3 / 10
第2章序章
0
彼が私の名を呼ばなくなった。
代わりに僕の名を呼ぶようになった。
彼にとってもはや私は僕であり、私は無と化した。
私はいなくなった。
彼の笑顔が増えていく。
私にとっては喜ばしいことなのだが、不在になった私はもう彼の笑顔を見ることができない。
僕はどう思っているのだろう。
私と僕は意識も記憶も断絶しているので共有はできない。
願わくば僕が彼を幸せにしてくれることを。
願って。
明確に意識が遠ざかって行くのがわかる。
これが死なのかもしれない。
痛みはない。
どちらかというと心地よい。
もとより私は私が好きでなかった。
私が私でなければよいのに。
何度そう願ったか。
ああ、そうか。
彼に望まれたふりをして私は。
私でなくなることを願ったのだ。
私は僕になる。
私は。
彼が帰ってきた。
僕はいつも通りおかえりを言う。
いつものとおり。
だってずっと変わらず僕はここで彼の帰りを待っている。
それが僕に与えられた役目だからだ。
「おおきにな、■■」彼が僕の名前を呼ぶ。
あれ?
僕の名前。
そんなんだったっけ?
記憶に穴が空いているのがわかる。
でも彼はその記憶の穴ごと。
僕を愛してくれている。
だからまあ。
いいか。
思い出さないならそれまでってことだ。
今日のご飯は何にしようかな。
そんなことを考えながら。
細かな字で書かれた日記を机の引き出しにしまった。
鍵は。
どこにあるかわからないからかけない。
彼が呼んでいる。
行かなきゃ。
何度も何度も呼ぶだなんて。
よほどお腹が空いてるんだろうな。
毎日おつとめご苦労さま。
第2章 この悲しみを叩きつける壁はダイヤモンドでできている
1
ヨシツネさんを送って屋敷に戻る。
天気予報では曇りだったが、どす黒い色の雲が山にかかっている。
迎えに行くときは傘が必要だろう。
池の鯉に餌をやる。
寒い。
上着を車に忘れた。
きょろきょろしながら廊下を歩いている姿が眼に入る。
「起きたか」
「ごめん、いま何時?」能登 が眠そうにメガネをかける。「ケータイの充電切れちゃってて」
「そっち行く」
奥の座敷のさらに奥に離れがある。
充電用のコードとペットボトルの水を持って行く。
「ありがとう。いつも鞄に入れ忘れるんだ」能登が申し訳なさそうに云う。「うわ、昼からだな」
ここから能登の通う大学まで、最速でも一時間弱かかる。
正午まであと一時間を切った。
「疲れてるのかな。続いてるよね、こうゆうの」能登がペットボトルを手の中で転がす。「バイト休んで早めに寝ることにするよ」
「駅まで送る」
車の中で能登はケータイをいじっていた。寝ている間に来ていた連絡に律儀に返事をしているのだろう。
信号で止まる。
駅はもう眼と鼻の先。
「ねえ、群慧 くん」能登が云う。「ヨシツネさんがしてることって」
「俺に聞かないほうが」
「教えてくれないんだ。云いたくないみたいで」
信号は。
赤色。
「俺だけ知らない」
「知りたいのか」
「ううん、予想は付いてる」能登が云う。「内容を知りたいわけじゃなくて、たぶん、俺だけ仲間外れにされてる気がしてるだけ。ごめん、自分で聞くよ。忘れて」
いつもの場所で降ろす。能登が改札に走って行く姿を見送った。
屋敷に戻ると、師匠が縁側で銃の手入れをしていた。
「あとで」師匠は俺を見ずに云った。稽古のことだ。
冷蔵庫に昨日の晩飯の残りがあったので、レンジで温めて食べた。
味がしない。
薄味なわけじゃなくて、俺の舌がおかしいだけだろう。
裏庭で師匠に稽古をつけてもらう。力と才はあるが、使い方がわかっていないと説明を受けた。
強くなりたい。
稽古は苦ではない。
強くなれるなら。
「迷うと負ける」師匠が云う。全然息が乱れていない。「今日は終わり」
「ありがとうございました」
まだやれる。そう云いかけて呑み込んだ。
無理矢理呑み込んだ息が変なところに入ってむせる。
「迷いわかってる。なんで迷ってる?」師匠が云う。俺の呼吸が整うまで待ってくれた。
何も云えない。
まだ、なのか。
ただ、なのか。
「迷う悪くない。けど、迷ったまま戦えない。戦う前決める」師匠はそれだけ云って帰った。
稽古のためだけに来てくれたのか。俺の現状を指摘するために稽古という場を使ったのか。
部屋で筋トレする。ときどき時計を気にしながら。
タイマーをセットして、座禅を組む。
答えは出ているしわかっている。
師匠の云う通り、迷っているのだ。
本当にそれでいいのか。本当にそうするしかないのか。他にもっといい道はないのか。
ヨシツネさんの下に転がり込んで3つの季節が過ぎ去った。
4つ目の季節。
白い冷たいイメージ。
温かさを求める。心も身体も。
ヨシツネさんの傍にいればそれ以上の喜びはないと思っていた。思いたかった。
望んではいけない。わかっている。いまはそんなこと考えるべきでない。
ヨシツネさんがやっていること。これをいいか悪いか決めるのは俺じゃないし、口を出す権利もない。
手足に脳は要らない。
ヨシツネさんの云うことに従っていればいい。
本当に?
