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第1章 この悲しみを取り除いてくれる王子様を待っている
1
ひとことで言うなら、僕は売られた。
もう少し付け足すなら、僕は養子として引き取られた。
更に詳細を加えるなら、僕は実家の跡取りとして用を成さなかったので別の家の跡取りとして使い道を見出された。
要は、僕は誰にも必要とされていないし、必要とされたとしてもそれは何かの身代わりで代用品。
僕が僕だから必要としてくれるなんてことは、ない。
徹頭徹尾、虚しくて空っぽの器だ。
「まだいたの?」アズマさんが背を向けたまま云う。
アズマさんの眼は、暗い部屋の中でひときわ眩しいディスプレイから離れていない。
僕より価値のあるものが、その画面の向こう側にある。
「聞こえなかった?」アズマさんの声はひどく乾いて聞こえた。
「失礼します」僕は端的に返事をして服をかき集める。
足の踏み場なんかビックバンの頃から存在してないんじゃないかってくらいの散らかった床。僕はベッドに入る前の記憶を頼りにペットボトルの空容器や、栄養補助食品の空袋を避けて歩く。
僕は、この床に放置されるいずれのゴミよりも価値が低い。
ゴミは用済みでも床に放置されるだけだが、僕は部屋の外に放り出される。
裸同然で。
廊下で服を着て明け方の外気に触れる。
呼び止める声なんかない。聞こえたとしてもそれは妄想で幻聴だ。
春めいてきたとはいえまだ寒暖差がそこそこ激しい。
身体の冷えは耐えられる。帰って熱いシャワーを浴びればいい。
心の冷えは。
どうにもならない。
どんどん拡がって侵蝕して。
またここに戻って来る。
僕の家。借りものの家。
養子だからという意味じゃない。
僕は表向き、養子として引き取られたにすぎない。
僕の本当の役割は、屋敷の地下にある。
薄暗い階段を下りて、重い扉を引く。
彼は。
いつもの通りキャンバスの前に座って居眠りをしていた。
僕の気配を感じ取ると、ゆっくりと眼を開ける。
「おかえり」
「ただいま」
彼が一番最初に僕に云った決まりというか約束。
言葉遣いは可能な限り兄弟のそれで。
彼の方が年上だが、彼が求めているのは年功序列の窮屈さじゃない。
「最近早いね」僕の帰る時間のことを云っている。
「お邪魔みたいで」
「俺にも本気出せってことかな」彼は伸びをして椅子に座り直す。「明日、ていうか今日か。何時から?」
「カレンダーを買ってきましょうか?」
「日めくりにして君にめくってもらおうかな」
毎日来いということだ。
「シャワーは?」彼が云う。
「まだです」
「どうせもう一回浴びるしね」彼が絵の具をパレットで混ぜ合わせる。
部屋の明るさがまばらなので、それが何色なのかここからでは見えない。
キャンバスは、いつも真っ白。
背もたれのない、木製のベンチが部屋の中央にある。
僕はそこに仰向けに横たわる。
シャツのボタンを外す。
ベルトを緩める。
ズボンを床に落とす。
「君の髪も眼もなにもかもが創作意欲を掻き立てる」彼の足音が近づく。「はっきり云うと、好みってやつ。こんなにドンぴしゃなモデル、アズマさんはどうやって探したんだろうね」
彼が、僕の脚と脚の間に立つ。
あとはいつも通り。
貫かれる痛みに耐えながら、全身に絵の具を塗りたくられ、そして最後に。
彼は。
自分で描いた絵を、僕ごと自分の精液で汚す。
これが彼の、桓武建設の本当の御曹司――桓武衡宜 の芸術活動のすべて。
僕は生贄にすぎない。
飽きたら殺されるのだろうか。前のモデルはどうなったのだろうか。
僕はまだ怖くて聞けていない。
アズマさんが。
僕を。
彼に宛がった。
「今日のもまあまあかな」衡宜は息を整えながら僕の表面を舐めまわすように見る。
シャッター音。
撮影もしている。
静止画は最後に一枚限りだが、制作中は動画で一部始終を記録している。
衡宜は、絵を描いている間の記憶がない。
ない。というのだからないのだろう。
一種のトランス状態だと思われる。
でも僕はその間のことをすべて憶えている。
衡宜が何一つ覚えていなくても、衡宜がやったこと、云ったことのすべてを記憶している。
シャワーを浴びている最中、水音にまじってありありと蘇る。
フラッシュバックに近いかもしれない。
キャンバスに描いてもらえないだろうか。
やってみたけど上手く描けない。
キャンバスに描きながら性器に刺激を与えれば同じでは?
