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第3章 この悲しみを見極める鏡は自分だけが映らない

     2  獣道ではなくきちんと舗装されていた。時折雪の塊が落下する竹林のトンネルを抜けて、しばらく透垣を並走する。雪がだいぶ残っている。車の轍が新しそうだった。  立派な石造りの門の前で車が止まった。 「降りていい」群慧が云う。「車置いてくる」  今更気づいたが、群慧は運転免許を取得できる年齢だっただろうか。深く考えない方がいいか。  息が白い。  庭木も手入れがされている。飛び石の上の枯れ葉も掃除がされたばかりのようだった。 「待たせた」群慧の後に続いて門をくぐる。 「おおきにな、ケイちゃん」  聞き覚えのある、ずっと聞きたかった声がした。  色素の薄い髪。  学ランは和装になっていた。  夢の映像を掻き消す。  あれは夢だ。夢なんだから。 「久しぶりやな」ツネが云う。「よおここわからはったね」  〉〉言い訳なら聞かないよ。 「何のことやろ。まあ、寒い中来はったわけやし、上がっていかはったらええよ」  喋らない屋島だが、この世でたった3人だけ、タブレットなしで屋島と意思疎通ができる人間が存在する。  一人は、双子の弟。  一人は、ツネ。  そして、もう一人が。  〉〉ノリウキはどこ?  ツネは答えずに池と庭の間を通って座敷に案内した。  池を臨める座敷だった。が、寒いと早々に気づき、障子を閉めて暖房を入れた。 「能登くんが?どないしたって?」ツネは自分の肩をさすりながら座布団を人数分並べる。  多少どころか、だいぶ。  やつれてないか?  顔色も決していいとは云えない。 「これを」群慧が毛布をツネの肩にかけた。「コタツ運んできましょうか?」 「長くはならんやろ。なあ」ツネが屋島を見遣る。  〉〉ノリウキはどこ?  屋島は真っ直ぐにツネを見ていた。 「なんじょう俺に聞くんやろ?」  〉〉ここにいるよね? 「おらんよ」  〉〉お願いヨシツネさん。俺にこれ以上ヨシツネさんの印象を悪くさせないで。 「せやから、なんで能登君がこないなとこにおるんやろ。第一能登君、名古屋やんか。知ったはるやろ?」  〉〉ここでノリウキに連絡してみていい? 「ええよ。ゆうかむしろ、そのほうが確実と違うん?」  屋島は電話ができない。  なるほどそうなるか。  屋島が俺にケータイを渡す。  すでに通話ボタンが押されていた。  呼び出し音。  呼び出し音。  留守電につながった。  〉〉切っていいです。  屋島の手にケータイを乗せた。 「どやった?」ツネが云う。  〉〉持って来てるわけないか。  万一能登のケータイがこの近辺で鳴ったとする。屋島の耳はそれを逃さない。だが、ここにないのなら。 「俺んとこより、名古屋のマンションとか大学とかそっち探さはったほうが」  〉〉ヨシツネさん、正直に云って? ノリウキ、ここにいるでしょ? 「せやから、なんじょう俺んとこにいてることになっとるんか」  だいじな親友がいなくなって切羽詰まってるのはわかる。もともと弁論大会に向いてる性格じゃないのもわかる。  しかしそれを差し引いても、ツネを口だけで論破するのは至難の業だ。  ここにいる誰もが、ツネには勝てない。 「行方知れずやったらケーサツは? なんやら手掛かりとか」  〉〉ヨシツネさん、俺に嘘は通用しないよ。 「俺が嘘吐いてるゆうこと? なんで?」ツネが薄っすら笑う。「なんで能登君がおらんことに関して、俺が嘘吐かなあかんのやろ」  〉〉はぐらかしても無駄だよ。俺は、ノリウキの音を間違えない。  屋島が云うと説得力がある。  声ではなく、音。  聞こえるのだろうか。能登の発する音とやらが。 「お客さん来てるなら云ってよ。お茶も淹れてないんでしょ?」障子に影が映る。  屋島が誰より早く反応して障子を開け放った。  俺にだってわかった。  そいつは。  そこそこ高めの身長。勉強ばかりのくせに骨格はがっしりしている。  強いて言えば分厚いレンズの丸メガネがないが。  屋島が能登の名前を呼んだ。音としては聞こえなかったが。  屋島の声が聞こえない俺にだってわかった。  だって、そいつは。 「はじめまして。ヨシツネの友だち?」そいつは、軽く会釈してにっこりと笑った。「僕は」  能登じゃないのか?  能登だろう?  なんで。  そんな。他人行儀に。 「ヨシツネのお世話係の」  屋島がそいつの両手を握って首を振った。 「なぁに? 僕に云いたいことあるの?」  俺だって首を振りたい。  ふと。  振り返った。  ツネは至極平然とした顔で座っていた。群慧も部屋の隅に真顔で正座したまま。  なんで。 「おい、どういうことだ?」思わず声が出ていた。「お世話係ってなんだ? 能登にそんなことさせてたのか」 「能登? ああ、僕にそっくりだっていう友人だっけ」そいつは屋島の顔を真っ直ぐ見て云った。「僕はその能登くんとやらじゃないよ。そんなにそっくりなの? ビックリだな。でも残念。僕は妃潟(キサガタ)ていうんだ。わざわざ来てくれたの? ヨシツネが元気ないからありがたいよ。ゆっくりしていってね」  屋島が捉まえていた力が弱まる。  ここからは後ろ姿しか見えないが、その落胆様は手に取るようにわかる。  だってそいつは。  間違いもしない。 「ねえ、君。さっきから何も云わないのはなんで?」  能登が屋島と意思疎通できるのは、何年もかけた努力の賜物だとか。  だからこそ彼らは親友の間柄なのだ。  能登の口から聞きたくはなかっただろう。  屋島が手を振り切って部屋を飛び出した。 「おい、ちょっと」 「俺が行く」群慧が機敏に立ち上がって追い駆けて行った。  