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第5章 この悲しみを取り除いてくれる王子様なんかいないし、壁も剥がれて鏡が割れ、獣は死に絶えた

     1  病室で眼が覚めた。  朝の5時。  まずい。行かないと。  キャンバスの時間だ。  つながっている管を引き抜いて、ベッドから降りる。  靴がない。  スリッパでいいか。  よく知ってる病院で助かった。  帰り路がわかる。  門は開いていた。  雪が溶けたので血痕はなくなっている。  地下への扉も開いている。  いつも通り衡宜(たいらぎ)の部屋に入る。 「遅かったね」衡宜が背を向けて立っていた。 「ごめん」 「お前もういいよ」  服を脱ごうとした手が止まる。  アズマさんの顔がよぎった。  違う。 「遅れたのは謝ります。でも」 「だからもういいんだって」  木製のベンチの上。  なんだ。  それは。  だれだ。 「ああ、これ?」衡宜が振り返る。「あまりに遅いから代用」  黒い髪が見えた。  衡宜がひっくり返す。  毒々しい絵の具が塗られた、それは。 「ちょっと眠ってもらってるんだ」 「アズマさん!?」駆け寄る。  触れようとした手を払われる。 「触らないでよ。まだ乾いてないんだから」 「生きてますよね?」 「なんでアズマさんを殺さないといけないの?」  胸は微かに上下している。 「僕が代わるから。そもそも僕の役割です。アズマさんを解放して下さい」 「なんで?」  なんで?て。 「アズマさんを巻き込む必要なんかない。僕が、代わります。僕が」 「時間に遅れてくるやつなんか要らないよ」  そこで。  眼が覚めた。  機械の音。  液体の音。  寝息。  カネに物を云わせた特別個室なので家族も泊まれるように他にもベッドがある。  隣のベッドに黒い頭が見えた。 「アズマさん?」  起きない。  起こすのも忍びない。  生きてるならそれで。  時計を確認する。  深夜3時。  日付けを確認する。  あの日から三日経っている。  カネに物を云わせた特別個室なので浴室が付いている。  シャワーを浴びる。  身体が冷えたので湯船に浸かる。 「この三日で何があったか知りたい?」カーテンの向こうから声がした。 「すみません。起こしてしまって」 「いいよ。いろいろあって寝れないし」アズマさんが息を吐く。「麿坂(マロサカ)はずっと昔に社長に条件を出してたんだ。代わりのキャンバスが見つかったら、衡宜をまともな世界に連れ戻して、後継者にするってね。お前殺されそうになったろ? 僕も殺されかけた。昨日葬式したよ。たぶん、衡宜を燃やした」 「麿坂は生きてるんですか」 「逃げたか、自分で死んだか、社長かお前を殺そうとどこかで狙ってるか」アズマさんが息を漏らす。「背後に注意した方がいいよ。僕も気をつけるし」  半分冗談で、残りが本気だろう。  カーテンを開けた。  アズマさんの眼の下に隈があった。 「なんだよ」 「僕が殺されないように見張っててくれたんですか」 「そう思いたいならそれでもいいよ」  僕が服を着るまでの間、アズマさんはベッドに座ってタブレットをいじっていた。  フットランプしかつけていなかったので、アズマさんの顔だけ薄ぼんやりと明るい。 「藤都巽恒(フジミヤよしつね)を買った」  息が詰まる。  喉の異物感。 「なんか云えよ」 「欲しかったからですか、それとも、僕への当てつけですか」 「どっちでもないの、わかってるだろ? 義弟への嫌がらせに決まってる」  買った理由なんか実はどうでもいい。  あんな問い、正気を保つために口走った意味のない音にすぎない。  買った?  彼は買えるのか?  見せびらかすための非売品じゃないのか。  何があったんだろう。  何かがあったのだ。僕の知らないところで。 