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第5章後半

     4  黒の学ラン姿を見慣れていたせいか、似合いすぎる和装が逆に浮いて見える始末。  藤都巽恒(フジミヤよしつね)を出張させて、白竜胆会本部の地下に連れて来た。  地下は総裁の縁者以外立ち入り禁止で、総裁の執務室と、マチハ様の私室と、預言者の部屋と、僕ら4人きょうだいの宿泊用個室がある。  自宅だと邪魔が入るかもしれないし、壁だってそこまで分厚くない。僕は本当は自宅に他人を入れたくない。たいらは僕の身体の延長みたいなもんだから気にならないけど。  ニンゲンはひどく気持ちが悪い。  絡みつく生への力動が果てしない吐き気を催す。  義弟への嫌がらせの電話を切って部屋に戻る。巽恒はケータイを持って室内をうろうろしていた。 「なあ、電波どないなったはるの?」 「ここ地下なんで、むらがあるんですよ」僕はベッドに腰掛ける。「そんなに義弟が心配ですか」  危機を察知した巽恒が僕の眼を盗んでこっそり連絡を取ったのが、まさかの義弟。  てっきり。 「妃潟(キサガタ)さん?でしたっけ? そちらのほうが最優先かと」 「そっちは護衛つけとるさかいにな」巽恒が諦めたようにケータイを懐に仕舞う。「おま、なにが狙いなん?」 「僕と一緒に世界を滅ぼしませんか?」 「は?」巽恒が莫迦にしたように嗤う。  そして時間差で、何かを悟ったように息を吐いた。 「おわかりいただけたみたいで嬉しいです」巽恒との距離を詰める。「僕は近日中にここを手に入れます。手に入れることが目的じゃありません。手に入れるということは、ここを、白竜胆会をどうこうする権利の一切合財が手に入るってことです。あなたが自由になるためのお金だって、引き続き用意できます」 「俺にちょっかいかけはるんは、社長さんへの嫌がらせと違うん?」 「それもありますけど、それだけじゃなさそうなんですよ、どうやら。他人事みたいですけど、僕は僕を客観的に見てるんであえてそう云いますけど、たぶん、僕はあなたを、僕と同じ地獄に引きずり落としたいらしいんです」  地獄なぁ、と巽恒が口の中で云ったのを見送った。 「あなたにまつわる諸々を、たいらに出力させました」僕はタブレットをいじくるふりをする。「あなたの実家はいわゆる裏社会を牛耳ってる組織ですね。年端もいかない少年を攫ってきて、使い物にならなくなるまで身体で稼がせる。稼いだ金をどうするか。組織の長は、つまりあなたの母親ですけど、人体蒐集のご趣味があられる。気に入った男との間に子をもうけたあと、中身をくり抜いて人体模型を造る。マネキンの展示室があるらしいじゃないですか。あなたの父親についても知ってますよ」  巽恒の表情をつぶさに観察していたが、聞いているのかいないのか、どうでもよさそうな顔を崩さず、中空を見つめていた。 「育ての親は、攫ってきた少年をそれこそ使い物にするためにメインテナンスのようなことをしていた上層幹部ですね。遺伝子上のほうは」 「結論ゆうてくれへん?」巽恒がこっちを見た。 「あ、まだるっこしかったですか? すみません。僕の悪い癖ですね」タブレットを膝の上で伏せた。「おかしいんですよ。あなたの置かれた境遇とか、過去に体験したことを総合すると、気が触れるか感情が死ぬか、いずれにせよまともな社会でまともな生活を送れるわけがないと思うんですが」 「そんなん個人差やろ」 「そうですね。その通りです。あなたの感情は生きてるし、圧倒的に正気です。だから僕は考えた。というか推論ですね。なぜ、あなたは、あなただけはおかしくならなかったか。跡継ぎになることが決まっていたから手心が加えられていた? 違います。あなたが客の元から帰ってくる拠点に、あなたの心の支えがあったんですよ。それが」 「そんなんとっくに死なはったわ。知ってはるやろ?」巽恒は食い気味で云った。 「ええ、ですからあなたは彼、妃潟氏に生き映しな能登教憂(ノトのりうき)に眼をつけた。彼を、能登教憂をこちら側に引きずり込もうと。洗脳したんですよ、言葉巧みに、優しさにつけ込んで。あなたは能登教憂を殺した。