いや、そうじゃなくて。  この空気感に取り残されたくなかったから、屋島を追いかける役に立候補したかったのだが。 「僕、何か悪いことした?」 「お前能登だろ? どうした? なんで別人みたいになってるんだ?」思いついた言葉を云わざるを得なかった。  沈黙に耐えられない。  黙ってしまったら、そのまま黙認になってしまいそうで。 「申し訳ないけど、僕はその能登くんとやらじゃないんだよ。似てるのは充分わかったから。ああ、そうだ。お茶だったね。ちょっと待っててね。ちょうど美味しいお饅頭買ってきたところだから」 「おおきにな、キサ」ツネの表情が和らぐ。  そんな顔。  見たことない。 「どういうことだ?」ツネしかいなくなってから振り向いた。「ちゃんと説明してみろ。俺じゃない。屋島にわかるように」 「せやから、見たまんまやさかい。あれは能登君そっくりな」 「いい加減にしろ!!!」ツネの両肩をつかむ。毛布が肩から落ちた。「俺は知ってる。お前の好きだった奴は死んでる。死んだ奴は生き返らないだろ? あいつは能登だ。能登にそいつのフリさせてるんだろ? いますぐやめさせろ」 「せやから」ツネの眼が。  凍りついている。  感情の一切が剥がれ落ちる。 「あれは、能登君やない。キサや。間違えんといてな」  意味がわからない。  意味なんかわからない。  意味は。 「能登君はおらへんよ。ここには、おらへん」  庭木から雪の塊が落下した。  落ちて潰れた音がした。      3  屋島は眼を腫らして戻ってきた。気持ちはよくわかる。  でも俺は。 「ちょっといいか」 「なんやろ」ツネは3つ目の饅頭を頬張るところだった。「これ食ってからでええ? 俺、好物やさかいに」 「あとにしろ。俺のもやるから」  座敷で茶を出されたが、屋島はずっと妃潟とやらの顔を見つめていた。  文字式メッセージとやらを送っているのかもしれない。  この世で3人しか受け取れない。そのうちの一人が、受信できなくなっている。  そのうちの一人、程度の問題じゃない。  能登には届いて、その他には届かない。つまるところ、届かなければそいつは能登じゃない。  それを必死に否定したいみたいだった。 「いいから来い」  群慧が睨んでいたが、無理矢理ツネを庭に連れ出した。 「むっちゃ寒いんやけど」 「他に部屋ないか」  奥に更に大きな家屋があり、そこが生活空間のようだった。とすると先ほどの座敷は客間か。  板張りの廊下を進んで、別の座敷に入る。 「ここでええか」ツネは蒼白い顔をして半纏(はんてん)を羽織った。 「風邪引いてるのか」自分でも違うと思った。  それをツネもわかったらしく、おざなりに首を振った。  照明はつけない。  電気ストーブがやけに赤い。 「屋島には聞こえてるかもしれないが、本当のことを云ってくれ。あいつは能登だろ?」 「だったらどないするん? 連れ戻すんか」 「やっぱりそうなんだな?」  ツネがストーブに手をかざす。 「能登なんだろ?」 「もうええやろ。そないな話どないでも」 「どうでもよくない」ツネの眼線の先に移動する。「お前のためにやってるんだろ? お前が望んだから」 「せやから」ツネが顔を上げた。「そないな話しに来はったんと違うやろ? お前は、ほんま何しに来よったん? いきなり押し掛けて来よって。むっちゃせわしない年末にわざわざ人ん家上がり込んで。俺が、いままで」どないな思いで。とツネの口が動いた。  まだ、間に合うのか。  もう、手遅れなのか。  泣きそうな顔に見えた。 「何があったんだ」 「遅いわ」ツネが俯いて、上体を前傾させる。  頭頂部が、俺の首の下に当たった。 「むっちゃ遅いさかいにな。お前は、いっつも」 「悪かった」ツネの背中に手を回す。「悪いのはいつも俺なんだろ?」  ツネの肩が震えている。  なんだ。  少しは正気なんじゃないか。 「キサが俺んとこに帰ってきたんや」  そうでもないか。 「そんなんむっちゃ嬉しいはずなんやけど、全然楽しないのはなんでやろ。全然わからへん。何やっとっても生きてる心地せえへんし、飯もまともに喰えへんの。饅頭とか葛餅とか、甘いもんはなんとかいけるんやけど」  それでこんなに痩せたのか。背中もほとんど骨だ。どさくさで触ってしまった。  振り払われないからしばらくどさくさしていてもいいだろう。 「あれはキサや。能登君やない。そう思えば思うほど頭ん中ごっちゃになって。ふらふらやさかいに、客も取れへんなったわ。みじめやろ? 自分で自分の首絞めとるん。これ、見えるか」ツネがマフラーを外した。  なんで室内でマフラーなんか巻いてるのか。首が寒いからだろうと勝手に解釈していたが。  眼を逸らす勇気は俺にはない。  これは。  指の痕か。  部屋が薄暗くて助かった。 「客とやらに」やられたのか。  気が狂いそうだ。 「キサに頼んでやってもらっとる」  意味が。  わからない。 「どういうことだ?」 「こうせな寝れへんの。おかしいやろ?」 「眠れてないのか」平凡な受け答えをするので精一杯だ。  そんな。  状態になってまで。 「妃潟を生き返らせたかったのか」  ちがう。  たぶん、違う。  マフラーを巻く途中のツネを抱き締める。  なんで。  なんでこんな。 「なんやの? 首、寒いから巻かせてほしいんやけどな」 「殺してほしいんだろ」  わかった。  わかってしまったことが腹立たしい。  わからないままだったら怒鳴って無理矢理能登を連れ帰っていた。  できない。  もう、できなくなってしまった。 「妃潟に会いたかったからじゃないんだろ? 先に逝った妃潟を追い駆けたくて」  ツネがゆっくりうなずく。  マフラーで指の痕を隠す。 「キサにはな、好きなやつがおったん」ツネが消えそうな声で云う。