それでヨシツネさんが幸せなら。
幸せなのだろうか。
もともと悲しそうに笑う人だった。
本当に?
少なくとも俺が初めて会ったときは。
ヨシツネさんに本当の意味で幸せになってもらうことは俺には出来ない。
本当に?
やらないだけではないのか。
やれないと思い込んでいるだけではないのか。
ヨシツネさんは、朝出掛けて夕方に帰って来る。夜出掛けて次の朝帰って来ることもある。シフトみたいなものだとヨシツネさんは云っていた。
屋敷にいるときはほとんどパソコンと睨めっこ。顧客の対応とやら。全部一人でやっている。
その他の時間はすべて、能登との交流。
能登は大学に通っている。住んでいる場所も決して近い距離ではないし、能登だって暇ではないはずだが、ヨシツネさんが呼べば極力時間を作っているようだった。
嫌なら断ればいい。違う。できない。能登がヨシツネさんのいいなりになっているわけではない。
ヨシツネさんが嬉しそうな顔をするから。
断れなくなる。
ヨシツネさんが笑顔なのは俺も嬉しい。
でも、ヨシツネさんが笑顔になる本当の理由は、能登の知らないところにある。
俺は知ってる。
知っていて知らないふりをしている。
師匠が云っていた迷いは、たぶんこれだ。
このままヨシツネさんの笑顔を守る方向で俺が全力を尽くしてもいいのか。
例えその方法が、人殺しに相当する非道だとしても。
俺は。
ヨシツネさんのために鬼になれるのか。
それを決めろと師匠は云っていたんだと思う。
覚悟がないなら去ったほうがいい。邪魔だし、そもそもそういう条件でここに置いてもらっている。
俺が。
すべきことは。
アラームが鳴った。
ヨシツネさんを迎えに行く時間だ。
客の家まで直接迎えに行くことは稀。そういう場合は師匠が出向く。何か問題があった場合だから。
俺は指定された場所で車を止めて待つ。
色素の薄い髪。
寒空の下に和装が映える。
「おかえりなさいませ」俺は頭を下げる。
「ただいま」ヨシツネさんが口の端を上げて云う。
後部座席のドアを開ける。
冷たい。
水滴。
「雨やん。危なかったな」
ヨシツネさんが乗ったのを確認してドアを閉める。
「濡れてませんか?」運転席に乗ってシートベルトを締める。
「間一髪な。ええよ。出して」
後ろからヨシツネさんじゃないにおいがする。
いつも。
迎えに行くと違うにおいを纏っている。
「能登くんは?」ヨシツネさんが云う。「気持ちよう寝てはったさかいに。置いてきてもうたけど」
「午後から大学に行ったと思います。駅まで送りました」
「そか」
ヨシツネさんが聞きたかったことはそういうことじゃない。
俺はわざと。
違う答えを返した。
ヨシツネさんもそれをわかっている。
「すっかり日が短うなったね」ヨシツネさんの眼が窓の外を見ている。
バックミラーで見えた。
「あと、もうちょいやさかいにな」
屋敷までの距離か。
今年の終わりまでのカウントダウンか。
「もうちょいで、キサが俺んとこに帰ってくる」
能登は。
ヨシツネさんの好きだった人に似ているらしい。
もう、死んでるが。
ともだちにシェアしよう!