妃潟氏、本名、乃楽祝(ナラしゅう)氏を蘇らせるために」  巽恒が僕を睨んだ。  僕は笑顔を返した。 「一応、罪悪感みたいなものはあるんですよね? だからこそ、あなたは眠れなくなった。あ、もう改善されてるんでしたっけ? 随分と顔色もよくなってますしね。義弟が役に立ったようで、義兄の僕も鼻が高いです」  巽恒は何か云いたそうにしているが、云ったところで相手が僕だから、云わない選択肢が最善だとわかったようで口を噤んでいる。 「準備ができたらしいです」僕はタブレットを巽恒に渡した。「こちらをご覧ください」 「何が始まるん?」 「さあ」 「さあ、て。とぼけたとこで、おまがやらはったんと」  実は本当に知らない。  だからこそ、推論が活きる。 「ここに誰が映ったら、あなたは取り乱しますか?」  巽恒の表情が冷えた。タブレットを握りしめて映像を見守る。  横からのぞき込めなくなったので、ベッドサイドのモニタにも出力する。  天井からの定点。牢のような格子と、人間の頭。  解像度はそこそこ。人物特定はそう難しくない。 「キサ!?」巽恒が叫んだ。 「能登教憂でしょう」 「おまが」 「ですから、僕は出力に協力しただけで」  画面の向こうから声がして、巽恒から更に表情が剥離する。  いまから起こり得る最悪の状況を想像したに違いない。 「ここ、どこなん? なんでキサが」巽恒が僕の肩に掴みかかる。「おまがやったんやろ? 俺はどないなってもええさかいに、キサを、キサを解放したって」 「何度も云いますが、僕はこの件に無関係なんですよ」 「嘘ゆわんといて。おまに決まっとるやろ? おまが」  格子を掴んで揺らす。必死に助けを求めている。  能登教憂ではないのか。  僕が知ってる能登教憂の声ではない。喋り方も、一人称ですら違う。 「僕じゃない唯一絶対の理由をお教えしますよ。もし僕だったら、彼をここに連れてきます。あなたの眼の前で、彼に危害を加えます。誰かに任せるんじゃなくて、僕が自らやります。あなたが泣いて懇願する顔、ああ、そんな顔があるんならですけど、それを直接眺めたいので」 「まあ、せやな。おまがやるにしてはえらく間接的やな」巽恒は、僕を責めても事態が好転しないことをようやく理解したらしかった。  タブレットの音量を限界まで上げた。室内の微かな音を拾って場所を特定しようとしている。  妃潟氏の悲痛な声が耳をつんざいた。  画面上方のドアが明け放たれて、鎖に繋がれた獣が全速力で牢の格子に突進した。  獣?  犬にしては大きいし、毛がまばらに生えている。いや、毛が生えた部分を移植したのか。  元は何の生き物だ?  僕が知っている限り、そんな動物は存在しない。  獣が格子に体当たりするたび、空間が鳴動する。  立ち向かう術はない。逃げ道ももちろんない。  妃潟氏は格子から離れて壁に張り付いてじっとしている。諦めて立ち去るのを待つしかない。 「キサ!」巽恒も、音声が双方向じゃないのをわかっているが、叫ばざるを得ない。  画面上方のドアがゆっくり開いて、男が現れた。  男?  体格からそう判断したが、ニンゲンと云うのはそんな奇妙な形をしていただろうか。衣類の一切を纏っていないのに、肌の色がニンゲンのそれとは違う。体毛というよりは、ぬらぬらと鱗のように湿っていた。  妃潟氏が男に助けを求める。当然だ。獣よりも人語が通じそうだから。  聞こえているのかいないのか、男はそれに応えずドア脇のスイッチを押した。  低く唸るような音がして、格子が床から浮く。その隙間に獣が体を捻じ込ませ、妃潟氏に襲いかかった。  妃潟氏の悲鳴が、大音量で断続的に響く。  快楽殺人鬼なら堪らない光景と音声だろうが、生憎と僕も巽恒もそうじゃない。  あまりにひどいのでモニタの音声は絞ったが、タブレットは巽恒の手にあるのでそのまま。 「やめ、やめたって。なあ、なんでこないな」巽恒が画面に映った映像を否定するがごとく首を振る。  僕は、モニタの電源をオフにした。  獣に喰い荒される妃潟氏を見ているより、半狂乱の巽恒を見ている方が興味深かった。  ああ、あなたも。  そう云うニンゲンらしい顔をするのか。  