やったこともあるんだけど、一度としていい絵が描けたことがない。
恐ろしいことに衡宜の絵は、そこそこの価値が出て、そこそこの値が付いている。
アズマさんはネット上でそれを売り捌いている。
現物は売れない。現物は僕の身体に直だし、描いたあとは洗い流すから。
現物は一枚たりとも残っていない。
だからこそ、静止画と動画が必要になる。
確かに衡宜が書いたという証拠。鑑定書みたいなものだ。
僕の顔が映っていないといいけれど。
「智崗 元気?」衡宜が真っ白のキャンバスに話しかける。
キャンバスは答えてくれないので代わり僕が答える。「週末に家に呼ばれています」
「花嫁修業の途中経過を見せつけたいんだろうね。てきとーにあしらっといてよ」
「弁当を持たされたら受け取ってくれますか」
「絵の具でも詰めとけって云っといて」
重い扉を押して、眼が回る階段を上がる。
眩暈。
壁に手をつく。
時刻は。
どうでもいい。
「まあ若様。どうされたのです? お身体の具合でも?」家政婦が大げさに騒ぎ立てる。
屋敷の至るところにある監視カメラにアピールしているだけ。
家政婦は僕が心配で声をかけたんじゃない。
「心配かけてすみません」僕は御曹司の顔で云う。「少し眩暈がしただけですので」
「そうでございますか。だいじがなくてようございました」
身体中がだるくて何もする気が起きないが、家にで寝ていても家政婦が五分おきに生存確認をしに来そうで余計に面倒くさい。
アズマさんのところに行ければいいけど。
呼ばれない限りは行ってはいけない。
地下は一日一回でいい。
地上にもどこにも、僕の居場所はない。
消去法で大学に行った。女が高速で群がって来る。
本当に心底鬱陶しい。
お前らが見ているものは、僕の背後にある権力とカネだろう。
それか僕の外見にへばりついている金髪とか碧眼とか、とにかく見た目のほう。
もううんざりだ。
適当にあしらって図書館に行く。さすがに女どもも図書館までは付いてこない。
日本美術の区画で立ち止まる。
もしここに衡宜の画集でも並んでいたら背表紙に唾を吐いてやろうと思った。
「ちと、すまん」
本を取りたいので退けという意味だと思って一歩下がったが、どうやらそうではなさそうだった。
彼は、僕を見ていた。
「何かご用でしょうか」僕は場所柄小声で云った。
「ちょっといいか」
浅黒くガタイのいい男。腕周りの筋肉がそこそこ目立つ。無地のTシャツが嫌味でなく似合っている。素朴で単純そうという意味。
「ここでは出来ない話でしょうか」
「桓武建設んとこの御曹司だろ?」
僕は勿体つけて息を吐いた。「なんでしょうか」
男に付いて図書館を出る。構内で僕と一緒にいることはとかく目を引くことをわかっているのか、躊躇いなく駐輪場を抜けて、裏通りの喫茶店に入った。
客は僕ら以外誰もいなかった。表の看板がくすんでいてお世辞にも客寄せに効果を発揮できていない。
カウンタの奥から「お好きな席へどうぞ」としわがれた声がした。
「何の用でしょうか」僕は早く用を済ませたかった。用らしきものがあるのなら、だが。
店自体の雰囲気は悪くなかったのが残念だ。こんな機会でなければ、一人でゆっくり読書でもしたい。
「あんたを見込んで頼みがある」男は急に低姿勢になってテーブルに額をつけた。「不躾なのはわかってる。初対面で言えることでもねえんだが」
「名前は? 僕のことはご存じでしょうから」
店主らしき老紳士が顔を出したが、男は「珈琲二つ」とだけ云って老紳士を追い払った。
僕が珈琲を飲めなかったらどうするつもりだったのだろう。自分で飲むのか。
「麿坂勇和 という。同じ学部の4年だ。こいつを見てほしい」ポケットからしわしわになった画用紙を取り出した。
クレヨンで描かれていた。子どもの落書き。
家?
「こいつを図面に起こしてほしい」
「卒制か何かですか」
「いや、個人的なもんだが」麿坂は言いにくそうに目を逸らした。「どうだ。できるか?できねえか」
「できるできないの前に、あなたは忘れていることがあります。それがおわかりでないのなら、僕は」立ち上がる。
「待ってくれ。待って。あんたにしか」
「最初に自分でも言ったでしょう? 不躾だとか、初対面だとか」
なぜだろう。
ものすごく。
苛々する。
「頼む。俺を助けると思って」
だからなんで。
僕が見ず知らずのお前なんかを助けないといけないんだ。
僕が本当に。
助けてほしいのは。
「お待たせしました」老紳士が珈琲を持ってきた。「どうぞ。ごゆっくり」
「せっかくですが帰ります。お釣りは構いませんので」僕は紙幣をテーブルに置いた。
「そうですか」老紳士はひどく残念そうだった。
なんでそんな眼で僕を見るんだ。
まるで僕が悪いみたいじゃないか。
「こいつを描いたの、俺の弟なんだ」麿坂が喋り出した。「あいつ絵が好きで、俺が建築やってるつったら、俺にこうゆう家を建ててほしいつって。云ってたんだが」
亡くなったか。二度と絵が描けない身体になったか。
「時間がない?」
「いや、造ったところでどうにもなんねえよ。ただの自己満足だ。云ったって、聞こえちゃいねえ」
事情を聞かなければいけないのか。
全然欠片ほどの興味もわいてこないのだが。
「僕の家と取引がありますか」僕をターゲットに選んだ理由を探ろう。
「いや、そういうんじゃなくてな」麿坂は頭をかいた。「知り合いに聞いたら、適任だろうって」
「その女性の名前は?」女しかいない。そんな余計な手を回すのは。
「いや、あんたは知らないと思う」
「名前は?」
食い下がったら吐いたが、案の定女側の一方的な知り合いだった。
記憶にもないし、記憶に留める必要もない。
「帰ります」
麿坂がドアの前に立った。
「退いてください」
「知り合いに聞いたのは、あんたの居所だけだ」麿坂が苦渋の表情で云う。「衡宜は、俺の弟だ」
なんだ。
昔は、
紙に描けてたんじゃないか。
2
僕にも弟がいる。
胎違いか種違いかはわからない。
とにかくあまり見てくれの似ていない弟がいる。
「大丈夫か?」麿坂の眉間が見えた。「病院とか」
「ただの眩暈です。よくあるんで」立ち上がろうとした。
膝から下に力が入らない。
テーブルに手をついて身体を支える。
「悪いが、あんま食べてないのか?」麿坂が僕を椅子に座らせる。
まだ、喫茶店にいたらしい。
カウンタ奥の老紳士が心配そうな眼差しを向ける。
「あの、大丈夫ですので。ご心配をおかけしました」今日はこんなんばっかりだ。
「少し休んでった方がいい。ここが嫌なら」麿坂が云う。
「帰ります」麿坂を振り切って店の外に出る。
夕方になっていた。
店の窓は曇りガラスになっているので天気も時間もわからなくなる。
「んなふらふらでどこ行くってんだよ」
本当だ。
麿坂の云う通り。
一体どこへ。
帰る場所なんかないのに。
「俺んとこ来い。家すぐそこだから。嫌なら救急車呼ぶぞ」
仕方ない。救急車のほうが面倒が増える。
僕は黙ってうなずいた。
その先の記憶がぷっつりとなくて、気づいたら。
ベッドの上にいた。
低い天井。
麿坂の家か。狭いアパート。