「お前が聞きたいのは、抱いたかどうかだろ?」  シーツの端を掴む。  アズマさんがこっちを見た。 「いまのとこ僕のだし、どうするかは僕の勝手だよ」 「こっちにいるんですか」アズマさんの元に。 「近いうちに呼ぼうかと思ってる。一泊くらいはさせられるだろ」 「呼んでどうするんですか」  アズマさんがあきれたような顔をする。「だから、僕の勝手だろそんなこと」 「アズマさんは、巽恒をお気に召してるわけじゃないんですよね?」 「お気に召してたらどうするわけ?」 「それは」  どうにもできない。 「やっぱお前そうゆう顔いいよ。これだけで買った甲斐はあった」アズマさんが手招きする。  乱暴に押し倒される。  顔のすぐ横のタブレットが眩しい。  眼を細めていたら目尻を撫でられた。 「お前をヨシツネと絡ませたら失った分稼げるかな」 「巽恒を使って儲けようとすると存在を消されます。絶対にやめてください。お願いです」 「お前、自分がやりたくないからそんなこと云ってるの?」 「違います。本当です。信じてもらえないかもしれませんが、本当に」  アズマさんの冷たい指が、僕の首筋を這う。  画面の光が眩しくて、顔がよく見えない。  抱いて。  くれるだろうか。  胸に空いた穴が痛い。  傷を。  アズマさんが爪の先でなぞる。 「結果的にさ、麿坂はお前を救ってったんじゃない?」  意味が。  わからなかったけど、口を塞がれたので呑み込んでしまった。  眼が覚めたらアズマさんはいなくなっていた。  代わりに、讃良(ササラ)が病室の隅に座っていた。 「退院でしょ? 迎えに来たよ」 「朝早くにすみません」  大した荷物はない。僕が着替えればいいだけ。 「後ろを向いていてもらえますか」 「勇和(いさわ)に会ったの?」讃良は背を向けている。 「ええ、まあ」 「私のこと、なんか云ってた?」 「いいえ、特には」 「そう」  面識があったのか。  それはそうか。婚約者なんだから。  衡宜と幼馴染なら、知らないわけないか。  ああ、じゃあ。 「ぜんぶ、知ってたんですか」  こうなることも。  こうなったことも。 「待ってたのに。結局帰ってこなかった。ウソツキだよ」  退院の手続きを済ませて病院の外に出る。 「ここでいい?」讃良が云う。 「ありがとう。いろいろ」 「むしろこれから長い付き合いになるよ。改めてよろしく」 「こちらこそ」  讃良と眼が合う。 「一個だけ聞いていい?」 「なんでしょうか」  車椅子の老人を一人やり過ごした。 「朝頼(トモヨリ)くんのこと好きなの?」 「答えがほしいんでしたら、ええ、そうですね。想いが届く予定はないですが」 「あいつは、君を不幸にしかしないよ」 「残念ながら、不幸の定義があなたとは違うようです。アズマさんに忘れられて相手にされないことが、僕の不幸に相当します。なので、アズマさんに厭きられない限り、僕は不幸にはなりません」  讃良は何か云いたそうに僕を見たが、溜息だけついて先に帰ってしまった。  僕も帰ろう。  家に帰る気がしなかったけどそこしか帰るところがないから。  門は閉まっていた。  鍵で開けた。  屋敷は異様に静かだった。  いつもは針を落としても駆けつけてくる執事も、口うるさく目ざとい家政婦もいない。  なんで?  人の気配がしない。  まだ夢の続き?  いや、そうじゃないとは思いたいが。  地下に通じるドアが閉まっている。  ここの鍵は持っていない。  自室に入る。 「おかえり」社長が僕のベッドに座っていた。  後ずさったのを社長は見逃さなかった。  ドアから出ようとしたところを捕まえられる。 「放してください」痕になりそうなくらい強い力で握られた。 「何もしないさ。ちょっと見てほしいものがあってね」  社長の部屋に移動する。手首は放してもらえなかった。  壁に抜け穴ならぬ地下への階段がある。 