「死んだ先代や。そいつがな、キサと心中しようとしはったん。せやけど、キサはとっくにおかしなってはったさかい。先代殺したんはええけど、もともとなんで先代を殺したんか、殺した瞬間に忘れてもうたんや。結果、心中は失敗。先代だけ死んで、キサは先代がいななってとうとう正気が消えはった。羨ましかったんやろな。キサに殺してもろうて」  だったら。 「俺がお前を殺して後を追ってやる。なんで能登なんか巻きこむ? 何度でも云う。あいつは妃潟とやらじゃない。能登だ。顔がそっくりな赤の他人だ。俺だったら。俺だったらお前を一人で逝かせない。すぐに追ってやる。俺じゃ。俺じゃ駄目なのか? 俺じゃ」  ツネが顔をうずめたまま首を振る。 「なんでだ? 俺はお前が」 「社長さんには死んで欲しない」  俺じゃなくて。能登ならいいのか。 「お前がしたことは」 「わかっとる。許されることやない。能登君に死んでほしいなんて思ったことは一度もあらへん。せやけど、能登君にいななってもらわんと、キサに会えへんかったんや」  じゃあ能登は。 「お前のために死んだのか」  障子が。  開いた。  屋島が立っていた。すぐ後ろに群慧が罰の悪そうな顔で。 「かえして」屋島の口が動いた。  違う。  口だけじゃない。いまのは。 「ノリウキを、かえして」  ツネが俺から離れる。俺がツネを抱き締めていただけだが。 「かえして」 「ツグちゃの声、初めて聞いたわ」ツネがよろよろと立ち上がる。「ダー君よりちょい高めなんかな」  か  え  し  て  よ  びりびりと、建物が軋むくらいの大声。  屋島が肩で息をする。自分の両耳を塞いでツネをきつく睨みつけた。  ツネを尊敬している屋島にはあり得ない、鬼気迫る憎しみの形相。いや、屋島がそんなに感情を劇的に表面化することはいままでなかった。快か不快かという僅かな二極。基本的には無表情だった。  その屋島が、圧倒的な怒りと憎しみ、負の感情を総動員してツネに対峙している。 「返すもなんも、何遍も云わせんといて。あれは能登君やない」 「そうやってせんせいもころしたの?」  ツネが一瞬面食らった。  先生?  誰のことだ? 「あれがノリウキじゃないっていうのならヨシツネさんはノリウキを」  こ  ろし  た  んだ 「おれのしんゆうをころしたヨシツネさんはノリウキをころしたゆるさないぜったいに」  ゆるさない。  屋島からふっと表情が消えて倒れる。床に衝突する寸前で群慧が受け止めた。 「ツグちゃ!」 「気を失っただけです」群慧が屋島の首と胸部に触れる。「声を出した反動かと」 「そか」ツネが深く息を吐く。 「どうしますか」  いまの言動で主を傷つける可能性のある“敵”と見なされたのかもしれない。群慧の顔は、昔の友人を心配する顔ではなかった。  どうするか。というのは、屋島の処遇をどうするか。そういった意味合いに聞こえた。 「絶対嫌われてもうたね」ツネが呟く。「ケイちゃん。冗談やけど、もし、殺せゆうたら殺せる?」 「ツネ」冗談でも云っていいことといけないことがあるが。  もうそんな段階でもないのだろう。 「はい」群慧はツネを見て肯いた。「殺します」 「冗談や、冗談。本気にせんといて。せやな。起きるまで寝かしとこか」 「わかりました」群慧が頭を下げる。  屋島を布団に寝かせる。群慧が見張り(看病という意味だと思いたいが)を買って出た。  座敷に戻ると妃潟とやらがいるだろう。  俺にはもう少し。  ツネと二人だけで話がある。 「ええよ」ツネが云う。「ケイちゃん、筋トレ部屋借りるわ」 「構いませんが、何かあればすぐにお呼び下さい」 「なんもあらへんよ」  また群慧に睨まれた気がしたが無視。廊下を戻って、庭向かいの棟の、門に近いほうの部屋に入った。 「そっちがケイちゃんの部屋や。開けたらあかんよ」ツネが左隣を見て云う。  筋トレ部屋と云っていたが、特に筋トレ用の機械はない。それどころかカーテンと照明と空調以外目立った家具もないため、引っ越したばかりの物件を連想させた。  なんでこんなところに来てまで職業病を発症しないといけないんだ。  わかった。わかっている。  自分でこの状況を作り出しておいて、自分でこの状況に緊張している。  どれだけ。  量じゃない長さでもない。俺がどれだけお前に。 「今更やけど、髪切らはったんやね」ツネが畳に腰を下ろす。「失恋でもしよったん?」 「お前が云うと冗談にならない」 「せやったね」  能登は。 「生きてるのか」 「少なくともこの1週間、能登君に戻った様子はあらへんな」  なるほど。  それで1週間連絡が取れなかったのか。 「この先どうする」 「俺はキサのままのほうがええな」 「そうじゃない」能登はもう、どうにもならない。「屋島だ。大人しく帰ると思うか?」 「帰らんかったらどないしょう。ほんまに殺すしかないんかな」 「冗談だろ?」 「せやね」ツネの顔は笑っていなかった。  誰も見てないから。  いいだろうか。  ゆっくり抱き寄せる。ゆっくりなのは逃げる間を与えるため。  ツネは。  されるがまま。 「会いたかった」  それがもう異常としか思えない。 「陰険な義兄(にい)やんとの約束はええの?」 「知らん。あんな会社乗っ取るなり好きにすればいい」 「そらあかんよ。社長さんになってもらわな」  また、そうやって。  俺に逃げ場をなくす。 「せっかく世襲制なんやし。遠慮せんと継いだったらええやん」  それは。  自分に云ってるのか。 「ここで何をしてるんだ?」腕の力を少し強めた。「ここで客とやらの」 「ここには呼ばへんよ。俺の家やさかい。余計なもんは入れへん。客んとこ行ってお仕事やさかいに。まあ、いまはこんな状態やし、長期療養ゆう名目でお役御免な感じやけどな」  身体が冷たい。  