悲鳴が聞こえなくなってきた。悲鳴を上げる器官を喰い千切られたのかもしれない。  巽恒は、すでに嗚咽を通り越して絶望で呆然としている。  ちら、とタブレットをのぞく。  床に黒い染みが拡がって、獣が妃潟氏だったものに覆いかぶさっている。  食べているんだったらまだ良かったが、これは。  挿入して腰を打ちつけていないだろうか。  妃潟氏は動いていない。うつ伏せなので判然としないが、首周りが真っ黒だった。後頭部にもべっとりと黒が塗りたくられている。右腕から先がなく、床に真っ黒の池ができていた。  突如、獣から黒が飛び散って動きが止まった。  地鳴りみたいな音がした。格子を開けた男が獣の頭を撃ち抜いたのだ。  男が獣を片手でひょいと掴んで妃潟氏だったものから剥ぎ取る。  眼を逸らしたくなる惨状がそこにあった。  シャツもズボンも喰い千切られ、ほとんど裸体なのに、肌の色が拝めない。黒と赤を極限まで煮詰めてまき散らしたグロテスクな色彩だった。内臓も飛び出ている。  時間差で、脚の間から垂れ流れて来た大量の粘液の色を見て胸糞が悪くなった。  やっぱりそうだったか。  獣を放り投げた男は、妃潟氏だったものの傍らに屈みこんで、勢いよく食らいついた。  今度は食べている。  この短時間で遠隔的に見せられたものを羅列すると、獣姦と屍姦と人肉喰い。最悪だろう。  妃潟氏と初対面の僕でも、あんまりだと思うんだから、巽恒にしてみれば。  これが、地獄か?  僕が想定していた方向とは幾分が違う。いや、大幅に違う。  巽恒が、ベッドを踏み抜かん勢いで脚を振り下ろした。タブレットを手放さないのは妃潟氏につながる唯一の手がかりだから。僕に八つ当たりしないのは、僕に八つ当たりしたところで何の意味もないことを、どこか冷静な部分で理解しているから。  僕だって異を唱えたい。完全にとばっちりの巻き込まれだ。  妹が部屋に入ってきた。もちろん、画面の向こうの出来事じゃない。 「ノックくらいしてくださいよ。取り込み中だったらどうするんですか」  僕の声で侵入者に気づいたのか、巽恒が殺意に満ちて血走った眼で、妹を射抜いた。  その顔が見れただけで、出力を手伝った甲斐があったというもの。 「ああ、妹ですよ」僕は巽恒に解説をする。「似てないでしょう? 遺伝子的に何のつながりもないもので」  巽恒は妹の一挙一動を睨みつけている。  妹は緋のワンピースを着ていた。俯いたままドアを背に動こうとしない。 「何の用ですか?」妹が何も云わないので僕が尋ねるしかない。 「観賞会は終わりまして?」  風が通過する。  巽恒が妹に掴みかかった。「お前がやらはったん?」 「ええ」妹は一も二もなく肯いた。 「なんで」 「云っていたでしょう? 地獄に落としたいのだと」 「せやったら俺に、俺に直接。なんで、なんでキサを巻き込んで」 「あれは妃潟ではありませんでしょう? それに、能登教憂さんを巻き込んだのは、他ならぬお兄様ではなくて?」妹がにっこりと微笑む。  巽恒の手が、妹の肩から離れる。  巽恒の視線が、僕に向けられる。 「誰が、僕の妹だって云いました?」僕もにっこり微笑み返す。「あなたの妹ですよ。会うのは初めてですか?」  巽恒が妹から距離を取る。  相変わらず危機察知能力に長けている。 「はじめまして、お兄様」妹がワンピースの裾を持ってお辞儀する。「わたくし、斎市朱咲(モノマチすざき)と申します。故あって、お兄様を地獄に落とすために遠路遙々参りましたの」 「お前が妹かどうかなん、いまはどないでもええわ」巽恒の眼が据わっている。「お前をぶっ殺してもキサは戻って来ぃひん。せやけど、お前をぶっ殺さんと気がすまへん」 「まあ、嬉しい。わたくしを殺していただけますの?」  妹の笑った顔は、確かに巽恒との強い血縁を思わせる。  支配者の顔をしていた。         