アズマさんのとこは広いけど物が多すぎて足の踏み場がない。
ここは、物がないけどかなり狭い。ベッドとテーブルでほぼ室内が占拠される。
「気づいたか」麿坂の声が降って来る。「なんか食うなら買ってくるが」
「水があれば」
麿坂がペットボトルを持ってきた。そこそこに冷たい。
力が入らなくて蓋が開けられない。
「貸せ」麿坂が開けてくれた。「ほら」
「ありがとう」
水が冷たいお陰で頭が冴えてきた。
麿坂は床面に座ってこちらを見ている。
知らない振りして眼を瞑った。
「悪かったな。騙すような真似して」麿坂が云う。「あすこじゃ誰が聞いてるかわからなかったし」
「僕が気に障ってるのはそっちじゃないよ」
紙に描けたのならなんで。
兄がいるのならなんで。
「俺は胎違いだから。いないことになってる」麿坂が云う。「桓武建設の汚点てやつだ」
「なんで同じ大学にいたの?」
「そんなの俺が吃驚したさ」麿坂が皮肉っぽく嗤う。「しかも養子なんて。あいつ、衡宜、元気でやってるか」
「自分で聞けばどうです?」
「聞けたらやってるよ」
僕が養子に来る前だ。
いろいろあったんだろう。
果てしなくどうでもいい。
「面倒なこと聞いたな」麿坂が席を立った。
しばらくして水の音がした。
顔でも洗ったのか。
ケータイで時間を見た。
19時。
まずい。家に一報入れないと警察に捜索願でも出されかねない。
屋敷に電話した。ワンコールで執事が出た。無事なことと、夕食を採ってから帰る。それだけ伝えた。
「ずいぶん過保護だな」麿坂がベッドを背に床に座る。
「一応未成年なので」
「夕飯食わねえと帰れねえんだろ?」麿坂が振り返る。「歩けそうならどっか付き合うぞ」
食欲がないけどそうすることにした。
麿坂はまだ僕に伝えたいことがあるみたいだった。
外はすっかり暗くなっていた。麿坂のアパートが大学の近隣なので、電車に乗って移動した。学生に、特に女に見られると面倒が増えるし、麿坂も内密な会話を希望した。
個室の居酒屋。匿名性的にもちょうどいいだろう。
「酒は?」麿坂が冗談ぽく云う。
「飲みたいと思ったこともありません」
隣のテーブルで新歓コンパをしているらしかった。
うるさい。
「いい席だな」麿坂が云う。
「話したいことがあるならどうぞ?」
麿坂が唐揚げを口に放り込む。「図面云々の話は忘れてくれ」
「何年前ですか?」
「どうだったかな。あんな下手くそな絵描くくらいだから、十年以上は経ってんだろ」
新入生が無茶振り一発芸をさせられている。
かわいそうに。
「一緒に住んでたことはないんですね?」
「一緒に住んでたら、て思ったことはあったがな」麿坂がグラスの水滴を指で拭う。「あいつ、あれ、まだやってんのか?」
「何のことです?」わざととぼけた。
「知らないならいい」
「紙に描いてくれればいいのに」
麿坂が顔を上げた。
僕は水を飲む。
「キャンバスはいつまでたっても真っ白なんですよ」
「そうか」麿坂が頭を抱える。「やっぱあれはあいつか」
「あれ?」見当がついたけど敢えて聞いた。
アズマさんがあれをネット上で売り捌いている。
麿坂がなんかのきっかけで見つけてしまう可能性だってないわけではない。
「とすると、あんたはあれのモデルとして」
「モデル?」嗤えてきた。「生贄でしょう? もしくは穴付きのホワイトボードとか」
「やめろ。そういうことを云いたいんじゃない」
「じゃあ、何を云いたいんです? あなたが義理でもなんでも、兄のままあの家にいたら、僕は養子に取られることもなかった。違いますか?」
「だから、俺は」
「わかってますよ。いないことにされたから兄でもなんでもない。でも、僕なんか、そもそも弟でもなんでもない。ただの他人です。人間キャンバスとして犠牲になった」
「落ち着け。そんな話するためにあんたに声をかけたんじゃない。本当だ」
「じゃあ、僕を」
救ってくれますか。
助けてくれますか。
「俺が代われるんなら、そうしてる」麿坂が云う。嘘ではなさそうだった。
でも、そんなこと不可能だ。わかってる。
衡宜の“好み”が僕でどんぴしゃなら、麿坂はその対角にいる。一切興味のないカテゴリに属する。
「あんたは知らないかもしれないが、衡宜だって最初からあんなことしてたわけじゃない」
「そうみたいですね」ちゃんと画用紙に描けていた時期もあったらしい。
「同情しろってんじゃない。あんたは被害者だ。そこは揺らがない。だがな、あいつは、衡宜は、あの方法じゃないと描けなくなっちまった」
「知ってますよ」だからキャンバスが真っ白なのだ。
「そうじゃねえ。そうじゃなくって」麿坂が頭を掻く。「衡宜はな、同じことされてたんだ。実の親父に」
それが。
いったい。
どうだっていうのだろう。
「僕に同じことをしていい理由にはならない」
憎しみの連鎖。
性的嗜好の歪み。
自分がやられたから、他人にもやっていいのか。
いじめの原理だ。
隣のテーブルの新入生が今日の日の腹癒せに、来年まったく同じことを新入生にする。
嫌な伝統。
それとどう違う?
「あなたは知ってたけど見て見ぬふりをしたんでしょう? 傍観者じゃないですか。同罪ですよ」
麿坂は何も云わない。
「衡宜を助ける気だってなかった。だって、もし庇ったら自分が代わらされる恐れがあったから」
麿坂は何も云えない。
云わせない。
加害者が増えただけじゃないか。
被害者は依然として僕ただひとり。
僕が我慢すればそれで世界は丸く収まる。
その程度のことだ。
「用はそれだけですか」
「謝ったって、謝れないことはわかってる。でも」
「本当に悪いと思っているなら、衡宜を殺してください。そして僕を解放して下さい。できないでしょう? できないのになんで、こんな話聞かせたんですか? 誰かに打ち明けて楽になりたかっただけでしょう? そんなの、僕じゃなくたって」
涙も出やしない。
干上がったカラカラの井戸。掘ったところで出るのは濁りきった汚水。
「衡宜を殺したら、あんたは本当に桓武建設の“御曹司”になっちまう」麿坂が云う。「これの意味がわかるか? 本当に逃げられなくなる。あんたにその覚悟があるか?」
「いまよりずっとマシですよ。毎日毎日地下の拷問部屋で、板張りのベンチで物みたいに無理矢理犯されながら、全身に絵の具を塗りたくられた挙句、精液ぶちまけられて写真撮られるんですよ? 毎日ですよ、毎日。気なんかとっくに触れてる。これ以上の地獄なんてない」
「あいつの、社長の本当の狙いがわかんねえか?」
桓武建設社長。
僕の養父。僕の買い手。
「どうでもいいんです。僕には関係ないし、跡を継ぐのは衡宜だ」
「本当にそう思ってるか?」麿坂が神妙な顔で云う。
隣が静かになった。
お開きになったのだろう。
「頭のいいあんたならわかってるはずだ。俺にだってわかったくらいなんだから」
背筋が急激に冷えた。
グラスの氷がなくなっている。
「あんたが養子に取られた本当の理由。知りたくないか?」
もしここでアズマさんがドッキリよろしく顔を出してくれたらそれはそれで安心できた。
でもいくら待ってもそんなことはなくて。
アズマさんが僕に嘘をついてる?
