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第3章序章

     0  ツネが寝ている。珍しい。  2階のソファならまだわかる。  3階の、俺の私室に上がり込んで、勝手に俺のベッドで寝ている。 「おい」  起きない。 「退かないと襲うぞ」冗談に決まっている。  そんな甲斐性も度胸も俺にはない。  だから、ツネは起きない。  色素の薄い髪に触れても、どちらかというと血色の悪い頬に触っても。  ツネはいつも学ランを着ている。学校が休みの日でも変わらない。  なので私服を見たことがない。さすがに寝るときは寝巻になるのだろうか。  知らない。知るわけがない。  いまは。  いつもの学ラン。いつも通りだ。  寝るなら自分の家で寝てくれ。ここから5分と離れていない。  疲れているのか。  それともちょっと昼寝のつもりだったのか。  どっちもあり得ない。  だっていまは夜だ。  時計がさっきから動いていないがわかる。遮光カーテンが引かれていて外の様子が見えないがわかる。  だってついさっき店を閉めて来たところだから。  1階が事務所になっている。  たった一人の事務員も帰った。  だからなんで。  ツネは俺のベッドで寝ているのだろう。  いっそ俺も寝るか。  サイズは問題ない。自分の寝相の悪さに苛々してカネに物を云わせてデカいのを誂えた。  ツネは右を下にして、やや丸まった姿勢で寝ている。  正面に寝転がりたい気持ちを押さえて、とりあえず背中側に横になってみる。  起きない。  もしや、すでに起きていて俺が決定的なことをした瞬間に覚醒して俺の弱みを握る気だろうか。  いや、そんなまどろっこしいことをするよりさっさと起きて家に帰ればいい。  すでにダメージは超過。  ツネが帰った後そのベッドで誰が寝ると思ってる。  寝られるわけがない。  身体を起こしてツネの顔をのぞき込む。  不自然な瞬きはない。 「おい、いい加減に」肩をゆっくり揺する。  待て。  なんでこんなに。  冷たいんだ?  恐る恐る鼻と口を手で覆う。  嘘だろう。  呼気がかからない。 「おい、冗談やめろ」  学ランの前を開けて、胸に耳を当てる。  嘘だろう。  時計が止まっている。  わかった。  夢だ。  これは夢だ。  悪夢の類の。  早く醒めろ。  こんな趣味の悪い夢なんか。  汗だくで眼が覚めた。  シーツを剥ぎ取ってその足でシャワーを浴びた。  ベッドには誰もいない。  ようやく息を吐く。  夢だった。  夢に決まってる。  着替えてインスタントのスープを流し込む。  身体の内側が少し熱を取り戻した気がした。  1階に降りる。わかってる。  今日は定休日だ。  第3章 この悲しみを見極める鏡は自分だけが映らない      1 「ねえ、ちょっと顔色最悪よ? 部屋に鏡ないの?」事務員が悲痛そうに立ち上がる。 「夢見が悪かっただけだ」パソコンを立ち上げる。「大雪警報出たら帰ってくれていい」 「親切で云ってるなら警報が出る前に帰らせてもらいたいのだけど?」 「じゃあそれでいい」 「いいの?さっすが、話のわかる支部長サマね」事務員は露骨に気象情報のページを全画面で開いて監視を始めた。  どうせ大雪の予報が出てるこんな寒すぎる年内最終営業日に客なんか来やしない。  適当に書類の整理をして時間を潰そう。  メールもほぼ緊急性のないものばかり。  年明けに早急に対応させて頂きます。と、当たり障りのない文面をコピペして送信するだけの簡単なお仕事。 「あらあら、降ってきたわね」事務員がガラス窓を見遣る。  白い塊が落下する。  みるみるうちに斜めに吹雪いてきた。 「帰っていいかしら」事務員はすでにパソコンをシャットダウンしていた。 「気をつけて」 「今年もお世話になりました。来年もどうぞよろしくお願いします」事務員が台本のように文言を唱えて裏口に消えた。  つられてシャットダウンしそうになったがさすがに押し留まった。  事務所は、大通りからは何の変哲もない壁だが、店側からは丸見えのガラス張り。  頭まですっぽりコートのフードを被った客が店に入ってきた。 