「逃げないので放してください」 「市長の娘と結婚できるかい?」社長が力を緩めて振り返る。  窮屈な螺旋階段。  あの地下につながっている。  衡宜のアトリエ。いや、もともと社長のだったのか。 「できるできないじゃなくて、そのために僕を買ったんじゃないんですか」  政略結婚。 「わかってくれてるならいいさ。息子達が迷惑をかけたね」社長が木製のベンチに眼を遣る。  なにが。  のっている?  僕じゃない。アズマさんでもない。  とするなら。 「一番最初の状況に戻しただけだよ」社長がその白い腹部を撫でる。「私の個人的な趣味を息子に取られてしまったからね。ようやく取り返せた」  妙に白い。  人間の肌の色じゃない。少なくともそれは。  生きていない。  物体で人形。  衡宜の形をしていた。 「燃やしたのは長男のほうさ。あれに用はない」 「僕を買ったのは、こうするためだったんですね」  麿坂を消して。  衡宜を手に入れて。  僕を。  自我の延長にする。  社長が衡宜を膝にのせて笑う。「いままでご苦労だったね。これからは来なくていいよ」  指が。  僕の胸部を差す。 「キズが残ったんじゃないか。傷モノに商品価値はない」  衡宜のキャンバスから解放されたことは喜ぶべきことなのだが。  ああ、また。  僕は。  必要とされなくなってしまった。  麿坂のアパートは空き室になっていた。  あのときの喫茶店に入った。  老紳士が僕を見つけて頭を下げた。  なるほど。 「副業だったんですか」 「先日お暇を頂戴いたしましたので、晴れてこちらが専業になりました」  気づかなかった僕の落ち度だ。  彼は、  執事だ。 「勇和様のご自宅はわたくしが片付けさせていただきました」 「自分で死んだんですか」麿坂は。  執事が首を振った。「結果は同じです。あなたが、廟晏(びょうあん)様が正式に桓武(カンム)家の跡継ぎになられた」  コーヒーのにおいがする。  客は相変わらず誰もいなかった。 「二度と来ないほうがいいですかね」 「わたくしからは何とも」 「さようなら」  駅に戻る道すがら、見知らぬ少女に呼び止められた。  真っ黒の髪。  全身真っ黒の。  小さい顔の半分を覆う真っ黒のサングラス。 「柏原氏胤(カシハラうじたね)さん」  なんで。  僕の昔の名前を知っているんだろう。  少女から距離を取る。 「警戒なさらないで。わたくしは」  まだ梅にも桜にも早い。  春はだいぶ先。      2  ヨシツネさんが電話を耳に当てる。「あかん、出ぇへん」 「トイレとかすかね」 「用足す程度で電話置いてくかいな? 留守電ぶちこんどったらええやろ」  サダさんへメッセージを残す。  一泊二日留守にする、と。 「あと頼むさかいにな」  本当は駅まで送って行きたかったが、ヨシツネさんに断られてしまった。  タクシーが到着した。 「ほんなら」 「はい、いってらっしゃいませ」  ヨシツネさんは、いまから朝頼(トモヨリ)アズマのもとへ行く。  いまのところ所有権があるとのことだが。  これが最初で最後になるだろうと、ヨシツネさんは云っていた。  あれから約3ヶ月。  ヨシツネさんの体調が回復しつつある。  それまでの辛抱なのか、そこからが地獄なのか。 「あれ? もう行っちゃった? お見送りしたかったのに」妃潟(キサガタ)が廊下をのそのそと歩いてきた。  大あくびを見せつけられる。  ヨシツネさんの安眠に、妃潟が必要なくなったのはいいことに違いないが。 「もういい加減諦めてよ。僕は君の知り合いでもなんでもないんだから」妃潟が後ろを振り返る。  屋島が、妃潟の腰に張り付いている。  能登を連れ戻しに来た日から、そのまま居ついてしまった。大学は春休みらしいが、能登と一緒じゃないと帰らないと頑として譲らない。  ヨシツネさんも半ば諦めて好きにさせている。そうせざるを得ないってのが本音だろう。  