全然熱が移動しない。 「むっちゃ抱き心地悪いやろ? 骨と皮やさかいにな。商品価値なんあらへんわ」 「正式に後を継いでも、客は取らなきゃいけないのか」 「でやろ? いままだモラトリアムの準備段階やさかいに。先代は商品管理しとったみたいやけど」  商品というのは、人間のことか。 「いつまでおるん?」 「お前が追い返さない限りは」 「なんやの、それ」  ツネの呼気が耳にかかった。 「相変わらずやね」 「まだ諦めてないからな」 「知っとるよ」  強く。  抱き締める。 「ちょお、痛い」 「生きてる証拠だ。俺のいないところで死なせない」死ぬんなら。「一緒に逝ってやるから」  だから。 「生きててほしい。そのためなら他の誰を殺しても構わない。俺は、お前以外が不幸になろうが死のうがどうだっていい。お前が、お前さえいてくれたら」  能登が死んだって。  群慧が屋島を殺したって。  平気な顔でいられる自信がある。 「ひどいやっちゃな。邪魔なら救世主の義兄やんも殺すんか?」 「あいつは殺しても死なないだろ」 「せやね」  畳では背中が痛いだろうか。座布団くらい借りればよかっただろうか。療養中なら無理をさせてもいけない。  そんな正気の思考が一瞬で消し飛ぶほど愛おしかった。  しばらく寝顔を見ていた。 「ヨシツネ、いる?」妃潟とやらの声がした。「入るよ」 「すまんが、いま」  断ろうとしたのに勝手に開けられた。 「へえ、ぐっすりじゃん」妃潟とやらが含み笑いをしながらしゃがみこんだ。「僕の夜のお務めも要らなくなってくれたらいいんだけど」  ツネは起きない。すやすやと、俺の膝の上で寝ている。  夢がよぎる。  ちがう。 「ねえ。ええっと、社長さん」妃潟とやらが云う。ツネの顔を見たまま。 「岐蘇(キソ)だ」知らないのか。知らんふりなのか。「それと、あいつが何て云ってるか知らないが、まだ社長じゃない」 「でも確定なんでしょ? 君が継ぐことは決まってる」  改めて近距離で話をしてわかった。  こいつは、能登じゃない。  外見と声音こそそっくりだが、思考パターンも、表出する感情も、能登とはまったく違う。何かの偶然で、外見がそっくりなまったくの別人がたまたまそこにいるだけ、という表現が正しそうだった。 「ヨシツネにどこまで聞いた?」妃潟とやらが云う。「能登教憂(ノトのりうき)を連れ戻しに来たんでしょ?」 「悪いが俺には興味がない」 「ふうん、愛されたもんだね。君の目的はヨシツネに会うことだった。そういうことでいい?」 「間違ってはないな」 「君さえよかったらさ、年末年始、ヨシツネの傍にいてやってくんない?」妃潟とやらが云う。俺を見ながら。「首の痕見たでしょ? 毎晩なんだよ。毎晩僕が落とさないと寝てくんなくって。この通り、俺は一睡もできない」見せつけるように欠伸をする。「君が代わってくれるんなら、ヨシツネも熟睡できて、僕も眠れて、君もヨシツネと夜を過ごせて一石三鳥てわけ。どう?」 「断る理由が浮かばないな」 「よし、決まり。君のとこの会社の仕事始めぎりぎりまでいてよ」妃潟とやらが立ち上がる。「番犬くんには僕から云っとくから心配しないで。ご飯もこっちで用意するよ」 「毒は入れないだろうな」 「まさか。僕側のメリットが何もないのに?」 「それはそうだ」  妃潟とやらは勝手に部屋を出て行った。  やはり能登との共通点が顔と声以外にない。  妃潟という人格を演じているのだとしても、屋島にあんなことを平気で云うくらいだ。能登のままじゃそんなこと云えるわけがない。とすると能登の人格はどこに行ったのだろう。  どうでもいいか。  ツネの前髪に触れる。  一生このままいられたらいいのに。      4  楽しい時間はあっという間に過ぎる。  さすがに支部長の俺が仕事始めの日に支部にいないわけにいかない。本社への挨拶もあるし。そっちが相当に面倒なのだが。  別れ際にツネがちょっとだけ寂しそうな顔をしてくれたのが嬉しかったと云ったら蹴られるだろうか。  俺の方で勝手に都合のいい解釈をしているだけかもしれない。そのくらい代え難い一週間だった。  朝から気温が上がらないが、心は久しぶりにあったかかった。  いまは昼過ぎ。  戻ったら夕方か。 「年越しが京都なんて、風情たっぷりの正月だったよね」  なので新幹線の駅で、絶対に会いたくない姿が視界に飛び込んできたとき、一気に現実を叩きつけられた気分だった。  後ずさった半歩は、意識したときにはもう手遅れ。  義兄は、それを見逃さなかった。 「何か後ろめたいことでもあるのかな」義兄はにやりとわらってタブレットを手の平にのせる。  なんで。  気づかなかった。  いや、眼の前に降ってくるかもしれない雪景色が甘美すぎて想像力が止まっていた。  なんで。  思考力まで正月休みに入ってるんだ。 「ご明察。だいじな義弟の会社と部屋を監視してるくらいだよ? だいじな義弟自身にも同じような機能が付いてると思わないほうがおかしいよね?」  俺が肌身離さない機器。  ポケットに入ってるこいつだ。  畜生。 「人のものを勝手にいじらないでほしいんですが」  全部筒抜けだったわけか。  一番知られたくない内容を。  一番知られたくない人間に。 「機能の延長だよ。ちゃんと僕との約束を守ってくれてるかどうか心配でさ。で、どう? 言い訳は考えた?」 「義兄さん、お話の途中で申し訳ないんですが、僕は次の新幹線で帰らなければいけないので、続きは移動中か支部に戻ってからでもいいでしょうか」 「それ変更できるよね? 今日中に戻れば大丈夫でしょ? 今日の終電に変えてよ」  吊るしあげか。  出来る限りツネから離れた場所でやってほしいのでさりげなく提案したんだが。 