「いらっしゃいませ」自動で挨拶を云ってしまったが。「何の用だ」  顔見知りだった。  小柄な彼はフードを脱いできょろきょろを見回した。傘を差していなかった割に雪が付いていなかったことから考えて、近くまで車で来たのだろうか。 「悪いが俺しかいない。雪がひどいから帰らせた」  彼はだいじに抱えていた鞄からタブレットを出してカウンタにのせた。  〉〉急いでるので用件だけ云います。ノリウキ来てないですよね?  屋島嗣信(ヤシマつぐのぶ)はひどく切羽詰まった様子で身を乗り出した。  タブレットに文字が表示される。比較的大きなフォントだったのでよく見えた。 「親友の行き先を、ただの知り合いの俺に聞くのか?」  屋島は言葉を発しない。喋れないわけではない。喋らないことに、自分で決めたんだとか。  耳も聞こえているし、会話に特に不備はない。  〉〉1週間連絡が取れないんです。 「それこそ俺じゃなくて警察の仕事じゃないのか」  〉〉それは家族がやってます。俺は手掛かりを探してる。 「だから、なんで親友のお前が知らない情報を俺が知ってるんだ?」  屋島はもう一回店内を見回した。  〉〉カメラがありますね。 「ああ、そうだな」  〉〉上にもありますか。 「よく知ってるな。内緒話はできないぞ」  〉〉お店は何時までですか。 「今日は18時で閉める」  〉〉今日だけ早められませんか? 「年内最終営業日なんだ」  〉〉そこをなんとか。俺を助けると思って。 「事情がわからんからな。それに俺はお前に借りもない」  〉〉ノリウキと連絡が取れないことに、ヨシツネさんが関係してるとしても? 「根拠は」  〉〉ヨシツネさんの居場所知ってますか? 「知ってどうする?」  〉〉カメラがないほうがいいですよ。  なかなかの策士じゃないか。ツネの名前を出せば俺が釣れると思っている。  閉店まであと。  時計は見なかった。どうせ客なんか来ない。  吹雪の中歩いて駅まで行く。電車は辛うじて動いていたが徐行運転とのこと。 「問題は新幹線だがな」  屋島がケータイ画面を見せる。運行状況。  いまのところ遅延はないが積もってきたらどうなるかわからない。  じっとしていてもしょうがないので、座席を予約して乗り換えの駅に向かった。  〉〉グリーン車初めて。 「そいつはどうも」  〉〉お金は払います。 「まあ、そうだろうな」  座席に着くなり屋島は電車代を俺に渡してきた。借りはさっさと返したいらしい。 「本題に入りたいんだが」  〉〉これを見てください。  屋島のケータイを受け取る。能登から屋島に宛てたメールの文面だった。   いつも返事遅くてごめん。   最近疲れててすぐ眠くなるんだ。   特にヨシツネさんのところにいるとすごく落ち着く。   リラックスするのかな?   すぐに眠くなるんだ。   まるで、死んでるみたいに。  〉〉どう思いますか? 「どうって」  何のことはない。ただの。  ただの?  〉〉俺は、ノリウキはヨシツネさんのところにいると思う。 「お前の勘か?」  〉〉根拠はあります。ノリウキは大学とバイト以外の時間ぜんぶ、ヨシツネさんのために使ってた。  だから。 「なんでそんなことになってるんだ?」  嫉妬なのはわかっている。  〉〉状況を整理してるだけです。そうゆう感情はちょっと置いとけませんか? 「無理だな。俺はそんなにできた奴じゃない」  意味がわからない。  俺だって会えてないのに。なんで。  能登が。  大学とバイト以外の時間全部?  その情報だけで気が狂いそうだ。  〉〉大丈夫ですか? 「悪い。ちょっと頭冷やしてくる」  デッキに行って息を吸って吐いて席に戻った。2分もいなかったと思う。  〉〉続きいいですか?  屋島がタブレットに表示する文字の意味を取るのがだんだんどうでもよくなってきた。  要約すれば、能登がツネのところにいる可能性が高いから確かめに行こう、と。そうゆうことなんだろうが。  なんで。  俺も行かないといけないんだ?  〉〉場所を教えてもらうので、抜け駆けにならないように。 「抜け駆けするつもりだったのか」  〉〉落ち着いてください。俺は、ノリウキの安否を確かめるだけです。  