家楼シリーズ 最終章 序章         『天のあなたの美つくしき』   登場人物一覧 桓武廟晏(カンム・びょうあん)桓武建設養子 桓武衡宜(カンム・たいらぎ)桓武建設御曹司、廟晏の義理の兄 麿坂勇和(マロサカ・いさわ)廟晏と同学部、衡宜の母違いの兄 讃良智崗(ササラ・ちおか)衡宜の幼馴染で婚約者、市長の娘 朝頼東春(トモヨリ・あずま)白竜胆会次期総裁 朝頼翡瑞(トモヨリ・ひずい)東春の姉 朝頼舞弦(トモヨリ・まずる)東春の兄 朝頼砂霞(トモヨリ・さずか)東春の妹 岐蘇実敦(キソ・さねあつ)KRE次期社長、現支部長、東春の義理の弟 奥陸秀良(オクリク・ひでら)KRE支部事務 左館七祖(ヒタチ・ななそ)美大生、ギャラリィ受付バイト 能登教憂(ノト・のりうき)工学部学生 屋島嗣信(ヤシマ・つぐのぶ)文学部学生、能登の親友 屋島唯信(ヤシマ・ただのぶ)音大生、嗣信の双子の弟 藤都巽恒(フジミヤ・よしつね)京洛(けいらく)の檀那 群慧武嶽(グンケイ・むえたけ)護衛 妃潟閑祝(キサガタ・ならしふ)家事手伝い 奥檀那禎楽(オクダンナ・さだらく)巽恒の育ての親 菅(スゲ)群慧の師匠       *****  僕は、タブレットをのぞき見る。  二足歩行の鱗男はいなくなっていた。  残っていたのは、食い散らかされた肉片と骨と血だまり。これがもともとニンゲンの形をしていたとは、到底思えない。  なにか。  引っかかる。 「巽恒さん、ちょっと」 「あ? お前も同罪やさかいにな。自称妹ぶっ殺したら、次は」  巽恒の殺意が異様に心地よかったが、いまは優先順位が低い。 「言い訳するようで恐縮ですが、僕は本当に今回のことに関して、あなたをここに連れて来たことと、映像の出力を手伝ったことくらいしかやってないんですよ。要は、その方と協力関係にありましたが、魂までは売り渡していません。その僕から見てちょっと気になったことがありまして」 「なんや? 下らんことやったら、お前を先にしたるわ」  良かった。僕の話を聞くくらいの正気は残っているらしい。 「ここに映っていたのは、本当に妃潟氏だったんでしょうか」 「意味がわからへんけど」と云いつつも、巽恒は妹を睨みつける。「お前がキサを攫って」 「頑丈な護衛を付けていたんでしょう?」黒くてデカイ忠犬のことだ。僕が云う。「彼が太刀打ちできない場合にだけ、妃潟氏の誘拐が可能になる。裏を返せば、彼が太刀打ちできない相手って、一体どこの組織のプロフェッショナルでしょうね」 「せやから、この自称妹の手足がやったに決まっとるやろ? ほんなら確実に」  妹が、黒だと。 「あの映像を、ライブにする意味が、僕にはわからないんですよ」タブレットを拾い上げる。「ライブにする意味ってやっぱり、音声を双方向にして、あなたの未来の行動を制限する足枷にすることだと思うんです。ですが、さっきの映像は双方向どころか、天井からのしょぼい定点映像。切羽詰まった身内を誤魔化すには事足りたかもしれませんけど、大した面識のない赤の他人に近い僕には、あれを、替え玉にしてかつ、録画映像だとしたほうが、よっぽど筋が通っている。回りくどくなりましたけど一言で看破するなら、妃潟氏はもう死んでる。死んでる人間は、二度殺せない」 「先刻、わたくしの部下が能登教憂さんを攫いましたわ」妹が云う。「お電話で確かめてみてはいかが?」 「おまは俺の味方か、地獄に落としたいんかどっちや?」巽恒が眉を寄せて僕を睨む。「意味わからんこと叩きつけよったお陰で、ちょお落ち着いてきたわ。せやな、能登くんは俺の前でだけキサにならはるさかいに。俺がおらへんのにキサになっとるんはおかしいな。なんや、嗤えてきたわ。せやな、あれは、キサでも能登君でもあらへん。せやろ?自称妹」  妹がふ、と口を緩ませて、ケータイを耳に当てる。「ええ、こちらは完了しましたわ。そちらはどうかしら? お兄様のお屋敷は制圧できましたかしら。抵抗されるようなら、ええ、お任せ致しますわ。お兄様? 元気ですわよ。今のところは、ですけれど。ええ、お話? 伝言ではいけないの? 仕方がないですわね。はい、お兄様」 「誰や?」巽恒が訝しがりながらもケータイを受け取る。「ああ。なんやて? は? ちょ、どうゆう」 「わたくしが用があったのは、能登教憂さんだけでしたのに。どういうわけか、お友だちが付いてきてしまったようですわね」  能登教憂の友人。  僕が真っ先に思い当たったのは、屋島嗣信(ヤシマつぐのぶ)だが。 