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春の章 一、春のおとずれ

 春。  草木の芽が"張る"。  田畑を"()る"。  気候の"晴る"。  四季の最初の季節。  立春から立夏の前日までのこと。  春。  君に逢える季節。  約束。  君は、いつまでここで待っているつもり?  君を縛るその"約束"は、いつか、果たされる時が来るのだろうか?  弥生の頃。この地に春を齎す神のひとりである春水(しゅんすい)は、毎年、ある桜の木の枝の上を寝床にしていた。背はさほど高くないが、幹がしっかりとしている千年桜で、霊力も高いため最適だったのだ。  しかしある頃から、ひとりの珍客が同居することになる。  もう数十年も前の話だ。  その者は、その年の秋の頃からこの千年桜の木の下にいたらしく、その翌年の春に初めて顔を合わせた。朝も昼も夜も。その者はまったくここを動く気がなく、時折ぼんやりしてみたり、鳥と戯れてみたり、桜が咲けば花びらを見て微笑むのだった。  赤い髪紐で緩く結ばれた、腰の辺りまである長い黒髪は艶やかで美しく、顎の辺りまである前髪は、真ん中で綺麗に分けられていた。中性的な幼い顔立ちは可愛らしく、色素の薄い大きな瞳はいつも穏やかで優し気だった。  二十代前半くらいの青年のようだが、細身で色白なこともあって少女のようにも見える。それでなぜ青年だってわかるかって?それは、胸が少しの膨らみもなく真っ平らだからだ。上背も春水よりほんの少しだけ高い。  身に纏う着物は白だが、肩に掛けられている羽織は薄墨桜のような地色で、そこには程よく桜の花びらの模様が描かれていた。しかしなによりも、その者の首に巻かれた包帯が目を惹く。怪我でもしているのだろうか?ちょっとだけ気になるところだ。  春が訪れる頃に、自ずと顔を合わせる。  夏が来る頃には去る。  桜の木の上と下で、ふたりは言葉を交わすことはなかった。  春水は三月ほどの間、木の上で春が過ぎるのを待つ。木の下の住人は、上の住人に対して興味があるのか、時々こちらを見上げてくる。  この額から鼻の辺りまでを覆う、白い狐の面が珍しいのだろうか。  それともこの見た目だろうか。  細い栗色の髪の毛は不揃いで、横の髪は一番長い場所でも肩くらいまであり、後ろの方だけそれより少しだけ長い。  遠い時代の着物である白い童子水干に、赤い括袴(くくりはかま)。水干のちょうど真ん中を止めている、縦に並んだふたつの菊綴(きくとじ)や、袖を飾る紐も赤だった。袴から覗く足元は、草履も沓も履いておらず裸足なのだが、傷のひとつもない。  ひとの見た目で言えば十五、六くらいの少年に見えるだろうが、その何百倍も長く生きている、季節を告げる神のひとりなのだ。  春水がなんであるかをその者は知らないだろうが、同じ存在でないことだけは、理解しているようだった。  それは、この者がもはや"ひと"ではないことを意味していた。  どんな事情があってここに"いる"のか。  どうしてこの場所なのか。  何も語られないまま、また春を過ごす。  そんな沈黙が破られたのは、出会ってから五回目の春のこと。  その年の春は、少し早かった。  千年桜の木の下で、その者は佇んでいた。春水は何か言いたげなその者の表情に気付いていたが、あえてその横を通り過ぎる。そのまま木の上に飛び上がろうとした時、最悪の頃合いで袖を掴まれた。  途端、春水は地面に引き戻され、油断していたこともあってか、そのまま地面にべたんと思い切り顔面から落ちたのだ。一瞬、何が起きたのか解らず、地面に這いつくばっていたのだが、だんだん頭が冴えてくる。  この事態を招いた張本人は、おろおろと自分の周りを右往左往するばかりで、ごめんなさいのひと言もなかった。優しそうな印象しかなかったのに、いざ関わってみればこの通り。なんて奴だ!と怒りを覚え、春水は思わず震えた声で言葉を紡ぐ。 「そこのお前······この俺を地面に叩きつけるとは、良い度胸じゃないかっ」  うつ伏せになっていた身体をなんとか起こし、斜めにズレた狐の面を元に戻す。口元だけは隠れていないので、その声は思いの外その場に響いていた。  見上げた先にいたその者は、右往左往していた足を止め、春水のすぐ傍に膝を付いた。 「なんだよ、········今度はどうした?」  逆に立ち上がった春水は、土で汚れた括袴を片手でぽんぽんと掃い、はあと肩を竦めて嘆息した。さっきまではこの者の所業に対して怒りさえ覚えていたのに、その顔を見た瞬間、一気にそれが消え失せた。 「————、——————、」  ぱくぱくと小さな口だけが動かされ、表情が曇っていく様に、春水はあることに気付いてしまった。 「お前、声が······、」  その者は目を伏せ、自分の喉元にそっと手を当てる。そこに巻かれた包帯の意味を思い知る。生まれた時から、とかではなくて。その包帯の奥に隠されているだろうモノに、因縁めいたものを感じた。  その者は跪いたまま、油断していた春水の右手を取ると、その手の平を上に向けて、自分の人差し指をそっと当てた。 『よ』『か』『つ』『た』  なぞられた指先は、そう、読み取れた。 「いや、別に、お前に心配される筋合いはないぞ」  顔を背けて、春水はそのくすぐったさを誤魔化す。その者はぶんぶんと首を振り、心配そうにこちらを見上げてくる。 『す』『み』『ま』『せ』『ん』  今度はしゅんとして顔を伏せる。春水は触れられていた手から自分の右手を引き抜き、そのまま左手で手首を掴んで胸元に持っていく。まだあのこそばゆい感じが消えず、不思議な感覚が手の平に漂っている。 「で?俺に何か用があったんだろう?さっさとその要件をい······」  言え、と言いかけて、口ごもる。なんで"ひと"に神である自分が気を遣わなければならないのだろうかと、改めて思い直し、こほんと咳払いをした。 「ああ、もう面倒だな!ちょっと失礼、」  きょとんとしているその者のこめかみに、自分の右手の人差し指と中指を当てて、再び口を開く。 「頭の中で話せ。こうしている間だけ、その声が俺には聞こえるから、」  こくこくとその者は頷く。  その声が春水の頭の中へ直接響いてきた。 『私は、······(さく)と言います。見ての通り、もう"ひと"ではありません』  その者、朔と名乗ったの青年は、真っすぐに春水を見上げたまま、悲し気な笑みを浮かべた。  想像していたよりもずっと澄んだ声音。落ち着いたその声も、その顔と同じ、どこか中性的な印象を覚えた。  自分がなぜここにいて、どうしてどこへも行けないのか。  その理由を、朔は静かに語り出す。

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