「楽しかった?」  義兄に誘導は通用しないか。 「お話は、然るべき場所でお願いします」 「ふうん、然るべき場所なら話してくれるってこと? どうしよ。どこがいいかな」と云いつつ、義兄の足は観光客だらけのターミナル駅を抜けてホテルに向かっていた。  ラウンジのカフェに入る。 「チェックインまでここで時間つぶそうか。実はお昼まだなんだ。実敦(さねあつ)くんはコーヒーでいい?」義兄は適当に注文して従業員を追い払う。 「泊まるんですか」 「忙しい実敦くんと違って暇な大学生だから」義兄が身を乗り出して内緒話の体勢を取る。「実は夜にここで待ち合わせしてるんだ」 「お知り合いですか」どうでもいい。本当に心からどうでもいい。 「ご新規の取引相手なんだよ。直接挨拶しておきたくてね」  本当に心底どうでもいい。  オープンで静かな場所柄、義兄はどうでもいい(困ったことに、当の本人もどうでもいいと思っているような口調だった)世間話をしながらサンドウィッチを平らげた。物足りなかったのか食後に抹茶パフェを追加した。こっちがコーヒー一杯飲み終わる間に。  チェックインの時間が来たのか、義兄は「お義兄さんに甘えなよ」と云いながら会計を持った。  いや、コーヒー一杯くらいで借りを作りたくないんだが。義兄は、その借りを何億倍にも膨れ上がらせて最悪の場面で提示してくるような輩なのだ。 「いえ、義兄さん。奢ってもらうわけに」 「実敦くんの年末年始の楽しいお土産話でチャラだよ。知りたいなぁ。京都で過ごす年末年始がどうだったのか」  観念するどころか、全部聞いてたんだろ?  内容を知ってるのに、俺の口から話させようとすることの意味。  答え合わせ。  忠誠心の確認。  エレベータで上階へ。予想通りスイートだった。 「よく部屋取れましたね」嫌味でも当てこすりでもなく純粋な質問のつもり。 「直前だったから苦労したんだけど、そこはまあ、裏技かな」義兄はダウンジャケットをハンガーにかけてコンセントを探す。「ああ、あった。バッテリィが切れそうでさ」  義兄がイヤフォンコードを抜くと、タブレットから音がした。  音と云うよりも声。  やばいくらい。  ノイズがなかった。 「我ながら出来のいいモノ造っちゃって自画自賛してるんだよね」義兄は正面のソファに深く腰掛ける。「なんなのこれ、毎晩ヤりまくりじゃん。どう聞いても同意の上だし。ああ、むしろ頼まれてたんだっけ? だいじな後継者の首へし折るより、気を許してる実敦くんに優しく抱いてもらったほうが安眠効果ばっちりだったみたいだし」  タブレットはテーブルの上にある。  音声を切るには。 「おっと、そうだった。君には前科があったじゃん」義兄が慌ててタブレットを抱える。「あのとき壊されたPCまだ弁償してくれてないよね? その上、僕との約束をこんな堂々と破ったりなんかしちゃって。どのツラ下げて僕に会おうと思ったわけ?」 「会わずに黙っているつもりでしたね」  あのときとまったく同じことをしてやがる。  クソ野郎。 「KRE(クレ)要らないの?」義兄が莫迦にしたように云う。 「もっとだいじなものがありますので」  音声が止まった。  義兄がヴォリュームを絞った。 「ふうん。おんなじことしてもダメージなさそうだね」義兄が手元を見ながら云う。「じゃあこれ見てよ。同じこと云えそう?」  俺のケータイが着信した。  画像ファイル。 「ウイルスチェックしてるから安心して開きなよ」  書類のスキャンデータのようだった。  なんだ。  これ。 「君の父親、元父親って云ったほうがいいかな。浅樋雅鵡良(アラヒまさむら)は君の生物学上の父親じゃない」 「知ってますよ」 「まあまあ」義兄が眼鏡をかける。24時間画面を見続けている癖に遠視だとか。「彼に協力してもらってね。彼も知りたがってたし、ちょうどよかったよ。君の本当の父親が誰なのか。調べてみたんだ」  父親が誰かなんて世界一どうでもいい。  そんなことより。 「義兄さんのお手を煩わせるような事柄でもないでしょうに」勝手に余計なことしやがって。 「そうなんだよ。僕の予想通りで拍子抜けしちゃってさ。あんまりにも面白くないから、反応が面白そうな3人に送ったんだ。君の母親・岐蘇源永(キソもとえ)と、僕の父親・朝頼(トモヨリ)ガルツと、もちろん君の元父親・浅樋雅鵡良にね」  なにが。  云いたい。 「わからない? 3月に君の母親と僕の父親が再婚したでしょ? それの原因を作ったのが僕だってこと」 「KREの乗っ取りが目的でしょうに」 「そっちはついでだよ。カネなんか一生かかっても使い切れないほどあるし」義兄が首を横に倒す。「ねえ、ちゃんと見た?」  俺と。  朝頼ガルツが本当の親子だという確率が書いてある。 「義兄さんが、本当の兄さんだからどうだと云うんです?」 「もののついでだから教えるけど、僕は朝頼ガルツとは何の血縁関係もない。そっちは早々に調べたよ。あまりに似てないから、調べる意味もなかったけど」 「身長のことでしょうか」  朝頼ガルツはかなりの巨体だ。180センチは超えている。  義兄は150センチあるかないか。顔も童顔なのでよく中学生に間違えられる。さっきもフロントで身分証明書を出すまでひたすら訝しい視線を向けられていた。 「面白いこと云うね。確かに一理ある」義兄が鼻で嗤って頷く。「僕の生物学上の親のことはとりあえず置いておいて。てか、興味ないでしょ? 僕も話す気ないし。もっと面白い話はこれからだよ」  まだ。  隠し玉があるのか。 「浅樋雅鵡良と朝頼ガルツは実の兄弟なんだ。朝頼ガルツの本名教えようか? 浅樋律鶴雅(りつるが)ていうんだよ」  つまり。 「KRE社長・岐蘇源永と白竜胆会《しろりんどうかい》総裁・朝頼ガルツもとい本名・浅樋律鶴雅は学生時代恋人関係にあった、て話はしたっけ? 