「くそ、切れとる」巽恒がケータイを妹に放り投げて、自分のケータイをいじる。「なんで俺のはつながらへんのか、お前にはわかっとるんかな?」 「ですからむらがあるんですよ、ここ、地下なので」  屋島嗣信は去年の年末から家に戻っていない。義弟と一緒に巽恒の屋敷に乗り込んだ。能登教憂を取り返すために。  まさかとは思っていたが、能登教憂を連れ戻すため、ずっと巽恒の屋敷に居座っていたのか。  そこまでして取り戻したいか。  そこまでしても取り戻せていないじゃないか。 「お前のケータイ貸しや」 「番号覚えてるんですか?」身体検査をされても不快なだけなのでさっさと渡した。 「なんでかからへんの? おま、ええ加減に」 「能登教憂他一名がわたくしの手の内にあるのは変わりませんわ」妹が云う。「お望みでしたら、お兄様の可愛がっている番犬も、わたくしの管理する檻に入れてもよろしくてよ」 「俺に用があらはるんなら、俺に直接ゆったらどうなん?」巽恒が言葉尻に怒りを滲ませる。 「直接ゆったらお断りになるでしょう? わたくしは思い通りにならないと不快ですの」 「俺がゆうこと聞いたら、俺以外に手ェ出さへんて約束」 「したところで、わたくしが裏切ってしまえば、お兄様が損をするだけですわ」妹がベッドに上品に腰掛ける。  僕の宿泊用の部屋は、最低限の家具しかない。  ベッドとテーブルと照明。安ビジネスホテルのほうが洒落ている。 「こちらにいらしてくださいな?お兄様」妹が云う。 「あ?何するつもりや?」巽恒は近づくどころか半歩後ずさった。 「近くでお顔を見せて頂きたいの。安心して下さいな。お兄様が警戒するような淫猥な振る舞いは決して」 「信用でけへんのやけど」 「では、どうしてわたくしがお兄様のお顔を見たいのか。それをご説明いたしますわ」妹が僕を見る。「ちょっと席を外していただけます?」 「構いませんよ。用が済みましたらお声掛けを」僕はさっさと部屋を出た。  その足で隣の部屋に入る。  兄の部屋。  兄は、二度とここには来ないだろう。だから僕が鍵を預かっている。  ソファに腰掛けて、タブレットにイヤフォンをつなぐ。  白竜胆会本部で、次期総裁内定の僕に隠れて秘事を成すことはできない。  すべての部屋と通路に、僕の眼と耳がある。 「ああ、素晴らしいですわ。やはりよく似ていますのね」妹は手を伸ばし、ベッドサイドに立った巽恒の頬に触れる。 「お前、何もんなん?」  カメラは天井定点だけじゃない。  四方の壁に埋め込んである。 「お兄様とわたくしのお父様が、どこにおられるかご存じ?」妹が云う。 「地獄やろ? それか、マネキンにされて」 「食べましたわ」 「は?」「は?」  巽恒の声とハモった。 「食べましたわ」妹は先ほどとまったく同じトーンで云って微笑んだ。「この世に置いていった肉も、いずれわたくしの手に取り戻しますわ。あの方はわたくしのもの。誰にも、お母様にも渡しはしませんのよ」  あの巽恒が嫌悪で絶句している。  すごい。  手を貸して恩を売っておいてよかった。  あれだけ身体を汚濁に曝しながら一度も穢れなかった巽恒の心を壊せるとしたら、実の妹を置いて他にいない。  僕はそれを最高の席で観賞できる。  兄のにおいのしないベッドに倒れ込む。  必死で笑いを堪えた。ここは存外壁が薄い。 「お前は」巽恒の声で、再度耳に集中を傾けた。「俺をどないしたいんやろか」 「あら?おわかりにならなくて?」妹は両手で巽恒の頬を挟む。「お兄様もいずれはお母様に連れ戻されて永遠にされてしまいますの。そんなこと、わたくしがさせませんわ。ですから」 「俺も喰らわはるんか」 「いいえ」妹が勿体つけて首を振る。「お兄様には、あの方を取り戻すまでの間、わたくしのぽっかり空いた心を埋めて頂きたく」  急にドアが開いた。さすがの僕でも吃驚した。  僕の、妹だった。 「なんです? いま取り込み中で」僕はイヤフォンを片側だけ外してタブレットを伏せた。  緋袴じゃないから、サズカだろう。  機嫌の悪そうな、冷めた眼は、サズカ。 「ケンダって結婚してんの?」声もサズカだった。 