いや、必要がないから云わなかっただけだ。
本当に?
なにか。
忘れてないか?
「どうする? 二次会は俺の家がおススメだが」麿坂が意地悪っぽく聞く。
僕は屋敷に再度電話した。
友人の家に泊まるので朝方帰ります。衡宜にはいつもの時間に、と伝えてください。
夜道を逆戻りする。
麿坂の大きな背中がやけに頼もしく見えた。
養子に出されて以来、信用できるのはアズマさんだけだと思っていたのに。
こんな、今日初めて会った、衡宜と半分同じ血の男なんかに。
「俺は」麿坂が云った。
衡宜を殺して自分も後を追うつもりだと。
3
駅に着いてきょろきょろしていると、金髪の少年が走ってきた。
「はじめまして」少年は云った。「えっと、お名前はこれから決まるのでアレですけど、僕は」
それが、アズマさんとの出会い。
アズマさんは桓武建設の名代として僕を駅まで迎えに来てくれていた。
僕より頭一つ分くらい背が低い。
年下かと思ったらまさかの一つ上。人のことは云えないがなかなかの童顔だった。
金髪も染めているとのこと。だとするなら、ずいぶんゆるい校則の中学だ。
「緊張しないで大丈夫ですよ」アズマさんはタクシーに乗ってから云った。「あなたを養子に迎えたのは、ここら一帯では知らない人はいないくらいの超有名大手企業、桓武建設の社長なんですから。何も心配はありません」
なんとなく見ていた窓の外。
桓武建設。と書かれた工事中、建設中の看板をいくつも見かけた。
タクシーはマンションの前で止まった。
「ちょっと寄り道してもいいですか? 忘れ物をしてしまって」
アズマさんの家だった。もちろんビル丸ごとではなく一室を借りているだけだが。
忘れ物を取りに行くだけなのに、タクシーを帰らせてしまった。
また呼ぶのだろうか。
「さすがにだいじな客人を狭い車内で待たせるわけにいきませんから」アズマさんが申し訳なさそうに云う。
エレベータは最上階で止まった。
廊下の突き当たりの部屋に入る。
「適当に座っていてください。ちょっと時間がかかるので」そう云うと、アズマさんは奥の部屋に消えた。
キッチンとリビングに生活臭がないので、一人暮らしなのかもしれないが、何の後ろ盾もない少年が一人で住むには贅沢すぎるほどの広さと豪華さだった。
彼は、桓武建設とどういうつながりがあるのだろう。
リビングのソファに座って待つことにした。あまり部屋をじろじろ見るのも行儀が悪い。
遅い。
待ち合わせの時間を過ぎてしまう。僕は時計とドアばかり見ていた。
さすがに様子を見に行こうとした矢先、アズマさんがノートパソコンを抱えて顔を見せた。
「すみません、配線がめんどくさいことになっていて。部屋から出したことなかったもので」
「あの、時間が」僕の声はひどく怯えて聞こえた。
実家から放り出され、養子の受け入れ先にも不要と突き返されたら僕は行くところがなくなってしまう。そればかりが頭を占拠していた。
パソコンがテーブルに置かれた。
「綺麗な髪ですね。眼も綺麗な碧」アズマさんが僕の顔をのぞき込む。「地毛でしょう? やっぱり実物は違うや」
「あの、早く行ったほうが」
アズマさんは、そんなことわかっているとばかりに微笑んだ。
「実はね、先方との約束まであと3時間あるんだ。迎えに行くのも僕が立候補して、僕が3時間早い時刻を伝えた。云ってる意味がわかる? だから君はまだ、到着していない。新幹線にも乗ってない。家で荷物をまとめているのか、はたまた駅に向かっているのか」
アズマさんの小さな手が、僕の頬を撫でる。
触られた部分から壊死か凍結していっているような。
「見た目は引き取り先の希望に沿ったけど、君の個人情報が僕の要望通りなのかどうか、確かめさせてくれる?」
個人情報?
すごく嫌な予感が掠めた。
「あ、あの」
後ろに下がっても無意味だった。ソファの背もたれに背中がつくだけ。
逃げるのなら左右のどちらか。
逃げる?
いったい、どこに?
「いい眼をするね。僕が君を選んだ理由、教えてあげようか?」アズマさんが両腕で僕の退路を塞ぐ。「君の実家のとこの“商品”として価値がなかったて云ったら可哀相だけど、そういう使い道じゃない、そうだね、例えば、病気療養中の御曹司に代わって、表向きの仕事をしてくれる影武者とか、ね」
「表向きの仕事には、あなたのご機嫌取りも入っているのでしょうか?」
アズマさんの呼気が鼻にかかる。「もっと怯えなよ。そういう子を寄越すように云ったはずなんだけどな」
逃げたい。
けど、身体が動かない。
嫌だ。
本当に、いやだ。
「いい顔になってきた。そうそう、そうやって」アズマさんの声が耳の中に侵入する。「僕のモノになってよ」
3時間ぶっ通し。
アズマさんに犯されぬいて。
たぶん頭がおかしくなったんだと思う。
そうでなければ。なんで。
毎日毎日衡宜の頭のおかしい芸術活動とやらに付き合って平気でいられるのか。
平気?
すでに正気なんかない。
絨毯に散らばった菓子屑と埃と髪の毛を見ていた。
髪の色は黒い。
アズマさんはこの春、金髪を黒に戻した。
立てていた髪も下ろしたのでがらりと雰囲気が変わった。
僕にとってはどちらでも変わらない。
どちらでも。
アズマさんだから。
痛みは感じない。
殴られたのか、蹴られたのか、踏まれたのか。
全部か。
顔は無事だと信じたい。
顔に傷でもあったらこれから会う女に心配される。理由を説明するのが果てしなく面倒くさい。
好みの顔に傷が付いて。衡宜も発狂するかもしれない。
発狂。
すでに狂っている。
これ以上おかしくなることもあるまい。
「許可なく他人の家に泊まるなって言ったよね?」アズマさんの足の指が僕の顎を上に向ける。「どこの誰かは知らないけど」
どこの誰かは知らないけど。
嘘だろう。アズマさんに知らないことはない。
僕に自白させたいだけ。
泣いて謝らせたいだけ。
「謝罪の言葉がまだないけど」
「ごめんなさ」開いた口にアズマさんの足の指が入る。歯に当たった。
「噛むなよ。痛いな」
なんでそんなに。
怒っているんだ。
苛々しているんだ。
僕の価値なんか、あなたが一番よくわかっているはずなのに。
「昨日も云ったけど、最近売れ行きが芳しくないわけ。原因は誰にあると思う?」
僕だ。
「労いのために、わざわざ、家にまで呼んで抱いてあげたのに。別の男のところでこそこそ何やってたわけ? お前は僕の役に立たなければ、生きてる価値なんかないだろ?」
その通り。
僕は肯く代わりにアズマさんの足の指を舐めた。
「その顔をさ、カメラに向けてやれっつってんだよ!」アズマさんが思い切り足を蹴り上げた。
痛みというより熱だった。
唇が切れたらしい。鉄の味が口に拡がる。
「絨毯汚すなよ」アズマさんがボックスティッシュを僕に投げつける。
顔に命中。
箱の裏に血が付いていた。
そうか。鼻血も出たか。
血が止まるまで、アズマさんは何も云わなかった。
血が止まったらさっさと帰れということだ。
エレベータ内の鏡に、顔の腫れた僕の顔があった。
ケンカ?