あの日から。  屋島はヨシツネさんと口をきいていない。  妃潟が溜息をついた。「ヨシツネがいない今がチャンスだと思ったんだろうけどね、そういう問題じゃないんだよ? 僕は能登くんじゃないんだから、帰るとか帰らないとか、そうゆうのじゃないんだって、何度云ったら」  屋島は黙って首を振る。譲る気はないってことだろう。  もうこんな問答を何千回も何万回も繰り返している。 「とにかく離れてよ。買い物行かなきゃいけないんだから」  屋島が頷く。一歩後ろに下がった。 「群慧(グンケイ)くん、送ってよ」  いつもの買い出し。屋島は留守番。  駐車場待機の間に、念のため、師匠に連絡しておく。  妃潟が両手に買い物袋を持って車に戻ってきた。 「ヨシツネも、どうせ手放す気ないんなら、さっさと送り返すなり、殺すなりすればいいのに。邪魔でしょうがないよ。知ってると思うけど、彼が来てから欲求不満でね。ヨシツネもさすがに彼にはそうゆうの見せたくないんだろうね。どう? せっかくご主人さまがいないんだし、僕の相手してくれない?」 「冗談やめろ」 「冗談で云うと思う? ちょっとどこか寄ってこうよ」妃潟が俺の手に自分の手を重ねる。  冷たい手。  無視してアクセルを踏んだ。  昼食を終えて自室で筋トレをしていたら、妃潟が入ってきた。 「朝云ってたことだけど」  無視して腹筋を続ける。 「連絡あった? ちゃんと着いたかな」妃潟が俺のケータイを手に取って、俺の上に座った。「君のとこにもないとなると、実はあんまマメじゃないよね。それともそんな暇ないくらい盛り上がっちゃってるかな」 「どけよ。重しにもならねえ」 「意味ないならのっててもいいじゃん。部屋にいるとあの子がうるさくってさ。家事してても周りちょろちょろしてくるし、ちょっと避難させてよ。気も休まらない」  ただ座ってるだけならいいか、と思って放置しておいたが、気のせいじゃない。  明らかに体重をかけてきている。 「君だって相手してもらってないでしょ? ストレス発散の一つだと思ってさ」妃潟が上体を傾ける。「大丈夫だよ。ヨシツネには黙ってるから」 「やる気ねえよ。発散も要らねえ。退け」 「怖い顔するね。そもそもの顔はこっちなのかな。爪も牙も引っこ抜いて、役に立つかわからない力のほう育てて、触われる見込みのない華を眺めてる。この一年、虚しくなかった? 得られるものはあった?」 「怒らせたいなら無駄だ。やってんのは身体の強化だけじゃねえんだよ」 「ふうん」妃潟が顔を離した。「じゃあ勝手にやらせてもらうけど、問題ないよね」  押しつけてくるだけならまだ無視できたが、ファスナを下ろして直で触ってきた。 「動じないでね。そうゆう鍛練してるんでしょ?」妃潟が口を開けて深く咥える。  唾液の絡まる音がうるさい。  屋島に見られるわけにいかないが、いっそ気づいて止めに来てくれればいいのに。 「そろそろ?」妃潟が舌を出しながら云う。 「溜まってんじゃなくて、俺に嫌がらせしたいだけだろ。いい加減やめろ」額を押しのけた。「痛って」  離し際に先端を噛まれた。  唾液の糸が伸びて切れる。 「へえ、いいの? むしろこんな中途半端で」妃潟が勿体つけて口の周りを舐めた。「どうせ自分で抜くんなら、僕がやったって同じだと思うけど」  言葉じゃ埒が明かないので、振り切って部屋から出た。  すぐ後ろに気配。  飛びのいて距離を取る。  襖を背に、白く長い髪の男がいた。 「どーもー?」男はべろりと赤い舌を出して嗤う。 「誰だ」 「はじめましてで悪ィんだけど、ゲッスーなら罠にはまって逆さ吊りしちゃってっよ?」  師匠はいつも岩場を突っ切って塀を乗り越えてくる。  そのルートを知っててかつ、師匠を手玉に取れる実力。  背筋がぞくりと冷えた。 「誰だって聞いてる」  部屋から出たばっかの俺の後ろにいた?  なんで?  