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第4章序章
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僕の人生は思うほど幸福でもなければ思うほど不幸でもない。
と思ってたのは、ガキの頃まで。
僕は僕以外の人生を知らなかっただけ。
これがフツーだと、標準だと思っていた。
違ったのだ。
僕は母親の顔を知らない。
僕の一番最初の記憶は、姉と兄が僕の顔を物珍しそうにのぞきこんでいる情景。
遠くで父親の声がした。
その父親だって僕と何の血縁関係もなかった。これはあとで自分で調べて確信をもったが、そもそもまったく似ていなかった。父親だけじゃない。姉も兄も、後から来た妹だって。僕らは誰にも似ていなければ、誰とも血縁関係がなかった。
簡単だ。
僕らきょうだいは、どこからか拾ってこられた。
父親に聞いたことがある。僕はどこの誰なのか。
父親は、なんでそんなことを聞くんだという顔をしてこう云った。
お前は私の子だと。
そんなことが聞きたいんじゃない。僕は本当のことが知りたかった。
僕が傷つくと思ったのだろう。でも本当のことを隠される方が余計に傷つく。
僕は食い下がった。僕はどこの誰から生まれて、どういう経緯でこの家に来たのか。
父親はまた同じような顔をしてひとこと。
お前がどこの誰だろうと、私の子であることに変わりはないと。
そうじゃない。
そうじゃないんだ。全然わかってない。全然伝わらない。
父親は僕を拾うだいぶ前に、自殺未遂をしたらしい。
そのときに何か決定的なものが壊れたんだろう。話がいっこうに通じないのは。
姉も兄も自分たちの出生に興味がないようだった。
妹に至っては、人格が二つ以上あってそれこそ厄介極まりない。
なので僕は早々に、誰とも口をきかないことに決めた。
知り合いはこの画面の向こう側だけ。利用価値があるものもこの画面の向こう側にしかない。
そんなときに出会った。
桓武衡宜 。
彼もほどよく壊れていた。
でも。
僕ほどじゃなかった。
第4章 この悲しみをまき散らす獣と天地創造を踊っている
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傑作すぎてはらわたが捩れそうだ。
絶対に買えないはずの高嶺の花を全財産はたいて買ったらすでに売約済みだったとか。
莫迦莫迦しくてやってられない。
とんだ出来レースじゃないか。
「下らない」声が漏れた。「面白くないから帰るよ。ホテル代払ってあるからゆっくりしてけよ」
「義兄さん、あの」
「僕は君の兄貴でもなんでもないよ」
ベッドに転がってる方もほぼ全裸。義弟も下半身露出なので追っては来れないだろう。
ああ、しまった。
終電行ってるじゃないか。
エレベータホールで義弟から電話が来た。「義兄さん、いまどこですか。たぶん電車ないんじゃないかと思うんで」
「隣の部屋で寝ろって? 莫迦云うなよ。顔に出てないだろうから云うけど、僕はいまおかしくなりそうなくらい気分が悪いんだ」
「じゃあ俺が出て行きます。もともと義兄さんがとった部屋です」
「ようやく想いが実ってよかったじゃん。僕の方が邪魔だと思うけど?」
「ツネなら寝てますよ」
「だろうね。君が抱いてあげれば寝るんだろ?」
「義兄さん」溜息。
醜い意地の張り合いだ。
仕方がない。年上が折れてやろう。
「わかったよ。僕の部屋に入るなよ?」
「プライバシーは守りますよ」
嫌味か?
結局僕がソファで寝て、義弟と藤都巽恒がベッドを使った。
翌朝早く、義弟は始発で帰った。
たいらの声が聞きたくなったので連絡したけど、この時間だと衡宜のキャンバスか。
「あの、連絡頂いていたようなんですが」たいらは割とすぐにかけ直してきた。思いがけない僕の着信が入っていて吃驚したのだろう。
声が裏返っている。
「別に急ぎの用じゃないけど、今日暇?」
「あ、えっと」
「暇かどうか聞いてる」
「あ、はい。特に外せない用事もないです」
「ちょっと付き合ってほしいとこがあるんだけど」
「はい。あの、僕でいいんですか」
「僕が電話した相手はお前しかいないけど」
「え、あ、はい。すぐに支度して向かいます。ちなみにどちらへ」
「京都にいる。藤都巽恒に会ってた」
たいらが無理矢理唾を飲み込んだ音が鼓膜を刺した。
「お前こっち住んでたんだろ? 案内しろよ。観光とかできてないから」
「わかりました。すぐに向かいます」
電話を切った。
寝室から藤都巽恒が顔を見せた。「おはようさん」
来たときの和装。顔色も昨日よりはよさそうだった。
義弟に嫉妬はしてない。嫉妬する理由もない。
「払い損の無一文ですよ、まったく」皮肉を云ってみた。「あいつのどこがいいんです?」