僕のキャラじゃない。
転んだ?
僕はそんなに不注意じゃない。
じゃあなんて??
「朝頼 君でしょう?」讃良 は僕の手を無理やり引っ張って座らせた。
お付きにガーゼやらなにやらを一式揃えさせて、怪我の手当を始めた。
手際だけならそこそこ器用だった。
ただ一点問題があるとすれば、すでに手当ての段階を通り越してるってことなんだけど。
指摘するのが面倒なので好きにさせた。
「はい、できた」讃良の満足そうな声がした。
ゆっくり眼を開ける。
左側の視界がやけに狭い。腫れているせいだけではなさそうだ。
「今度会ったら抗議しますからね」讃良が眉を寄せる。
「じゃあ会わないように注意しないと」
「そういう冗談なら結構です。本部に行けば会えるかしら」
お節介にもほどがある。
おまけに僕はそれを欠片も望んでいない。
「今日は何をしましょうか」話題を逸らそう。
「このお顔で外に出るのは難儀でしょう」讃良が立ち上がる。「昼食はまだですか?」
「いえ、先に」僕は嘘をついた。
讃良の料理なんか食べる気分じゃなかった。
決して不味いわけではないが、砂みたいな味がするのだ。
僕の味覚が変だから。
「そう。それは残念」讃良が座り直す。「困りました。計画が丸つぶれです」
「申し訳ない」
讃良智崗 は、衡宜の幼馴染で婚約者。
衡宜が病気療養中で家から出られなくて、という表向きの理由を方便だと知っている数少ない人物。
「衡宜は元気?」讃良がこれが本題とばかりに聞く。
「同じことを毎日衡宜に云われる僕の身にもなってください」
直接電話なりメールなりでやり取りをしてくれないだろうか。
僕は彼らの伝書鳩でしかない。
「思いついた」讃良がケータイを見ながら云う。「絵なら片眼でも見えるでしょ?」
「遠近感がなくなりますが」
讃良は強引に足と手と口が生えた生物なので思ったようにさせたほうがいい。ベルトコンベアのように流れに従えば、ストレス蓄積が最小限に抑えられる。
讃良の自家用車(運転手付き)に乗って、美術館に移動した。
「衡宜の好きな画家の企画展がやってるの」讃良がチケットを僕に渡す。
前売り券だった。あらかじめ用意していたのだろう。
衡宜と行ければと思って。
やっぱりここでも僕は代用品。
美術館は砂漠の王墓を思わせた。左右対称の柱と三角の屋根。
画家の名前を聞いてもピンとこなかったが、館内に貼られていたポスターで記憶がつながった。
どちらかというと、怪異でグロテスクな作風の。
土曜の昼過ぎなだけあって人の頭がひしめきあい、額縁が見えないほど混雑していた。
讃良は音声ガイドを借りてイヤフォンをはめた。おかげで鑑賞ペースがゆっくりなので、出口で待ち合わせることにした。
僕だって絵画や芸術に興味がないわけではないが、この画家の作品はどうにも生理的に拒否反応が出る。衡宜のお気に入りだと聞いた時点で嫌な予感はしていたが。いや、衡宜の好きな画家という時点で拒絶フィルターがかかったか。
意味の拡散。自他境界の崩壊。生物への嫌悪。
早々に列を抜けて会場の外へ。
エントランスから見て右半分で企画展、左半分で常設展ならびに若手を集めた展示をやっているらしかった。
個展の受付に黄色いワンピースの女が座っていた。学生だろうか。少なくとも学芸員には見えなかった。そんな無表情では客が逃げる。
「よろしければお名前を」女が無表情のまま軽く会釈をする。
桓武の名前を出すと面倒を生みそうなとき、僕は養子になる前の名前を使うことにしている。もちろん、同伴者がいるときはそんな小細工はしないし、できない。
奇声をあげて走り回る映像インスタレーション。人体のなれの果てみたいな彫刻。反転した色彩の天地がひっくり返った廃墟写真。
「人気投票も行なっていますので」女が展示室中央の投票箱を指す。「気に入った作品があれば、番号を書いてもらえたら」
「一人一票ですよね?」半分冗談で聞いた。
「民主主義ですので」
切り返しが面白かった。
「あなたの作品は?」
女が指をさす。
投票箱。
「私は見習いだから」
「あれの番号は?」
「ないわ」女が首を振る。
「じゃあ空白で投票しておきます」
展示室を出る際に、女にポストカードを渡された。半ば強引に。
ギャラリィの住所。
金土日のみ開館。
明日はちょうど日曜。
予定がキャンセルになったら行ってみようか。
4
キャンセルを願っているときに限ってキャンセルにならないのが予定。なのでその週は見送った。
讃良と讃良の両親を交えた会食。という名の、衡宜についての定期近況報告会。
讃良の両親は、衡宜の表向きの理由しか知らない。病気療養中の療養がどこまでどうなっているか。僕は讃良と裏で結託してあることないこと報告している。すべてでっちあげだが、それっぽいそれっぽさがもはや真実味を増していて、初対面の他人に聴かせても納得させる自信があった。
どこもどうにもならない。アレは治らない。不治の脳の病気だ。
讃良の父は現市長。讃良の母は現市長夫人。
現市長の愛娘と桓武建設の御曹司との婚約なんて、政略以外の何物でもない。
「今後ともよろしく頼むよ」市長の云ったよろしく、は桓武建設との仲介という意味合いでしかなく。
ここでもやっぱり僕は、衡宜の代理であり名代。
翌週の土曜にギャラリィに行ってみた。
古民家を改造してギャラリィ兼アトリエにしているらしかった。申し訳程度の看板がなければ、一般家屋だと勘違いする。
受付にあのときの無表情女がいた。今度はオレンジ色のワンピース。
僕の顔を見て「よろしければお名前を」と他人行儀に云った。
もしかして、気づかれていない?