お前の用事はそうかもしれない。でも俺は。  能登がツネのところにいた場合、能登を殴らないでいられる自信がない。  殴る?  そんなもんじゃ生ぬるい。  〉〉ノリウキを殴るのは勘弁してもらえませんか。 「お前が代わりに殴られるか?」  〉〉俺で気が済むなら。でも気なんか済まないでしょう?  それはそうだ。ツネと一緒にいたのは屋島じゃなくて能登なんだから。  一緒にいた?  脳の端がちりちり焼ける。  ツネの居場所は御曹司がこっそり教えてくれたが、ツネの連絡先は知らない。  能登は知ってるんだろう。  ツネが突然実家に戻って9ヶ月。  義兄との約定でツネとは会えないことになっている。  会えないも何も、居場所も連絡先も知らないのにどうやって会えと?  俺が耐えている間、ツネと一緒にいた人間がいることが耐えがたい。  群慧は家出同然でツネに付いて行ったらしい。そのことも俺としてははらわたが煮えくりかえる事実なのに。  羨ましいわけじゃない。  すべてを捨ててツネの傍に行くなんて芸当、俺には出来ない。  社長になってもらわないと。ツネはそう云っていた。  そのことが引っかかっているのだろうか。社長になったところでお前が手に入らないなら。  金も地位も名誉も価値がない。  なんとか京都には着いたが、吹雪は已まない。むしろ強くなっていないだろうか。  〉〉ホテルって取れそうですか? 「このまま行くんじゃないのか?」  屋島がタブレットに気象情報と電車の運行状況を表示する。  俺もツネの居場所を地図で確認した。  確かに。  山で迷って野宿なんか願い下げだ。  翌朝早々にホテルをチェックアウトして、タクシーで山の麓まで移動した。その先は私有地なので入れないとのこと。  車を降りてすぐ、背筋にぞくりと寒気が走った。この地域特有の底冷えだろう。  雪は已んだが天気はあまり芳しくない。雪雲がまだ空を占領している。  市街地の道路に雪は残っていなかった。さほど積もらなかったのか、積もったがすぐに溶けてしまったか。  この奥はそうでもなさそうだが。  〉〉カメラがありますね。おーい。  屋島が暢気に手なんか振る。  そうか。この山全部が私有地なら、映像の出力先は。  割と正攻法じゃないか?  思いのほかすぐに車が来た。寒かったので早いに越したことはない。  運転席から降りたのは、見間違えようもない。群慧武嶽(グンケイむえたけ)。 「帰ってください」群慧は一も二もなくそう云った。  馬子にも衣装的な高そうなダークスーツ上下が絶妙に浮いていて、意味を取るのに若干ラグが発生するほどだった。  とにかく、似合っていない。いまの群慧の姿を5秒以上凝視できる自信がない。 「帰るも何も、屋島が話があるらしい」面倒なので投げた。  〉〉ノリウキいるよね?  屋島はタブレットの画面を群慧に突きつける。  そんなことしなくても、群慧なら“なんとなく”で感づくだろうに。 「いない」  〉〉嘘云ったってわかるよ。俺に嘘吐けると思わないで。  屋島の聴覚はホンモノだ。  俺も言動に気をつけるべきだろうか。 「いない」  〉〉じゃあヨシツネさんに会わせて。 「許可がない」群慧が首を振る。  〉〉いるにはいるの? 「答えられない」  進まない押し問答だ。苛々してきた。 「能登が一週間前から連絡が取れない状況らしい」埒が明かないので助け舟を出そう。「警察にも届けているが、屋島の勘だとツネのとこだそうだ。悪いが確かめさせてくれないか。いるかいないか。いなければ帰るし」 「俺が云われているのは、道に迷ったなら市内まで送ってやれという命令だけだ」群慧が車のドアに手を掛ける。  〉〉ヨシツネさんに会うまで帰らないよ。  群慧がすまん、と云ってケータイを耳に当てる。はい、と短い返事をして切った。  〉〉許可下りたね。  屋島に電話の内容は筒抜けだ。勝手に後部座席に乗り込んだ。 「ツネか」 「短時間だけだ」群慧が運転席に座る。「ヨシツネさんはいま体調を崩してる。身体に障るといけない」  それは。余計に。  会いたくなった。

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