「さあなぁ」藤都巽恒が苦笑いしながら首を傾げる。「ねちこいとこやろか」
「朝食はどうされます?」
「朝は喰わへん主義やね」
「誘っているんですが」
「ああ、そか。お前に所有権あるさかいな。ええよ。ジュースしか飲まれへんけど」
レストランは静かだった。朝食はよくあるビュッフェ形式。
藤都巽恒は先に席についてグレープフルーツジュースを飲んでいた。本当に固体摂取はしないらしい。
「お前、身体ちっこい割にむっちゃ食べはるんやね」僕の皿を見て鼻で嗤われた。
「こっちの栄養ですよ」頭を指さす。
「これから伸びはる、わけあらへんな。遺伝と違うん?」
窓の外が見える。
冬特有のぱっとしない天気だった。
「なあ、桓武建設の」
「たいらが何です?」不覚にも顔を上げてしまった。オムレツが皿に落ちる。
藤都巽恒の口からたいらの名前が出るとは思わなかった。
藤都巽恒は、眼を細めて窓を眺めていた。
「これから来るんか」
「聞いてたわけですか」
「でっかい声で話さはるさかい、聞こえてもうたんや。監視盗聴上等の誰かさんと一緒にせんといて」
口に入れ損ねたオムレツを咀嚼する。
「あいつが俺の兄やんて、知ったはるやろ? お前が買うたんか」
「助言だけですよ。跡継ぎが使い物にならないから出来のいい養子を探してるって相談を受けたので」
「せやけどお前の好みなんと違うん? 金髪碧眼の天然もんやで」
「仰りたい意味がよくわかりませんが?」
「わからへんならええわ。ぎょうさん喰わはったらええよ。待っとるさかいに」
横顔がどことなく。
たいらに似てる気がした。
「待ってなくていいですよ。帰ってもらって結構です」
「連れて帰らへんの?」藤都巽恒は意外そうな顔をした。「半日規制なん、独占禁止の方便やさかいに」
「義弟を喜ばせるだけじゃないですか。それともまだやり足りないですか」
藤都巽恒は厭そうに口の端を下げた。「足代出してくらはったら出張でもなんでもしたるえ?」
「そうですね。気が向いたら」
「ほんなら、さいならね」
レストランの入口に黒い巨体がのぞいた。番犬が迎えに来たらしい。
めちゃくちゃ睨まれたから微笑み返してやった。
たいらから到着の連絡が入った。駅は観光客でごった返しているのでホテルのラウンジで待ち合わせた。
「お待たせしてすみません」たいらは今日も文句なしで視線を集める。
一緒に歩くのは本当は嫌だが、お前くらいしか誘える奴がいなかった。
て云ったら喜ぶだろうから云ってやらない。
「あの、行きたいところとかご希望はありますか」
「お前の家ってまだあるの?」
「どうでしょう。あったとしても面白くないかと」
「面白いかどうかは僕が決める」
「すみません」たいらは少し困ったような顔をして首を振った。「僕は売られた身の上なので、あの家に顔を出すことはできません。どこか他の場所を」
そこそこカネを持っていそうな二人連れの女がたいらを見てひそひそやっている。かなりカネを持っていそうな妙齢の女がたいらを見て溜息を漏らしている。
そうか。
女相手に商売を始めてみるのもありか。
「お前さ」
こいつが本題。
「たいらを殺すんだろ?」
僕が、衡宜もたいらもどっちもたいらと呼んでいた理由に。
ようやく行き当たったんだろう。
「どうなの?」
「やはりご存知でしたか」たいらは安堵と罰が悪い中間の顔をした。「ええ、衡宜の兄のことは」
「兄? いるの?」
「あれ? ご存じなかったですか」たいらは意外と驚愕の合わさった顔をした。「はい、僕と同じ学部にいたらしいです。といっても知り合ったのは春なんですけど。向こうが声をかけてきて」
「なんでそれ黙ってたの?」
春?
一年経つじゃないか。
「すみません。とっくにご存じだと思っていて」
衡宜の兄?
いるのか?
僕の記憶にはないが。
「なんで兄がいるのにお前を養子にしたんだ?」
「それは」たいらが俯く。「僕もそう思います。すみません、もっと早くアズマさんにお伝えしていれば」
急に現れた衡宜の兄。
名は。
麿坂勇和 というらしい。
ちょっと探りを入れたほうがよさそうだ。
「なに? どういう手筈になってるの?」
たいらは、春にあった出来事を順序立てて話し出した。
呼びつけておいてなんだが、京都観光どころではなくなった。
早々に麿坂勇和とコンタクトを取る必要が出てきた。
僕の予感が正しいなら、この計画には裏がある。
たいらを助ける気は毛頭ないが、僕の望まない方向に転がって行くのは面白くない。
「あの、アズマさん?」たいらが沈黙に耐えかねて僕を呼んだ。
「大丈夫。何も心配ないよ」
衡宜と心中する?
正気の沙汰じゃないだろう。
どうやら世の中には。
僕よりおかしい奴がまだまだ存在するらしい。
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