婚約もしてたのに、なんで別れなきゃいけなかったのか。簡単に云うと、兄貴の嫉妬だね。兄の浅樋雅鵡良が、弟の浅樋律鶴雅から岐蘇源永を力づくで奪った。精神的に最もダメージが与えられる方法でね。そのことで浅樋律鶴雅は岐蘇源永以上にショックを受けた。浅樋律鶴雅は、自殺を図ったんだ。飛び下りだったか、首吊りだったか、大量に飲んだかは知らない。処置が早かったのか、間に合わなかったのか。結果的に、浅樋律鶴雅ていう人格は死んだ。いわゆる記憶喪失でまったく真っ白になった彼は、とある新興宗教に救われる。それが我らが白竜胆会。前総裁は何も思い出せない彼を不憫に想い、養子に迎え入れた。ああ、ちなみに自殺も人格が死んだのもそこらへんはまるっとKRE社長はご存じだよ。ご存じなうえで、浅樋雅鵡良と結婚したてわけ。好きだった浅樋律鶴雅はもうこの世にいないんだから、どうでもよかったのかもしれないけど」  つまりなにが。  云いたいのか。 「結論をどうぞ」 「僕は君が大嫌いだ」 「同感ですね。俺もあなたが大嫌いですよ」  義兄がにやりと嗤う。  この嗤いをするときは。 「大嫌いな実敦くんが幸せになろうとしてる。これはどうやったって邪魔したい。わかってくれる?」  自分のシナリオ通りに運んでいるとき。 「お言葉ですが、義兄さんにどうにかできるような奴じゃないですよ」 「だろうね。でもね、一つだけ、いやむしろ唯一と云っていいかな、彼を、藤都巽恒(フジミヤよしつね)を手に入れる方法があるんだ。君は気づけなかったみたいだけど。いいや、気づいてたけどその方法は使いたくなかった。それじゃ手に入らないってわかってたから。君が手に入れたいのはさ、藤都巽恒の身柄じゃない。心だ。でもね、心だけ手に入ったってどうしようもない。そう、彼は自分で自分の身柄をどうにもできない立場にある。だからこそ、この方法が一番正攻法なんだよ。そうだよね、カネで買えないものなんかないんだから」  脳のすべてがその推測を完全否定しようとしている。  完全否定する材料を必死で探している。  そうあってほしくないという願望と混同している。  わかっている。  俺は。  朝頼東春(トモヨリあずま)に勝てない。 「実敦くんのだいじなものを、眼の前で奪ってあげるよ」  まさか。  夜ここで待ち合わせをしている、ご新規の取引相手というのは。 「へえ、たいらばりにいい顔できるじゃん。そうそう、その顔が見たかった」  なんで気づかなかった。  なんで気づけなかった。  全身が怒りで総毛立つ。泡立ちすぎて皮膚感覚が鈍磨になる。  首を振っても。眼を瞑っても。  義兄が、朝頼東春が云うならそれは真実なんだろう。 「お義兄ちゃんは、藤都巽恒を買った。僕の全財産使っちゃったよ」  咄嗟にいくらだったのか聞こうとした自分は、現実逃避なんだろうか。  それとも奪う返す予算の概算。 「続きはそっちで話そうか?」義兄は寝室に眼線を遣って嗤った。「実敦くんの頑張り次第で詳細が聞けるかもよ」 「待ち合わせは何時ですか」 「それも含めて、君の頑張り次第じゃない?」  ド畜生。  帰りの新幹線を、明日の始発に変えたほうがよさそうだ。 「ところで」思いついたように義兄が云う。「行きは二人旅だったのに、帰りはぼっちになってるのはなんで?」      5  母親の再婚相手が本当の父親だったとか心底どうでもいいし、義兄が俺のことを大嫌いだったのもむしろ願ったり叶ったりだし、そうゆうのはいつものように“興味ない”カテゴリィに移動してまとめて削除すれば済むだけの話だが、それだけは。  触られたくなかったし、奪われたくなかった。 「いい? 僕がいいって云うまで出て来ちゃ駄目だからね」義兄が逆さに覗きこむ。  ベッド下。  義兄がご新規さんとやらと親睦を深めている間、俺はそこで待機しろという。  正気の沙汰じゃない。  腕時計の音が異様にうるさい。  なんのことはない。腕時計の上に耳があっただけだ。  夜。 「君の忍耐力には一目置いてるんだから」  つまり、俺の精神力の耐久テストをしようとしている。  いまになってわかる。  御曹司には悪いことをした。自分の身に置き換えないとわからない。  口の中が血で鉄の味が拡がる。 「そろそろ迎えに行ってくるね」義兄はひらひらと手を振って部屋を出て行った。  痛みと屈辱を見返りに得た情報によると、朝頼東春は御曹司の伝手で“会員”になった。  ツネを含めた“商品”を選ぶ権利。  いくらカネを積んでも半日レンタルが最長な上に、会員費とレンタル料は別口で発生する。それぞれが莫大というか法外というかぼったくりというか。  会員にもランクがあり、積立金の額と個別審査の結果次第で、選べる商品が増える。  ツネはその中でも最高ランクの会員のみに知らされる、とびきりのプレミア一点もの。  お得意様の間でローテを組み、やはり半日レンタルでやり取りされる。  しかし、ツネはいま体調を崩し、ローテどころか市場に現れる頻度が激減している。  お得意様は顔馴染みだ。体調不良ならば仕方ないと納得し、文句の一つも言わずに回復を待ってくれている。裏を返せば、こうゆう不利益な状況に納得できる“人格者”のみが最高ランクの審査を通る。  朝頼東春はそこに目をつけた。  数で稼げない状況下において、普段のローテを組んだ状況以上の利益が発生するのであれば、半日レンタルの原則を特例で崩せるのではないだろうかと。  結論から言うと、その目論見は成功した。  朝頼東春は自らが所有するほぼすべての資産と引き換えに、藤都巽恒を“購入”した。  期限は。  ツネの体調が回復するまで。  とかいう曖昧極まりない。