どこから来た? 「ゲッスー如きの弟子だかの身分で俺と戦ろうって? 命の無駄遣いっつーんだよ」  速い。  狭い廊下を効果的に使って、俺を床に貼り付けた。  何をされたか気づく前に。  あの世に逝ってる。 「はいはーい、抵抗おしまいちゃん。キサっちの生き映しくんにちょいっと用があってさ。ちゃんと返すから。ああ、ニンゲンの形してっかどうか保障できねーけど?」  動かそうとした筋肉を先読みして止められる。  足、手、肩。  俺の部屋だ。  俺の部屋にいたのは。 「妃潟! 逃げろ、能登!!」 「だいじょーだいじょー。いまごろ車ン中でおねんねだっての」上から声が降ってくる。  白い髪が光で反射する。 「なんもしなきゃなんもしねーからよ。大人しくしといたほうが身の為よ?」  果たして云う通りにして約束を守ってもらえるタイプだろうか。  妃潟を攫った?  俺が部屋から出てすぐ。  て、ことは、一人になるのを張ってたてことか。  悲鳴も物音もなかった。  どっちも出ない方法で、窓から入ってきたってことか。 「あー、ツネちゃん留守なんだっけ?」 「知ってて来たんだろうがよ」 「どーだかね。いたっていなくなって、生き映しくんにはご同行願ってたけどね。床に貼り付いてるニンゲンの数が増えるだけよっと」  やっと男が俺の上から退いた。 「妃潟、じゃない、能登をどこにやった?」ヨシツネさんがいないから能登と呼んでもいいだろう。  ヨシツネさんの前では、  あれは、  妃潟だ。 「そーゆー名前なわけね。ふんふ、ふん」白い髪の男がこっちを見る。  間合いが。  広すぎる。  男の意に反する動きを一ミリでもしてみろ。  次の瞬間、自分が息をしているか自信がない。 「俺の主人がやろうとしてっことがあってね。詳しくはヒミツだけど、ツネちゃん帰ってくるまで待ってていい?」 「ダメつっても居座んだろ。それにここは俺んちじゃねんだよ。ヨシツネさんに許可取ってくれ」  ヨシツネさんにかけた電話がつながらない。      3  朝イチで、支部に知らない女がやってきた。  ショートの黒髪。喪服みたいな上下。  少なくとも客の顔をしていない。  3月末は時期的に忙しいが、支部で管理してる物件はそこまで多くないので、いつもどおり俺と事務員だけで捌き切れる。 「ご指名よ」事務員の奥陸(オクリク)が目線を寄越した。 「支部長の岐蘇(キソ)です。どのような御用向きで?」 「弟のことで少しご相談がありますの」女が云う。「朝頼(トモヨリ)アズマは私の弟ですわ」  朝頼アズマの姉か。  確かに貫禄というか圧力が並みでない。 「こちらにどうぞ」応接室のドアを開ける。 「秘密のお話ですの」  またこの展開か。 「実は、ビル全体に穴が空いてまして」朝頼アズマの眼と耳があることを暗に伝えた。 「じゃあデートしていただける?」  奥陸が小声であら、と云った。  あらじゃない。 「申し訳ありませんが、今勤務時間中でして」 「家族行事よりお仕事を優先なさるのかしら? KRE(クレ)の福利厚生に一言ご助言したほうがよろしくて?」 「御用向きは本当に家族行事なんですか?」  客が来たので中断になった。  朝頼姉は根気強く壁際のソファで待っている。  客は鍵を取りに来ただけだったので、入れ違いで再度攻撃が開始された。 「手が空きましたでしょう?」朝頼姉がカウンタ越しに身を乗り出す。「義姉の私の相談には乗っていただけない?」 「そうは云っていません。現在業務中でして」  頼むから面倒事を持ってこないでくれ。  朝頼姉が支部に突撃したことはすでに朝頼アズマの耳に入っている。  桓武建設御曹司のときの二の舞だ。24時間俺を監視中の朝頼アズマが口を挟んでくるに決まっている。  それが一番厭なんだ。 「ご心配なく。アズマさんならお客様の応対で忙しいの。