そうか。
腫れが引いたから、左眼のガーゼを外してきた。
「先週はどうも」仕方がないので僕から切り出した。
「ああ、どこかで見た金髪だと思ったわ」女が瞬きを多めにした。「先生はいないから、ゆっくりしていって」
「いないほうがゆっくりできるんですか?」
「そう。客は逃がさないの」
「怖いですね」
芳名帳に偽名を書いた。
偽名?
養子になる前の名前だって、本名だったとは思えない。
靴を脱いでスリッパに履き替える。畳の座敷に上がった。
ポストカードの被写体は、先生とやらの作品だろう。
謎の粘土細工。
生き物だと思うのだが、僕は見たことがない。宇宙人のようにも見えるし、地底人かもしれない。
似た雰囲気の生き物が部屋のあちこちにいた。展示というより、“いた”と表現するのが相応しい。彼らはこの家に住んでいるのだ。ブラウン管テレビの上。ちゃぶ台の隅。戸棚の内側。床の間。窓の桟。廊下の突き当たり。天井からぶら下がったり。本棚で本を支えてみたり。
探すこと自体が面白かった。宝探しをしているみたいで。
庭を臨む縁側に座る。池に浮かんでいるあれも、そうではないだろうか。飛び石の上とか。
「ぜんぶ見つけたら、好きな子を連れていく交渉ができるわ」女が麦茶を持ってきた。「どうぞ?」
「いいんですか?」僕が聞いたのは麦茶サービスのことじゃない。
受付はいま無人だ。
「構わないわ。どうせ誰も来ないもの」女が隣に座った。
麦茶のグラスは二つあった。
「美大生?」女が聞いた。
「兄が」我ながら適当なことを云った。
「そう」
麦茶の盆の上にも“彼ら”はいた。
「左館 よ。名刺要る?これから作るんだけど」女が庭を見ながら云う。
「値が出そうですね」
「私は絵なの」
「先生と作風が違うんですね」
「同じ土俵で争ってどうするの?」
なるほど。
「あなたの作品を見せてもらうわけに?」僕はきょろきょろしてみた。
「飲んだらね」
離れが先生のアトリエだそうだ。庭の向こうに見える家屋。
「あっちに?」
「こっちよ」女がおもむろに襖を開ける。
裏返しのキャンバスが見えた。畳に敷かれたベニヤに油絵の具が飛んでいた。
「制作途中のは見せたくないんだけど」左館がキャンバスの脇に立って云う。僕とキャンバスの絵を見比べているみたいな眼線だった。
「じゃあ完成したらでいいです」
「また来る?」
「どうでしょう」僕はわざとはぐらかした。
可能なら一回で済ませたい。でも無理に見せてもらうのもの差し出がましい。
ぎりぎりの駆け引きだ。
「ハーフ?」左館が僕を見ながら云う。
「実は親の顔を知らなくて」嘘は云っていない。
「そう。複雑な家なのね」
盆の上の“彼ら”と眼が合った気がした。
彼らは僕に理解できる言葉で意思疎通を図ってくれるのだろうか。
「いいわ。トクベツ」左館が手招きした。
絵の具は乾いている。踏んだところでスリッパを履いている。
大丈夫だ。
ダイジョウブだ。
「はやく」左館が急かす。「気が変わる前に」
一歩。
二歩。
なんだろう。
見てはいけない気がする。完成前だからとかではなく。
絵の具がいけない。
思い出す。
今朝だって。
赤と青と緑と黄と全部混ぜて。
キャンバスに描かれていたのは。
裸の。
「彼氏よ」
金に近い茶色の髪。
もし彼が実在するのなら同情と共感を覚えた。
「この春突然ドイツに行っちゃったの。だから戻ってこない限り完成しないわ」
激しい自己否定。
ここでもまた僕は。
「代わりにモデルにならない?」左館は衡宜と同じ眼で云った。
芸術にとり憑かれた狂気のそれ。
僕は。
返事をする前に気を失った。
麦茶だ。
何か入っていた。
気づいたって遅い。
朝までに帰れたらいいけど。
衡宜が僕を捜しに来るから。
5
僕が桓武廟晏 になる前、一度だけ弟に会ったことがある。
色素の薄い髪。小柄な体格。
あらゆることに興味がないと嘯きながら、自分を取り巻くすべてに注意を向ける鋭い観察眼。吐き捨てるような口調の裏に潜む、決して見捨てない慈愛に満ちた誠実さ。
彼が求めているものは自由だ。
僕らみたいに飼い慣らされることに麻痺するのではなく。
血筋が云々ではない。だからこそ。
彼が後継者として選ばれたのだ。
僕ではなく。
「兄 やんか?」弟が云った。
「たぶん」
「めっちゃキレイな髪と眼やな」
お世辞でもなんでもない。綺麗だと思ったから云ったのだ。
それだけ。
弟と交わした言葉はそれだけ。
次に弟に会ったとき、僕らは兄弟ではなくなっていた。
僕が養子に出されていたから。
弟はひとめで気づいた。
僕が気づいたんだから、気づかないわけがない。
弟は知らないふりをした。
僕もそれに倣った。
アズマさんにはすぐにバレた。
アズマさんは、僕ではなく、弟を気にかけている。
いや、もう。そもそも最初から。
僕らは兄弟なんかじゃなかった。
「大丈夫?」
左館の闇色の眼が見えた。長い髪が畳の表面を擦る。
麦茶に何か入っていたのかと思ったが、とんだ濡れ衣だった。僕が勝手に倒れたとのことだった。
ベニヤの上はあんまりだと思ったのか、畳のほうに運ぶもとい引きずってくれたらしい。
服が脱がされていなかったので、左館の云うことを信じたわけだけど。
もし僕が気を失っている間に脱がしてまた着せたとしたら。
キャンバスは裏を向いている。
「先生が帰ってきたら送ってもらう?」左館が云う。
「いや、自分で帰ります。ご迷惑をおかけしました」
他人の前で倒れることが続いている。
17時。
ここに来たのが昼過ぎだったはず。
頭がぐらぐらするけど、歩けないほどではなかった。
「本当に大丈夫?」左館が出口まで付いてきた。「タクシー呼ぶけど?」
「モデルの件だけど」僕は首を振ってから云った。
「受けてくれるの?」左館の平板な声に初めて色がついた。
僕を必要としてくれているのは嬉しかったが。
どうせ彼氏とやらの身代わり。
「彼女の許可が要るなら私が話をつけるわ」
「いや、そういうことじゃなくて」
「ちゃんとご飯食べてる?」
ころころと話題の変わる女だ。
