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第1話
映画サークルでの飲み会を早めに抜けて居酒屋から出た瞬間、俺は気づいた。どうやら、いつもの視線が自分に向けられているらしい。
いつもの、といってもそれが始まったのは数日前のことだ。ふと顔を上げたら、見られている。最初こそ気のせいかと思った。だが同じ日に何度も視線を感じ、そのたびに黒一色の服を着た男がこちらを見つめているとなれば、勘違いでもないらしいと分かる。
ストーカーというやつになるのだろうか。だが俺に心当たりは全くない。生まれてこの方告白されたためしはないし、「好きだから」という理由はあり得ない。ならば彼が嫌がらせを目的に付け回しているのだとしても、そこまで俺を憎む相手などいただろうか。基本的に人と関わらず、大学~家間の往復をくり返して過ごしているというのに。
「おーい、どしたん篠山くん。心ここにあらず顔じゃん」
隣に並んだ青年が、からかうような口調で話しかけてくる。彼は同じ飲み会に参加していた先輩で、俺より二年上の大学四年らしい。曖昧な笑みを返しながら、彼の名前は何だったろうかと胸の内で思う。名字に藤が入っていて、それを“ふじ”と読むことだけは記憶にあったので、俺は心の中限定で彼を藤なんとか先輩と呼ぼうと決めた。
「先輩こそ、体調は大丈夫ですか」
俺は問い返す。というのも少し前、藤なんとか先輩は「ごめんー、バイト疲れで怠さがやばい。今日はもう帰るわ」と言い席から離脱していたのだ。そしてちょうど用事があると嘘をついて帰り支度をしていた俺に近づき、「一緒に駅まで行こうよ。篠山くんも電車乗る組だったよね」と誘ってきた。
体調が悪いのに、知り合い程度の人間と共に行動できるのか。社交的な人は違うななどと思いつつ、面倒な気持ちを押し隠して俺は頷いた。そして今に至る。
「あー、あれは口実」
からりと笑う彼に、若干の落胆を覚える。軽々しく嘘を吐けてしまうのか。苦手なタイプだ。まあ、俺も同じ真似をしているんだから同族嫌悪でしかないけれど。
「ちょっと篠山くんとお話したくてさ。というか、提案?」
「提案、ですか」
楽しげにこちらを見てくる彼に相槌を打ちながら、俺は内心身構える。危険信号だ。SNSで見た、両手を広げて仁王立ちしているアリクイの威嚇ポーズを俺は思い浮かべた。
これは少し前、一ヶ月ほど前からなんとなく始めたクールダウンの方法だ。ちょっと愉快な絵面のあれを想像することで、焦りを覚える状況でも少し落ち着いて物事を考えられるようになる。気がする。
そう。俺に持ちかけられる提案なんて、大抵碌なもんじゃない。ことに関わりの薄い藤なんとか先輩からとなればなおさらだ。宗教かネズミ講か、と身構えながら俺は耳を傾ける。
「うん。そうだな、どこから話そうか……。最近、変な事件が頻発してるよね」
「それは、そうですね。行方不明者の報道が何件もあったり、弥杜(みと)橋が崩落したり」
俺の言葉に、そうそうと彼は応じる。
行方不明事件が隣町の天凪(あまなぎ)町で三件、俺の住んでいる弥杜町でも一件あった。全国で何件起こっているかは忘れてしまったが、数千件は超えているだろう。ここ一年でそれだけの数の行方不明者が出ている。恐ろしいことだと思いつつも、俺は元々鈍感な質だ。初めて事件が起きたときこそ衝撃を受けたが、今はあまり気にしていない。
なにせ、ここまで被害者数が増加しても原因は一切不明なままなのだ。そんなとんでもない存在を相手にじたばたしてもしょうがない。
そして、弥杜橋の崩落。これは人によっては大したニュースではないだろうが、俺にとってはかなりきついものだった。幼少期から見てきた、家の近くにある橋が一夜のうちに崩落したのだ。俺はたまたまその日県外にいて、帰ってきてから惨状を目の当たりにし呆然とした。
不可解なことに、これも原因が分かっていないのだという。爆音を立てて崩壊したこともあり、崩壊直後に見にいった者も含めれば目撃者は数十名に上るそうだと新聞の記事には書かれていた。なのにそう証言していたはずの全員が、詳細を聞くと首を捻る。よく覚えていない、と。
「そのうえ、先月には殺人事件まで起きただろ」
「ああ……そうでしたね。でも、あれの犯人はもう捕まったんじゃ」
「ちゃんとニュースを見てるんだね、偉いな。そうだよ。けど、なんにせよ物騒だと思わないか。この国が、傾いてるっていうかさ」
そこで藤なんとか先輩は声を潜め、囁くような声量のまま続ける。どうやら本題に入るらしいと悟った俺は、脳裏に威嚇アリクイを召喚しようとしてから気づいた。
近づいてきている。ストーカーが。
もうなんとか先輩の存在は希薄になった。先輩の後ろに見えるストーカーにばかり意識が向く。彼は真っ直ぐ早足にこちらへと歩いてきて、十メートルほど手前の距離で止まった。ここまで近くに来たのは初めてだ。
動悸の音に濁点が付いて、ドグドグとやかましく鳴り出す。
……俺は彼が好きなのか? それともこれは、ただ危機を感じるからドキドキするという古典的な吊り橋効果?
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