来やしませんわ」  いや、来なくたって録画でこの状況をあとで知るだろう。  それが嫌なんだって。 「ですから、デートしましょうとお伝えしてますわ」  なんだそういうことか。  逆立ちしてもデートなんか誘わなさそうな女がデートとか云ったから吃驚した。  ケータイは例の件があってから機種変したので、俺自体に耳が仕掛けられている可能性はもうない。 「あの、奥陸さん」 「なによ、キモチワルイわね。行ってきなさいよ」奥陸が手で追い払う。「支部長ご指名のアポがないんならいいんじゃないの? つまるところ、本社の呼び出しみたいなもんでしょ」  朝頼姉にKREをどうこうする権利はない。  でも、行かないともっと面倒になりそうな予感がひしひしと。 「すまない、ちょっと外す」 「最初からそのご返答が聞きたかったですわ」朝頼姉が満足そうに頷く。  しかし、行き先が。  朝頼姉の自宅とはこれ如何に。 「そちらにかけて下さいな」ソファに案内される。「緑茶と紅茶、どちらがよろしいかしら」 「いえ、特にお構いなく」早めに切り上げたい。  部屋の至る所にある、見たことのない種類の観葉植物が気になる。  小、中、大、特大。 「アズマさんのことですけど」朝頼姉が対面に座った。  結局紅茶にしたようだった。テーブルに置かれる。 「何か、嫌がらせを受けていませんこと?」 「それを義姉さんにお伝えすることで、嫌がらせが改善されるのであればいくらでも」  朝頼姉が紅茶を口に含む。  ソーサに戻すまで待っていた。 「単刀直入に申しますわ」朝頼姉が云う。「アズマさんは、次期総裁に指名されていますの。いまはまだ、次期ですけれど、万一、総裁の身に何かあればすぐにでも、お鉢が回ってきますわ」 「総裁に死相でも出てるんですか」 「まあ、歯に衣着せない方ですのね」朝頼姉が上品に笑う。「さすがに死相はわかりませんけれど、もう一つ、総裁を合法的に引きずり下ろす方法がありますの。不信任決議ですわ」 「はあ、義兄さんは近々総裁になるわけですか。地獄ですね」 「地獄は同感ですわ。ですけれど、それを防ぐ方法が一つだけありますのよ。協力していただきたいの」朝頼姉が両手を広げる。「不信任決議は、反対票が10票以上あれば無効になりますわ」 「俺にも権利があるんですか?」白竜胆会(しろりんどうかい)の信者でもないのに。 「あなたは私の弟ですのよ。総裁の息子でしょう?」  それはそうだが。 「もし俺が義兄さんの立場だったら絶対文句云いますよ? 部外者のくせにって」 「よかった。まだアズマさんから聞いていませんのね」朝頼姉は構わず話し続ける。「総裁の子である私たちは他の信者の方と違い、一人5票持ってますの。義弟のあなたが私に味方していただけたら、何ら問題ありませんわ」 「血縁ボーナスがあるなら、俺じゃなくて」  朝頼アズマは4人きょうだいだ。  他のきょうだいに云ったほうが確実だろうに。 「マズルさんは、アズマさんに殺されたも同然ですの。サズカさんも私には懐かず、アズマさんの云うことばかり聞く。おわかりかしら」  よくわかった。  朝頼姉に味方がいないことが。 「義姉さんに協力者が必要なことはわかりました。しかしですね、義姉さんに協力する利点が今のところ俺には見当たらない」  それにまず前提として、朝頼アズマに逆らうとあとが面倒くさい。  朝頼姉がもう一口紅茶をすすった。「どうぞ?」 「なんか入ってるでしょう。義兄さんの姉なら、充分やりそうな感じなんですけど」  カップが落ちた。  のを眼で追った。  隙に、義姉が倒れかかって来た。  お陰でよけるタイミングを見失った。 「何のつもりですか?」手の遣る場所に気をつける。「ご気分でも?」 「あなたの5票をどうしてもいただきたいの。そのためならどんな手でも使いますわ」  どんな手とかいうとんでもない手で。  なんつーとこをまさぐってるんだ。 「申し訳ないですが、愚策ですよ。