要するに、もっといい“買い手”が見つかるまで、朝頼東春の所有物であることは揺らがない。お得意様が聞きつけて同じことをしないとも限らない。全財産つぎ込んでも一夜限りの所有権かもしれない。それでも朝頼東春は。  この瞬間、この一晩、俺に嫌がらせをするという、たったそれだけのために。  これまで非合法に荒稼ぎした財産を使い果たした。 「どうぞ?」ドアが開いて朝頼東春が戻ってきた。 「俺具合悪いさかいに」  息が止まりそうだった。  本当に。  ツネが来た。足が見える。 「なんや、すでに一戦したはるやないの」ツネが吐き捨てて一歩引いた。「どんだけ盛っとるん?」 「下手くそなんで中断して帰らせましたよ。前菜にもならなかった」朝頼東春がベッドに腰掛ける。足の裏が見えた。 「なあ、お前ほんまにやる気あるん?」 「どういう意味でしょう」朝頼東春の声が多少面食らったように聞こえた。 「お前が欲しいもんは俺にはあらへんで?」 「へえ」朝頼東春が息を漏らす。「さっすが。お見通しじゃないですか。そうですよ? 僕は別にあなたが好きだからあなたを手に入れたわけじゃない。あなたの身体にも心にも興味がない。でも、あなたを所有することで得られる悦楽ってのがあるんですよ」 「趣味最悪やな。前から思うとったんやけど。俺の客ン中で最悪の部類やで?」 「褒め言葉ですよ。誰にも手に入れられない高価な宝石を手に入れて、欲しい欲しいと喉から手が出てる莫迦な奴らに見せびらかすだけ見せびらかして、最後はこの手で粉々に壊す。僕が得たい快楽はそうゆう類のものです」 「うーわ」ツネが呻いた。「こうゆうのにカネ持たせると世界中の富を滅ぼしかねへんな」 「まずは座ってくださいよ。あなたは僕に買われたんです」 「勘違いせんといて」ツネが云い放つ。ベッドから一定距離を保ったまま動いていない。「俺はお前の玩具と違う。窓口に何云われたんかは知らへんけど、俺を好きにしていい権利はお前にはあらへん。何でもかんでもカネで買えると思うとったら」  朝頼東春が。  喉を鳴らして大笑いした。  ベッドを転がりながらばんばん叩くので振動がこっちにも伝わって不快だった。そうか。それが狙いか。  ちゃんと聞いてたか、という意味だ。 「いちいち情緒不安定なやっちゃな」 「勘違いはどちらです? あなたは僕にカネで買われた。それ以上もそれ以下もない。あのときはデータ編集と引き換えにただで抱かせてもらえましたけど、今回は僕側に命令権がある。受付できちんと説明は受けましたよ。カネを引き換えに何でもするんでしょう? 死ぬこと以外は何でも」  力づくで組み敷くのは、朝頼東春の体格的に無理だ。ツネに蹴られて一発ノックアウトが関の山。それに朝頼東春が求めているのは一方的な暴力による恐怖の末の服従ではない。  相手を絶望させて。  相手側から降参の意志を示していいなりになること。  朝頼東春が、ツネを屈服させられるとは思えないが。 「僕の隣がお厭なら、椅子を持ってきますよ。倒れられたら楽しみが半減しますからね」 「ええて。自分で持ってくるわ」ツネがドアの向こうに消えた。 「生きてる?」朝頼東春が逆さにベッド下を覗く。「始発で帰れるようには切り上げるつもりだし」  いっそ眠ってやろうか。 「逆に眼が冴えちゃうと思うよ。勢い余って自分の舌噛み切らないようにね。あ、タオルあげとこうか?」  声を出すなと云われているので、黙って首を振った。 「動かせる椅子なんあらへんかったわ」ツネが戻ってきた。「こっちの部屋やったらあかんの?」 「今後のために教えときますと、僕はベッドの上の方が饒舌なんですよ」 「うわ、下ネタかいな」 「こちらへどうぞ? なんなら寝そべった姿勢でも構いません。体調がよろしくないのでしょう?」  ツネはしぶしぶベッドによじ登った。  これで完全に。  何をしているのか見えなくなったわけだが。  いっそ見えないほうがきつくないか。想像のほうが気が狂いそうになる。 「寒いですか? 暖房強くしましょうか」 「ああ、これか」首のマフラーだろう。「お前、そうゆう趣味ありそやしな。見せられへんわ」 「毎晩首絞められて寝落ちるって、そっちのほうが倒錯してませんか?」  ツネが。  息を呑む音が聞こえた気がした。 「なんで知ってるかって? 伊達にあなたの所有権を持ってませんよ。他にもいろいろと知ってますよ。名古屋の大学に行ったお友だちの行方とか」 「何が云いたいんやろ」 「ちょっと警戒してます? 力を抜いてくださいよ。力むと身体に障りますよ?」  しばらく。  無音。  何してやがるんだ。 「僕のいいなりになれば、能登教憂(ノトのりうき)ならびに屋島嗣信(ヤシマつぐのぶ)の行方について、捜査を撹乱するお手伝いができます」 「意味がわからへんな」 「お得意の白切りが続くのもいつまででしょうか。これをお聞きになります?」  ノイズゼロの。  ツネと俺の。 「ああ、先に断っておきますと支部長さんは関係ありませんよ?」音声は止まらない。「これは僕が勝手に仕組んだことですから」 「ぜんぶ聞いてはったゆうわけなん?」 「察しが早くて助かります。ところで、あなたの私有地は国家権力が及ぶんでしょうか」 「さあな、わからへんけど」 「洗脳って、どうやってやったんです?」  うるさい。  時計と心臓が。 「能登教憂が大学に入って十ヶ月、いや、先月の段階で洗脳は完了していたと見ていい。とするとたったの九ヶ月。九ヶ月足らずであなたは能登教憂の人格を殺し、何と云いましたか、あの、お名前がわからない、あなたのお世話係の方、すでに死んでるんですっけ? 彼の人格を上書きした。ねえ、どうやったんです?」 「それがお前の用事なん?」 「目下最大の関心事と申しましょうか。ええ、そうですね。僕はそれが知りたくてたまらない」 「お前そうゆう学部やったっけ?」 