僕を引き止めたいのだろう。
「あなたの細腕でも楽々引きずられたって?」サービスで笑顔を作った。「余計なお世話ですよ」
駅までなんとか歩いてタクシーに乗った。
自宅に連絡しようとしたら、麿坂からメールが来た。都合が悪い、と返信して。
執事には、夕飯を摂ってから帰ると伝えた。
タクシー運転手に目的地の変更を告げる。
急げば営業時間内に間に合うか。営業時間外のほうが向こうの都合としては付きやすいのか。
18時半。
KRE 支部前で降りる。KREとは岐蘇 不動産の略称。
表通りに面しているのはワンサイドのガラス。僕から店の中は伺えないが、店内からは僕がタクシー横付けしたのが丸見えなはず。
本社でなくて支部にいるのなら、だが。
アポを取ってないから不在の可能性だってある。
「こんばんは」一か八か来てみた。「支部長さんはいますか」
「何の用だ」奥から声がした。
明るい茶髪は幾分か落ち着いた色合いになり、中途半端に長く結わえていた髪もバッサリと切り、アズマさんほどではないが、雰囲気ががらりと変わっていた。
「桓武建設の養子でもなく、白竜胆会 次期総裁の名代でもなく」自分で云っていて嗤いそうだった。
この二つを否定したら僕はいったい何者なのだろう。
嗤っている場合じゃなかった。
「至極個人的な用件で来ました。お時間を戴ければと思います」
「聞かれてもいいならそっちの応接室だが」支部長は困った顔を浮かべてカウンタの事務員を見る。
以前いた有能な事務員は先月自主退社したと聞いた。
新しい事務員を雇ったようだった。知らない女が座っている。
女?
「行って来ていいわよ」事務員の女が僕をちら見してから云う。「ただ、こっちで手に負えなくなったら呼んじゃうけど」
「すまない。任せる」
事務員の女は「はーい」と間延びした返事をして万歳よろしく手を挙げた。
支部のビルは3階建て。1階が支部の事務所。上階は支部長の居住空間だと聞く。知り合い以下の友人ですらないので、上に行くのは初めてだ。
エレベータはない。階段で3階に上がる。
「見当がついていると思うが」支部長がドアノブをつかみながら云う。「下のカメラは本社とあいつの眼に触れる。俺の部屋にもあるかもしれないが、生憎と見つけられてない」
「僕がここに来たら報せるように云われていませんか」
「報せなくてもわかると思うがな。俺の忠誠心を試したいんだろう」支部長が舌打ちをする。
「見られますよ?」
「どうでもいい」支部長の口調は投げやりというよりは、どうやったって筒抜けなのだから隠すことに労力を割くのが無駄だという諦め。
入ってすぐの左手にキッチンカウンタ。透明な壁の向こうにキングサイズのベッド。雑誌の背表紙が並ぶ本棚。パソコン用デスク。大きな豆腐みたいな形状のソファ。数もデザインもシンプルな家具類だった。
支部長はベッドに腰掛けてネクタイを緩めた。仕事ではなくプライベイトで話を聞くと云う態度だろう。
「用は?」
「僕は藤都巽恒 の兄です」僕は、豆腐とマシュマロの中間みたいなソファを借りた。
「らしいな」支部長は驚かなかった。本人から聞いていたのかもしれない。
「連絡は?」
「云わなければいけない内容か?」
巽恒はほんの1か月前、突然実家に連れ戻された。
支部長は、巽恒に惚れている。現在進行形で。
「怒らせたならすみません。弟がどこで何をしているのか教えましょうか?」
「何のつもりだ?」支部長が眉をひそめる。
「他意はありません。ただ、知らないなら教えようかと」
支部長は鼻で嗤って指を組んだ。「なるほど。競争相手は少ないほうがいいな」
「そう取っていただいても構いません」
ケータイの着信振動。僕のじゃない。
「どうやら聞けそうにない」支部長はうんざりしたような顔で耳に当てる。「ええ、どうも。そろそろ掛けてくる頃合いだと思いましたよ。ええ、はい。どうぞ、ご自由に」
アズマさんは、支部長の義理の兄に当たる。
ここら辺の経緯を話すと長くなるのだが、簡単に言えば、支部長の母であるところのKRE社長と、アズマさんの父であるところの白竜胆会総裁が再婚した。ので、連れ子同士が兄弟になった。
「よかったな。迎えに来てくれるらしい」支部長がケータイを上着のポケットに仕舞う。
「どうでしょう。修羅場かもしれませんよ?」
絶対にそうならない確証があったから敢えて口にしたのに。こんなことなら云わなければよかった。
アズマさんは僕を見るなり、僕の前髪をつかんで床に叩きつけた。
相変わらず痛みはない。
「そういう話は、まず僕にするべきじゃないの?」アズマさんの声が降ってくる。
「ご存じだと思っていたので」僕は敢えてアズマさんの怒らせるような云い方をした。
アズマさんは見抜いている。だから追加で暴力を加えることはなかった。
僕が喜ぶだけだから。
「帰ってからやってくれませんか」支部長が云う。「俺は何も聞いてませんので」
「そんなこと知ってるよ。見てたから」アズマさんが無感情に云う。「ところで連絡がなかったんだけど? こいつがヨシツネの兄貴だって聞いて吃驚しちゃったかな?」
「俺も知ってたので、それはないですね」支部長が答える。
身体を起こす。眩暈を感じてこめかみに手をやると、アズマさんの蹴りが飛んできた。
木偶人形は話に参加する権利はない。黙って地べたに寝ていろと、そういうことだろう。
「なに?その眼」アズマさんが云う。もちろん僕に云ったんじゃない。
僕は地べたで転がっている壊れた人形。
「なんか文句云える立場かな?」アズマさんが支部長に云う。
「店を閉めたいんですよ。だから早く帰って頂きたいだけですね」
「閉店まで時間あるじゃん。実敦 くん、たいら抱ける? ここで、僕が見てる前で」
たいら。
アズマさんは僕をそう呼ぶ。
衡宜のいる前だと、僕は穴付きのキャンバスでしかないので呼び分ける必要はそもそもない。
片や正統後継者で御曹司、片や影武者で代用品。
「無理でしょう」支部長が鼻から息を漏らす。「役に立たない姿をお見せするのが心苦しいだけですね」