「ご本人に聞いては? それと、僕いま取り込み中なので出て行って頂けますと」  ケンダというのは、総裁補佐の男のこと。  白竜胆会の表向きの事務以外の総てを取り仕切る。要は裏方の汚れ処理役。  すでに僕の奴隷同然だが。 「アズにいが構ってやらないから、あたしに手ェ出してくるとか最低なんだけど」 「それはそれは。あとで釘刺しときますよ」ひたすらにどうでもいい話題だ。「それと、三度目ですけど、僕は取り込み中なので」 「アズにいが女と一緒とか天地がひっくり返るんじゃない?」 「別に知り合いでもなんでもないんですよ。さ、用件は承りましたので、持ち場に戻ってください」妹の背を押してドアの外に放り出す。「姉さんが探しますよ?」 「ヒズイ様が様子を見てこいと仰られていたので参りました」サズカの声がワントーン低くなった。  預言者だ。  あしらうのに一番面倒くさい人格を、去り際にぶつけないでくれ。 「いちいち伝書鳩やめてください。それに呼ばれればすぐに行きます、と伝えてください。では」相手にするとドツボに填まるだけなので、無理矢理ドアを閉めた。 「死ねばいいのに」メイアの声がして足音が遠ざかった。  本当に姉の云いつけで来たかどうか怪しくなってきた。  メイアは僕を心底嫌っている。それこそ姉のそれを凌駕する。  巽恒の反応を聞きとりたくてイヤフォンを両方嵌めた。 「はあ?正気でゆうてはるん?」  タブレットの電源を切って、隣の部屋をノックする。 「用が済んでいませんわ」間髪入れずに、巽恒妹の声がした。「邪魔をなさらないでくださいます?」  鍵はかかっていない。  このドアを開けるか開けないかで、今後の巽恒妹の僕への信用度が変わるだろう。  どうするか。 「どうせご覧になっているのでしょう?」巽恒妹が見透かしたように云った。「映像と音声で事足らないと仰りたいのならそれは、わたくしに対する妨害ですわ。それでもよろしくて?」 「それは失礼しました。隣にいますので、何かあれば」去ったほうがよさそうだった。  イヤフォンを嵌めながら隣室に戻る。  巽恒にしなだれかかった巽恒妹が、自分の目的を告げていた。 「わたくしは、お兄様に、あの方の身代わりをしていただきたいの」    ―――――さふら、地獄が落ちてくる。    *****  床に薄く水が張られた細い通路を進む。  カメラの類がないわけないので、進もうが止まろうが引き返そうが、命の残りに差はない。  進行方向に仄かな明かりが見える。  それが気になって、つい足を進めてしまっているだけ。  天井の高い空間につながっていた。  神殿みたいな太い柱が両側に規則的に並ぶ。  タイヤが転がる音が近づく。 「迷い込んだネズミを獣が探していたけれど」車椅子に女が座っていた。「あなたのこと?」  僕は首を振った。  否定の意味ではなく、不明の意。 「そう。見張りの獣の五感が使い物になってないわね。放し飼いさせているだけみたいね」  どこかで水が滴る音がする。  車椅子の女は僕の真ん前で止まった。 「あなたの友だちならいまは無事よ。いまは、ね」 「どこ?」周囲が静かなのでなんとか頑張って声を出した。  いま出さなかったら一生後悔する。  この女は、教憂の居所を知っている。 「チューザが何か企んでるみたいで不快なの。わたしに協力してくれたら、お友だちを助けてあげなくもないわ」  チューザというのが、教憂を攫った張本人だろう。  僕は頷いた。  教憂を助けるためなら、生きてここから救い出すためなら、僕はなんだってやる。  その覚悟で車にこっそり忍び込んだんだから。 「いい友だちを持ったわね」車椅子が向きを変える。「付いてきて。わたしと一緒にいれば、獣は襲ってこないわ」  女は爪先まで覆う、丈の長いスカートを穿いていた。  僕にはわかった。  この人には、脚がない。  幽霊かもしれない。  そうか。もう僕。  死んだのか。     家楼シリーズ 次章 最終話     『己ト己 共ニ心亘ル』(おのれとおのれ ともにこころわたる)

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