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春の章 二、春を待つ
何年も前の話だった。
朔はこの辺りを治める領主の妾の子であった。
昔からぼんやりとした子で、いつも笑みを絶やさなかった。舞いや歌が得意で、母親が死んだ後も領主は朔を可愛がっていた。
しかしその可愛がり方は異常で、それがおかしいということに気付いたのは、十歳くらいになってからだった。
「君は、もっと自分を大切にして、」
その言葉をくれたのは、領主の二番目の息子だった。朔は屋敷に囲われていた母親にそっくりで、歳を重ねるごとに美しくなっていった。
母親が死んだのは朔が八歳の時。簡単な葬儀の合間に、手を引いて連れ出されたことがあった。
当時十一歳だった二番目の兄は、自分の父親がしていることを良しとしていなかったのだろう。そんな言葉を、朔にくれたのだ。
その時はよく解っていなかったが、時折気にかけてくれる二番目の兄のことを考えるようになってから、毎日行われる領主からの行為に嫌悪感を覚えるようになった。
しかしだからと言って、どうにかできることでもなく、細腕の朔には拒否することはもちろん、今更逃げることは不可能だった。
そもそも、領主の行為に気付いていて、それでも何も言わない本妻との関係は冷めきっており、誰も口出しができなかったのだ。
離れで囲われている新たな妾。
しかも男妾として、公認されてしまっていた。
春の頃。十八の時、いつものように昼過ぎに目を覚ますと、屋敷の中が騒がしかった。
白い単衣を肌を隠すように肩に掛け、ぼんやりと瞼を開く。耳をすませば、遠くで女性の悲鳴が上がっていた。それも何人もだ。
「······なにが、起こっているの?」
この領地は特に外の領地との諍いもなく、長い間平穏な土地であった。昨日まで、特に不穏な話も聞いたことがない。
しかし、この騒ぎはこの屋敷だけで起こっているようで、離れにひとつだけある窓からこっそり外を覗いてみたが、遠くで煙が見える様子もない。
足音がこちらへどんどん近づいて来るのがわかった。大勢ではなく、ひとつだけ。
どこか焦ったような足取りで離れの前まで来ると、音がぴたりと止まった。
肩から掛けていただけの単衣を、胸元で握りしめて身体を隠す。その隙間から覗く生白い脚を、気にしている余裕はなかった。
心臓がどくどくと大きく鼓動を鳴らす。
ゆっくりと扉が開かれ、薄暗い部屋の中に外の強い光が飛び込んでくる。
「もう、大丈夫だ」
光の先に現れたのは、二番目の兄だった。
手には太刀が握られており、そこには血が滴っていた。何が大丈夫なのか、朔には理解できない。
兄の持っていた太刀がその手から離れて、足元に転がる。代わりに朔の細い身体が引き寄せられ、そのまま抱きしめられた。
「あのひとはもういない。兄上があのひとを殺し、新しい領主となったのだ」
首を傾げたまま、朔は頭の上で紡がれる言葉を呑み込む。
あのひと、が殺されて、一番上の兄が領主になった。それはつまり、自分の役目は終わったということ?
「······二の兄様、私は、明日からなにをして生きればよいのです?」
その質問に、二番目の兄は顔を歪めた。その眼には涙が浮かんでおり、その涙の意味も、朔にはまったくわからなかった。
ずっと、光があまり届かないこの薄暗い離れで生活をしていて、あのひと以外のひとに逢うこともほとんどなかった。
たまに離れの外に連れ出されることもあったが、その時は決まって着飾られ、皆の前で舞や歌を披露した。
「そうだね。では、一緒に考えよう。君がしたいこと、望むこと、」
「······したい、こと?望む、こと?」
ゆっくりと離れていくぬくもりが、なんだか寂しい。
二番目の兄の名を呼んでみたかったが、朔は兄たちの名を知らなかった。
「君は、今、この瞬間から、自由になった。いくらでも、考える時間がある」
差し出された手を、遠慮がちに掴む。
「二の兄様、········私、兄様の名を、知りたいです」
驚いたように、二番目の兄は目を瞠った。己の父親が、そんなことすら教えていなかったことに一層の嫌悪感を覚える。しかし、どこまでも純粋で無垢な眼差しがそれを望むのなら、いくらでも教えてやりたいと思った。
「私の名は――――、」
******
二十歳の時。
薄墨桜のような地色の羽織。そこには程よく桜の花びらの模様が描かれていた。
「こんな綺麗な羽織、頂いてもいいのですか?」
「こういう時は、ひと言、ありがとうございます、でいい」
頭ひとつ分背の高い二番目の兄は、秀麗な顔に笑みを浮かべてそう言った。
肩にそっと掛けられたその上等な羽織の合わせを掴み、朔は小さく頷いた。あのひとが亡くなってから、二年が経った。あれから朔は離れではなく、屋敷のひと部屋を貰い、そこで生活していた。
そのことをよく思わない者もいたが、一番目の兄や二番目の兄、二つ下の弟が有無を言わさず黙らせた。
朔は、この二年で知らなかったことをたくさん教わった。
たとえば文字。たくさんの言葉を覚えた。あとは花々の名前だったり、鳥の種類だったり。とにかく色んなことを。
三つ上の二番目の兄、卯月がなんでも教えてくれた。五つ上の一番目の兄は葉月で、二つ下の弟は睦月。皆、月の名前。朔の文字にも月があったが、三人とは違うのだと知る。それでも、兄たちや弟は自分に良くしてくれた。
しかし、あの日————。
「よくも、恩を仇で返してくれたわね!」
あつい。喉が、あつくて、触れればぬるりと指先を濡らした。
唇はぱくぱくと動くのに、声が、出ない。
感覚がどんどんなくなって、そのままその場に崩れ落ち、前のめりに倒れ込む。
どくどくと流れるのは、赤黒い液体。
それは頬を濡らし、白い着物を染め、あの羽織に点々と痕を残した。
「母上!なんてこと······朔、朔!」
卯月は朔の喉元を押さえるが、そこから流れる血が止まることはなかった。どんどん冷たくなっていくその身体を抱きしめ、自分の着物を染めていく赤に絶望する。
「あのひとがいなくなって、やっと終わったと思ったのに······結局、今度はあなたを惑わせた。いえ、もっと前からよね?あなた、昔から、その子を見る目が普通じゃなかったもの!」
「······それがなんだというのですか?朔を大切に想って、なにが悪いというのです?」
「あなたたちは、母は違えど兄弟なのよ!?あのひともどうかしていたけれど、あなたも大概よ!」
ふたりはたくさん罵り合って、それから卯月は朔を抱き上げて屋敷を飛び出した。
向かったのは、あの千年桜。
秋の頃。
何日もかけて根元に素手で穴を掘り、やっと人ひとり分の深さになった頃。冷たくなった身体を、大事そうにその穴の中へと沈める。
顔を綺麗にし、切り裂かれた首には包帯を丁寧に巻いた。
もうそこから血が流れ出ることもなかった。
着物は相変わらず血で染まっていたが、どうすることもできなかった。
「待っていて。必ず迎えに行く。春の頃に、また、ここで逢おう。永遠を誓った、この場所で、」
だから、どうか――――。
ここで待っていて。
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