「お願いしてるんじゃないよ。僕は、命令してるの。穴がばがばだから、あまり良い抱き心地とはいえないけど」
いつもの性質の悪い冗談だろう。
アズマさんの顔を見上げたけど、どうやらそんな雰囲気でもなさそうで。
「お前のその顔、久しぶりに見たよ」アズマさんと眼があった。
にっこりと。ぞっとする笑顔に変わる。
僕は。
この顔が心の底から好きだ。と脳に刷り込まされている。
「実敦くんが役に立たないかもって心配してるみたい。役に立つようにできるよね?」
何をすればいいのか。
わかっている。
けれど。
どうしてそんなことを僕が。
しかもアズマさんが見ている前でなんて。
衡宜の“芸術活動”だって、アズマさんの見ている前でやったことはない。
気が狂いそうなほどに眩暈がする。
駄目だ。従わないと。
僕に価値がなくなる。
でも、嫌だ。すごく本当に。
いやだ。
「聞こえてない?」アズマさんの声がする。「困ったな。鼓膜やっちゃったかな」
「ちょっと待ってください」支部長が片手を前に出す。「兄さん、どうか冷静に。兄さんが御曹司にしたいのは嫌がらせでしょう? だったら、俺に抱かせるのは効果的ではないと思うのですが」
「意見するの? いいよ。つまらなかったら接近禁止を延長するだけだし」アズマさんがカーテンの引かれた窓にもたれる。「云ってみてよ。何か提案があるんだよね? 僕を一発で黙らせられるようなすごいやつが」
「黙らせられるかどうかはいまいち自信がありませんが」支部長の口調は落ち着いていた。「御曹司は兄さんに気があるわけですから、兄さんが俺なんかを抱いてるところを見せたほうがショックではないですか? こんなこと提案していてアレですけど、俺は全然やりたくないですからね」
「ふうん」アズマさんが気のない返答をする。「それもそうだね」
それもそうだね?
いま。
アズマさんは。
なんて。云った?
アズマさんがゆっくりベッドに近づく。床にへばりつく僕を跨いで。
声は出ない。声を出すということがすなわち背信行為。
「たいら。解離起こしてないで見てろよ」
なぜ支部長はそんな提案をしたんだろう。
アズマさんの性格を知っているのなら、下手に鼓舞するより従ってやり過ごしたほうがいいことは明白だ。
なのに。どうして。
二人で結託して僕を絶望させたかった以外に説明がつかない。
最後まで終えると、アズマさんは僕に一瞥もくれず、「ヨシツネの居場所。メールでいいから」とだけ云い捨てて部屋を出て行った。
「生きてるか?」支部長がうつ伏せのまま云った。「俺を怨んだだろ? 同感だ。俺も俺を怨んだよ。余計なこと云いやがって、て」
何も云い返す気がなかったので黙っていたら、向こうが勝手に話し始めた。
「実はこれが初めてじゃない」
そんなこと聞いていない。
「わかってると思うが、あいつに性欲なんていう人間らしい欲求はない。あいつは自分のコントロール下に置きたい相手を痛めつけて支配するために性暴力を使う。支配から逃げたいなら、いいようにさせないことだ」
だれが。
いつ。
逃げたいなんて。
「余計なお世話です」
「居場所知ってるなんて云ったから。羨ましかっただけかもしれない」支部長は身体を起こして服を拾い集めた。
自己分析の自嘲なのか。アズマさんの内面の推測なのか。
前者だろう。
「帰ってくれ」
ふらふらする足取りでなんとか麿坂のアパートまで行った。タクシーだったか電車だったかバスだったか。
玄関口での、麿坂の吃驚した顔は憶えているが、そのあとがぷっつり。
気づくと。
僕がベッドに寝てて、麿坂が床で寝息を立てていた。
別に隣で寝てもよかったが、麿坂が望まなかったのだろう。
衡宜の寝顔を知らないので、もしかしたら似ているのかもしれない。
「ああ、すまん、寝てた」麿坂の瞼が痙攣する。「一応、寝ずの番をしてたはずだったんだが」
カーテンから仄かな明かりが漏れる。
明け方だろうか。近くに時計がなかった。
「随分うなされてたみたいだが」麿坂が僕の顔をのぞき込む。
「この間の話。いいですよ」
外で、犬か何かが吼えている。
「衡宜を殺すっていうアレ。協力します」
「いいのか?」麿坂が身を乗り出す。「てか、いいからここ来てくれたんだよな? そうゆう約束だったな」
僕が養子になった本当の理由。
麿坂が桓武建設から遠ざけられている理由。
絶対に交わるはずのなかった点と点が、ありもしない図形を造り上げる。
衡宜を麿坂が殺して、麿坂もあとを追う。
残った僕は影武者から本当の御曹司になる。
だからアズマさんは僕をたいらと呼ぶのだ。
こうなることがわかっていたし、むしろアズマさんの計画の一部でなかったのかとすら思える。
でも麿坂はアズマさんと面識がないし、知り合いですらない。
アズマさんに知らないことはないから、麿坂の存在くらい把握している可能性は充分にあるが。
「そうか。俺もいろいろと準備があるから、決行時期はまたでいいか」
「僕は早いに越したことはないですが」あの地獄の苦しみから一日でも早く解放されるのなら。
「いや、すまんすまん。まさかこんなに早く決めてくれると思ってなかったもんだから」
「準備って」
なんでこんな今更になって困ったような顔をするのだ?
「いや、段取りとかそうゆうのだよ。勢いで云っといてアレだが、殺す以外はなんも考えてなかったつーか」
「なんですか、それ」
縋りついた腕は。
濁流に浮かぶ藁でしかなくて。
「あなたは本当に」僕を救う「覚悟があるんですか?」
「悪い。ちょっと考える時間が欲しい」
この程度の覚悟で。
僕に期待をさせるな。
「誰にも迷惑かけないように衡宜のやつを連れてくよ」
麿坂は本当に衡宜を殺す準備とやらを始めた。
大学4年。麿坂は一年留年しているので、アズマさんより一つ年が上だが。
就活ならぬ終活だと云って物憂げに嗤った。
そのときの笑みの意味は、あとになってわかる。
季節はすっかり。
雪が舞う冬になっていた。
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