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23、どんなに我慢しても 前編
毎日のように晴兄が家に帰ってきてくれたらいいのに。そうしたらこの無尽蔵に湧き出てくる独占欲も、きっとなくなるはずだ。
なのに晴兄は頑なに首を縦に振らない。
毎週泊まりに来るたびに、今週こそはと思いながら別れ際に聞くが、その度に「いつかはな」と返されて終わりだ。
晴兄だってずっと一緒にいたいって顔してるのに。いや、そうでもなさそうな時もあるかも…
本当のところ、晴兄の気持ちが分からない時がある。だからたまに、俺だけがこんなにも思って、舞い上がっているだけなんじゃないかと思ってしまう。
そのせいか分からないけれど、晴兄が別の生徒と話しているのを見ると、無性にイライラして、そのたびに晴兄を鎖で繋いで閉じ込めてやりたくなる。家から出られなければ、別の誰かと話す晴兄を見ることもないし、俺とずっと一緒にいられる。
そう心が重たい何かに支配される時がある。そのたびに晴兄が必ずそばにいてくれた。まるで俺の心を覗いて、苦しくなるたびに迎えに来てくれているかのように、晴兄は俺の前に現れるんだ。
小さくて白い、温かな手で、優しく俺を包み込んでくれて、癒してくれて。
そうやって、晴兄の人生を奪うような感情ダメだって思い出させてくれた。晴兄が笑顔でいられない生活なんて、俺にとっても辛いだけだ。その場の感情に流されて、良くない結果を招くのはもうごめんだと、冷静になれた。
そんな毎日を過ごしているうちに、あっという間に中間テストが終わり、学期末テストが終わり、気付けば終業式を迎えていた。
今日は午前中で学校も終わり、明日から夏休みということもあって、みんな「夏休みをどう過ごすか」の話に花を咲かせながら足早に帰っていく。
そんな浮き足立つ喧騒の中、晴兄と俺は、いつもの特別教室で話していた。
「中間テストは順位が下がったけど、学期末テストで持ち直せて、さらに上がって良かったな」
「これも晴兄先生のおかげです」
「それは良かったです」
俺と晴兄はお互いに深々とお辞儀をした。それから2人で顔を合わせて大笑いした。なんて事のない幸せなひと時だ。晴兄が、張り付いた笑顔ではない、心から笑える時間。
それを作れていることが、俺の自尊心を保たせてくれた。
「ふふ、2人でお辞儀しあって何やってんだ」
「晴兄って笑いのツボ浅いよね」
「悪かったな」
全然悪くない。むしろこの時間が俺は大好きだ。この時間も学校での晴兄も、全部俺が独り占めできたらどれだけいいか。
だけどそう簡単にはいかないのが学校だ。廊下からパタパタと複数の生徒が走ってくる音が聞こえた。
俺は無意識に晴兄を抱き寄せて、ぎゅっと強く抱きしめた。
晴兄もなんとなく誰がくるのか分かっていたのだろう、俺の背中に手を回して、晴兄も俺を強く抱きしめた。
「晴ちゃん先生が入ってった教室ってここじゃない?」
「でも特進の椎名くんも一緒にいたの見えたよ」
「えーまた2人でいんの?5月からずっとじゃん」
「ほんとズルい!私も先生とマンツーマンで勉強教えてもらいたーい」
「教師と生徒の禁断の恋が生まれちゃったりしてー」
廊下を走ってきたのは、赴任当初から晴兄を追いかけ回している女子たちだった。その彼女らの声が廊下からしっかりと聞こえてきた。
キャーキャーとあり得ない晴兄と彼女たちの妄想を繰り返しながら、鍵のかかった教室の前で、晴兄が出てくるのをずっと待っているようだった。
そんな彼女たちの行動に、俺の気持ちはどんどん黒く染まっていった。
「ここまで追いかけてきやがって…もう見るな…晴兄のこと考えるな…消えろ…消えろ…消えろ…」
「よ…すけ…少し…おち…つけ…くるし…」
俺は知らず知らずのうちに晴兄をキツく締めていた。苦しそうな晴兄の声が、廊下のうるさい声に紛れて、微かに聞こえてくる。
だけどもうこの手の力を緩めることはできなかった。3ヶ月、頑張って抑えたけれど、もう無理だった。
「晴兄も…なんでいつも触らせるの…あの子達が晴兄に触れるたびに、俺は触れたその手を折りたくなる…晴兄を、誰の目も届かないところにしまいたくなる…」
「ぁっ…ごめ…ん…なさい…」
違う、謝らせたいわけじゃないのに。
俺のこの沈んだ感情はいつの間にか矛先を晴兄に向けていた。密着した身体からは、晴兄が俺の腕の中で怯えていることが伝わってきた。俺が怖くて、晴兄の心は俺への恐怖で満ちているようだった。
「ようすけ…はな…して…」
「晴兄は俺のモノだろ…そう言え…言え!」
俺の張り上げた声に、教室の中も、廊下の彼女たちも、一瞬で静かになった。聞こえるのは晴兄と俺の心音、それから遠くで聞こえる蝉の鳴き声のみ。
その蝉の鳴き声がジワジワと暑苦しいのに、腕の中はひんやりとしていて、まるで真夏にプールに入っているかのような気持ち良さだった。
だがその沈黙も、彼女たちの声と足音によって一瞬で現実へと引き戻される。
「何今の…ヤバくない?」
「ここに先生なんていないよ」
「なんか怖いしもう行こ」
彼女たちは慌ててこの場から立ち去っていった。その声と慌てた音に幾分か俺の気持ちは晴れた。それと同時に身体にずっしりと重みを感じだ。
そして晴兄の今にも消えそうな声が少しずつ聞こえてきた。
「…の…モノ…ようすけの…モノ…だよ…おれは…ようすけの…モノ…」
一体いつから、その震えた声でこたえ続けてくれていたのだろうか。今もずっと、俺への恐怖の中「俺のモノ」だと言い続けている。
その声と晴兄の身体の冷たさが、俺を正気に戻した。まるで霧が晴れたように目の前が鮮明に見えてきて、キーンと耳鳴りがした。
その強い音に、俺は力を込めていた腕をゆっくりと緩めた。すると支えがなくなった晴兄はその場に崩れ落ちた。
『解放』というのだろうか。一瞬見えた晴兄の顔はホッとしたように見えた。
だけどそれは錯覚だったのかもしれないとすぐに思い知らされた。晴兄は離されてもなお、俺の足にしがみついて、ずっと「陽介のモノ」と呟き続けている。
その光景を見て俺はハッキリと自覚することになった。今の自分の状態がDefense をしていること、それによってGlare と呼ばれるDom が出す威圧感を俺自身が出しているということ。
「Good Boy …ありがとう、いっぱい言ってくれて…俺すごく安心した、晴兄は俺のモノだって、伝わったよ…だからもう大丈夫だよ」
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