「心理学ですか? それは偏見でしょう。洗脳なんか講義で扱ったりしませんよ。世のため人のためになることしか学問で扱わないんですから」  朝頼東春の狙いがわからない。  洗脳?  何を企んでいる? 「わーった。お前、いかがわしい宗教で」 「そんな面倒なことしなくても、信者の方は謙虚ですので」  ツネもきっと同じことを思っている。朝頼東春の狙いを先読みしなければ。 「勿体つけずに教えてくださいよ。ご存じと思いますが、過去のこともあって能登教憂の両親それなりにしつこいですよ? 兄はすでに家宅捜索を終えている。あなたの存在には辿りついているでしょうね」 「なんでお前に心配されなあかんのやろ。やるならやるし、やらへんのなら寝てまうで?」 「ええ、構いませんけど眠れます?」  ツネは答えない。 「誰かに優しく抱かれたほうが眠りやすいんじゃないですか?」  ツネは何も云わない。 「僕がお手伝いしましょうか?」 「お前が欲しいもんは探しても手に入らへんで?」  安いベッドなら軋んだだろうか。  聞くに堪えない音がしてるんだが。 「妃潟さんでしたっけ、ようやく名前を思い出しました。彼のこと、たいらに聞いたんですけど」  朝頼東春の狙い。  一秒でも早く。 「もともとそちら側の方ではなかったんですってね。先代のお気に入りだったばっかりに攫われて人格を壊された。とすると、その時点で妃潟氏の元の人格は死んでる。先代が愛していたのは元の人格だった。元の人格に戻ってほしいがため、先代は妃潟氏の新しい人格を追い出そうと一芝居打った。でもそれが裏目に出て、追い詰められた妃潟氏は自分の肉体の一部を切り取って、食べたと。あなたが妃潟氏に抱いている感情は憐憫ですか?」 「なんでお前に云わな、あかんのか、な」ツネの声が訳のわからないタイミングで途切れる。  訳のわからないタイミングで途切れるようなことをしてやがってるのか。 「先代が死んであなたが実家に連れ戻されたとき、妃潟氏はまだ生きていたそうですね? ねえ、教えてくださいよ。妃潟氏は最期どうやって死んだんです?」  ツネの声と息が短い間隔で漏れる。  やめろ。  思考が乱れる。俺は一秒でも早く辿り着かなければならないってのに。 「あなたが殺したんじゃないんですか?」 「見て来た、みたい、な云い方やな」 「妃潟氏は死んだ。能登教憂を妃潟氏の身代わりにしたって、それは妃潟氏じゃないことに変わりはない。妃潟氏は永久に手に入らない。あなたがしていることは、生きた人間を使った人形遊びですよ。そんな非道なこと、僕にだって思いつかない。だから知りたいんです。あなたは僕が欲しかったものを手に入れる方法をご存じのようだから」  意味がつながった気がしたが。  ものすごい雑音のせいでかき消えた。  なんだこの。  どろどろとした。  融解する底闇のような。 「ああ、すみません。あまりに気持ちがよくて」 「いい加減抜いてくれへん? シャワー行きたいさかいに」 「まあまあ焦らず。そろそろ出てきましょうか。よく頑張ったね」 「は? え、ちょ」  俺もそう思った。  よりにもよってここでか。 「いるんでしょ? 出ておいでよ」  ベッドの下から這い出る。  朝頼東春が後ろからツネを貫いていた。  ツネは。  こっちを見ない。 「何か云おうよ」朝頼東春が見せつけるように引き抜いた。「僕の後でよければ挿れてみる? それともやりまくって飽きちゃった?」 「お気遣いなく。義兄さんのものに手を出せませんので」 「聞こえなかった? 僕の買った藤都巽恒を僕の眼の前で抱けって云ってるんだよ。他ならぬ僕が許可してるんだから。遠慮なんかしないでよ。気分が悪いな」 「義兄さんが見て楽しいものかどうか俺には」 「何度云えばわかるんだろう。君に拒否権はないし、僕が命令してるわけ」朝頼東春が俺を見上げる。「この一週間どうやって愛し合ってたか、音では聞いてたけど実際にも見てみたくなった。興奮したら参加するかもしれないけど、とりあえずやってみてよ。ほら」  ツネは腰を高く持ち上げたまま枕に顔をうずめている。 「大丈夫か」ツネにだけ聞こえる声で云った。 「ずアホぉ。おるんならそうゆうたらええんや」ツネの声はなぜか震えていた。  なぜか?  いまこの場の狙いがわかった。  わかるのが遅れたのは、俺のせいじゃない。  嘘だろう。  こんなタイミングでわかりたくなかった。  これは。  俺に対する嫌がらせじゃない。 「すぐ挿ると思うけど」朝頼東春は隣のベッドに座っている。「あ、掻き出さないでね。俺の入ったままするように」 「悪いな。すぐ終わらせるから」ツネの耳元で云う。  ツネが黙って首を振る。枕で顔を隠している。  なんで。  このタイミングなんだ。  一週間あっただろう。一週間の内のいつだってよかった。  いまじゃなければいつだって。 「せやからゆうたやん」枕に吸収しそびれたツネの声がシーツに零れ落ちる。「社長さんにならはってね、て」  知らない。  お前は。  カネで買えるのか。  社長になってカネを稼いでそのカネでお前を買えってことだったのか。  わからない。 「わかりづらい」  こんな意味不明な告白されたって。  じゃあ6年前に出会ったあのときから。  嘘だろう。  嘘だと云ってくれ。  夢か。  夢に決まってる。とするなら。  俺のベッドで死んでたツネのほうが現実ってことになる。  神経を逆撫でる朝頼東春の高笑いのせいで辛うじて自我境界が保てているが。  笑えやしない。  だって俺は。  いままでいったいどうやって息をしてきたのか思い出せないのだ。

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