俺のことをあまりご存じないようですからお伝えしますけど」 「ええ、知ってますわ。でもそんなことどうだっていいことですのよ」肩に腕が回される。「私が女で、あなたが男ならそれで」  ちょっと待て。  なんだこの見たことしかない展開は。義兄も大概ならその姉も大概すぎる。  引き剥がすにしてもなんでこんなにべっとり貼りついてくるんだ。とりもちかこの女は。  もがいてソファから落ちる。後頭部は守ったが朝頼姉が全体重に重力を味方につけやがった。  やばい。  これなら朝頼アズマのほうが一億倍もマシだ。じっと耐えてれば終わる。  でもこっちはじっと耐えてるわけにいかない。  何を犠牲にしても最後までやるわけにいかない。  突き飛ばして床を転がる。観葉植物の鉢に頭をぶつけた。  痛いが。めっちゃ痛いがそんな場合じゃない。  逃げないと。 「あなたもアズマさんの味方をしますのね」朝頼姉が云う。前髪の間から黒い眼が見えた。 「味方も何も、ご存じの通り、俺は義兄さんから脅迫を受けているわけでして」 「どうして、誰も私の味方をしてくれないの?」朝頼姉が床に座って泣き始めた。  脅しは脅しでも、泣き脅しか。  このきょうだいは揃いも揃って、俺に嫌がらせすることしか考えていない。 「あの、帰らせていただきますね」早足で玄関に向かう。  電話が震えた。  こんなときに誰だ。  表示を見て端末を落としそうになった。 「生きてはる? ほんならね」ツネからだったがたったそれだけ云って。  切れた。  かけ直しても、電源が切れてる云々でつながらない。  何があった?  生存確認にしては一瞬すぎる。こっちは一言も喋ってない。  電話がつながるかどうかだけ確かめたかったのか?  俺の電話がつながらなくなるような状況を、ツネが予測したということなのか?  意味がわからない。  何が起こっている?  支部に戻ったら、奥陸が客の応対をしていた。  好奇の眼線を寄越されたが無視。  何もなかったんだ。堂々としていよう。  メールのチェックをしていたら、また客が来た。今日は客足が多い。 「いらっしゃいませ」 「どうも、支部長さん」  誰かに似てる。誰だろう。  背が低くて、童顔で。 「兄がお世話になってます」 「ああ、ええと? すいませんけど」誰だ。 「屋島の双子の弟です。会うのは初めてでしたっけ?」  そうか。やっとわかった。  屋島と同じ顔だ。  弟は兄と違ってちゃんと喋るから記憶が結びつかなかった。 「どうされました? KREにご用ですか」 「もし勘違いだったら申し訳ないんですが、兄がどこに行ったかご存じないかと思って」  鎌掛けか。それとも確信か。 「年末に京都に行くと云ってそれっきり、連絡が取れなくて」 「そうなんですか」 「京都ってことは、ヨシツネさんのところでしょうか」  弟はわかってて聞いているのだろうか。そこが読み切れない。  さすがは無表情の屋島の双子の弟だけある。  まったく表情が変わらない。 「年末ってことは、もう3ヶ月経ちますね」俺に関係なさそうな事実だけ話そう。  奥陸が応対していた客が帰った。 「ノリウキと連絡が取れないとか云ってたようにも思うんですが」屋島弟が云う。 「どうしてこちらに?」  白を切り続けるのはできなくないが、屋島弟の狙いを先に知りたい。 「僕がぐーだったら、支部長さんのところに断りに来るかな、て思ったので」  奥陸が椅子を勧めたが、屋島弟は長居しないので、と首を振った。 「何か知りませんか?」 「お兄さんから連絡は?」 「意外かもしれませんけど、僕とぐーはそこまで頻繁に連絡を取り合う関係じゃないんですよ。いまは大学が別なので一緒には住んでいませんし。そのぐーが、わざわざ京都に行くって連絡をくれてから、その後3ヶ月一切沈黙してるのが妙で。ノリウキの兄貴からも連絡もらってて。本当に何も知りませんか?」  