお客にはなれまへん。きっびしいチェック掻い潜って、ぼったくりな会費払うてはじめて、三流ですわ。客にもランクがありましてな」
味噌汁にうまみが足りない。だしをケチったせいか。ジャガイモも煮すぎてなんだかわからなくなっている。
「死ぬってのとつながらないが」彼が言う。
「せやからね、往ななりたいのは放っておいたらええのですよ。ご自分の不遇を呪うて飛ぶなり吊るなりお好きにしたったら。ホンマにね、なんとかせえへんと。ヨシダさんに会われましたん?」
彼は眉を寄せる。体をねじって部屋の内部に眼を向けて。
「死にたなりました? ぜってーおかしいふつーじゃねえ、とやらに掘られて」
「ヨシダ?って?」彼が言う。
「こっこのボス。俺の上司ですわ」
「お前がボスじゃねえの?」
「そう見えはりました? 俺なんただの雑用」メインテナンス係。
なにか不具合はないか。刃こぼれはないか。目盛りは歪んでいないか。表面をさらりとチェック。
雨戸を閉める。二重なのでもうひとつ。池に面する障子を閉める。
暗くなる。
チェックして故障やらなんやらが認められた場合、修理もしくは資源としてリサイクル。廃棄しては勿体ない。廃材にも必ず使い道がある。
それを見出すのが人事。
名前。そうだ、
それも仕事だった。
「脱いでくれへん?」
タチならぶち込む必要はないので、他の部分の整備。
彼が抵抗するので呪文をかける。大抵はこれで言いなりに。
ならない。
眼線。逸れて後退。反応速度もなかなか。
ますます見込みがある。
「大人しう脱いだったほうがええ思んますけれどねえ」
「脱いでどうするんだよ」
「そんなんわかりますやろ。身体測定しはるときべべ着たままできます? 身長はんはめーわくかからへんかもしれへんけど、体重はんは大打撃やありません? 座高はんも文句たらたらで、胸囲はんなん、三行半突きつけてお別れ必須やろね」
力づくで、は得意分野ではない。だからこそ呪いの文言があるのだが、
如何せん通じない。説得にも応じそうになく。
スゲなら飛び道具で脅すのだろうな、と余計なことを考えつつ。つられないだろうか。こちらが脱げばそちらも脱ぐ、とかそんな都合のいいことは。
「なに脱いでんだよ」
ないか。
これではただのヘンタイ。フラッシュとそう変わらない志向回路。
何のために網戸と雨戸と障子を閉めたのか。
寒いから。
見られるのは気にならない。観ている人間がいればの話だが。池の鯉くらいの。
名前。そうだった。
そっちを先に。
「ゆうとおりにしたったら、ええものあげますさかいに」
厭そうな顔。間違った意味でとられたらしい。
そんなオヤジみたいな手口使うわけはない。
オヤジ。なのかもしれない。そんなに老けてないのに。
出口。ないこともないが、
背中。睨み合い。膠着。どちらかというとこちらが有利。
地の利も部屋の勝手も。網戸と雨戸と障子を閉めて、出入り口を塞いでいる理由。
ヨシダに見られたくないから。しばらくは帰ってこないし帰ってこれないとも思うが、もしも、ということも。なにが厭でなにが怖いのか。
メインテナンスしながら考えるにはおあつらえ向きの脱線。
キナイ(いま決めた)は憎しみのこもった眼で見下ろす。
ぞくぞくするくらい屈従したい。と思わせる凄まじい。基本ネコだったからそう思うのかもしれない。
尚更に相応しい。
さっきスゲを思い出したので連絡を取ってみる。つながらない。電源の届かないところに、電波を切って。
嫌われるようなこと避けられるようなことしただろうか。無口な上に視野が狭いので取っ掛かりが摑めない。
視線を感じないので振り返る。「な?ネコちゃんのほうが楽ちんや思いまへんか?」
返事がない。
微かに車の音が聞こえた。なんともぎりぎりのタイミングでお戻りに。
ヨシダ。
メンテの事後は見られたところで構わない。メンテの最中さえ見られなければ。
「はようお召しくださいねえ。ヨシダさんに挨拶しはりましょか」
「こっから出られねんだろ」キナイが言う。
「お留守番たまーにお葬式。そないに心配せんでもメリもハリもありますわ」
「会っときたい奴がいんだけど」
家族。友人。恋人。
最後のは確率的に低いとは思うが。
「ええ子にしてはったら遺言ゆわれへんでも済むかもしれませんえ」
「いま会いたい」
庭の飛び石をぴょいぴょいと踏むヨシダに手を振る。ちょうど雨戸を開け切ったところ。その角度ならキナイの背中は見えないだろう。
「なんやスゲにちょっかい出したん?」ヨシダが言う。
「よう知ったはりますね」
やはりわかっていて応答しなかったのか。だいたい、裏でこっそりヨシダに告げ口するなんてらしくない。
「スゲと喋りたいんやったらスゲのとこ掛けたってね」
ディスプレイを見せつける。ケータイ。ヨシダの。
あれ?おかしい。誰が。
受信元。
「ちょお待ってヨシダさん。なんやらよく」
間違えてヨシダのケータイに掛けたのはわかったが、つながらなかった。つながらなかったのなら用件もわかるはずない。
どうして、スゲに掛けたのだと。
あれ?なんかへんだ。誰が。
発信元。
「へ?ヨシダさん? なにがどうなって」
ちっとも解せない。
でもまあ、ヨシダが楽しそうなので、いっか。
明日イジンさんに会いに行くことになっているからかもしれなくても、
いいや。行って帰ってくると大概しょんぼりしているのだし。最大瞬間風速的にでも笑っていてくれれば。
キナイの、
いま会いたい、とかゆうニンゲン。
こちら側に引きずり込めないだろうか。心の残りにして。
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