奥陸がお茶を淹れてくれた。客にだけ。 「支部長さん」  まずいな。  本当のことを教えてやってもいいが、支部には朝頼の眼と耳がある。ツネに関係する情報をむざむざ渡したくはない。  あ、ひらめいた。 「ちょっと待っててもらえるか」  カウンタの上を狙うカメラはないので、筆談にすればいい。  屋島は能登と一緒にいるが、どこにいるのかは云えない。小さめの字で書いて屋島弟に渡した。  屋島弟の顔色が変わる。 「悪いが、ここに書いてくれるか」  兄とノリウキは無事ですか?と、屋島弟が書いた。文字に動揺が見られた。  無事だとは思うが、俺も正月明けにこっちに戻ってきたから、それ以降は知らない。と書いた。  屋島弟と顔を見合わせる。  実は僕はそんなに心配してなかったんですけど、ノリウキの兄貴が病的に心配性で。警察が役に立たないからだいぶストレス溜めてるんですよ。僕にも圧力かかってたわけで。と、屋島弟が書いた。  なるほど。  あなたが帰ったら次は、能登兄が来ますか?と書いた。  可能性はあります。何も知らないみたいだとは報告しておきますけど、どうでしょうね。と屋島弟が書いて苦笑いした。  屋島弟は筆談した紙を置いてとっとと帰ってしまった。  能登兄は来なかったが、昼休みの時間を見計らって、朝頼アズマから電話が来た。昼休みなんだから自室に戻ったっていいだろう。 「姉さんが迷惑かけたね」朝頼は明らかに笑いを堪えていた。「相手にしなくて正解。不信任決議も気にしなくていいよ。百パこっちの事情だし。ところで」  朝頼の「ところで」ほど、嫌な予感しかない言葉もない。 「身構えなくても大した話じゃないよ。藤都巽恒をこっちに呼んだ」  ほら、云わんこっちゃない。  嫉妬というより、ちゃんと家に返すかどうかが心配だが。 「さっき謎の電話行ったんじゃない?」朝頼が云う。「自分の置かれた立場とかそっちのけで、他人の心配するのとかって、ほんと」 「ツネは無事なんですか」 「どうだろ。あ、お前の態度とか全然影響ないから心配しなくていいよ」  壁のカメラを睨みつける。 「俺に教えたのは、俺がこうゆう顔になるのを期待してですか」 「それもあるけど、ちょっと面白そうなことになりそうだから、報せといてあげてもいいかな、て思っただけ。義兄さんの気まぐれな優しさって感じかな」 「次にその気まぐれな優しさをいただけるのは、百年後ですか」 「え、僕そんなに優しくない? すげー心外」  カメラに背を向ける。 「義兄さんいま、家ですか」 「来たって無駄だよ。この件はお前関係ないんだから。大人しく真面目に支部長やってなよ」  食い下がっても、無理矢理押し掛けても、むしろ逆効果だろう。  何が起ころうとしている。  何を起こそうとしている。  これ以上、ツネを痛めつけないでほしいのが本音だが。  敢えて口にしないほうが、ツネの生存確率が上がるような気がするのはこれ如何に。  朝頼は俺が嫌がることを率先して選択してくるわけだから、無関心を装うのは一つの手。  でも、その感情の抑圧ごと見抜かれているだろうからあまり意味がないのかもしれない。 「御曹司は知ってますか」 「なんでたいらに云わないといけないわけ?」朝頼が莫迦にしたように吐き捨てる。「ああ、巽恒を僕が構ってるから、あいつの嫌がる顔が見れるね。そうゆうこと?」  御曹司はこの件は無関係か。朝頼の独断ならいつも通りで逆に安心する。  音は、朝頼の声のみ。静かな環境で電話をかけているということか。本当に朝頼の自室なのか。  近くにツネがいるのか。  朝頼の側にツネを殺すメリットはない。  壊すメリットならあるかもしれないが。 「昼休み終わるよ。じゃあね」朝頼からの突然の電話は唐突に切れた。

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