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冬の章 三、"真の番"として

 正月も過ぎた頃、(ゆずりは)は社で留守番をすることが増えた。銀花は一日に何度か見回りのために領域の外に出ていて、その間はひとりで過ごすしかなかったのだ。  部屋に幽閉されていた約十年間。ずっとひとりだった。だからひとりでも平気だと思っていた。領域内なら好きな場所へ行けるのに、結局、社の中で一番狭い部屋で膝を抱えて座っていた。 (景色をひとりで見ても、楽しくない。銀花様がいないと、)  膝に顔を埋めて、(ゆずりは)はしゅんと落ち込む。同時に、リン、と清らかな鈴の音が左耳で鳴った。 (正月に銀花様がくださった金色の鈴の耳飾り。銀花様とお揃いの鈴。この音は、優しくて好き)  小さな鈴がふたつ連なったその耳飾りは銀花の手作りで、(ゆずりは)が迷子になってもすぐわかるようにと、贈ってくれたのだ。  実は、その数日前に一緒に外に出かけたのだが、目の前のものに夢中になり、いつの間にか領域外で迷子になってしまったのがきっかけだった。  一瞬でも(ゆずりは)から目を離してしまったことを反省していて、銀花は全然悪くないのに、ものすごく落ち込んでいた。(ゆずりは)もこの時の事を後悔し、今後は領域外では銀花から離れないようにしようと、心に誓ったのだった。 (銀花様、早く帰って来ないかな、)  白い柔らかな毛で作られた襟巻。  これも銀花から貰った物だった。  神狐である銀花が自分の毛を使って作ったそうで、なんだか守られている気分になる。肌触りも良くふわふわであたたかい。領域外はまだ凍えるほど寒いので、外に出る時はいつも首に巻いていた。  領域内は寒さも暑さもない。だからここで巻く必要はないのだが、ひとりで寂しい時にぎゅっと抱きしめていると、なんだか癒されるのだ。  そんな中、遠くで鈴の音が聞こえた気がした。耳の良い楪(ゆずりは)は、すぐに銀花が帰って来たことに気付き、すくっと立ち上がる。動物の尻尾のような襟巻を抱えたまま、籠っていた狭い部屋から出た。  社の扉を開き、階段を下りる。その先に、銀花が立っていた。(ゆずりは)はいつものように駆け寄ろうとしたが、その表情が曇る。 「······良い、判断だ。頼むから、今は、俺に近寄らない、で····ほし、い」  真っ白な銀花を覆う黒い靄が、(ゆずりは)の足を止めた。それに安堵するかのように、銀花は辛そうに左手で胸を押さえ、そのまま力が抜けたかのように地面に膝を付く。 「銀花様、これは、なんです?」  震える声で(ゆずりは)は訊ねる。得体の知れない黒い靄は、はじめて見たのに怖いものだとわかる。これこそが"穢れ"なのではないかと思ったが、訊ねずにはいられなかった。  あと数歩で手が届きそうなのに、足が思うように動かない。出会った時に銀花が言っていた。山神の役割。一日に何度も外へ行くのは、その"穢れ"を見つけ、その身に封じるためでもあった。 「少し"穢れ"を溜めすぎただけだ····怖いだろう?先に社に戻っていてくれ」  先程よりは落ち着いたのか、黒い靄が薄まっていた。しかし苦しそうなのは変わらず、(ゆずりは)は襟巻を抱きしめたまま、首を振った。 「私は、平気です。少し驚いただけで····それよりも銀花様が心配です。私がちゃんと花嫁の役割を果たせないから、こんなことに······」 「それは、違う。お前のせいではないよ」  自分を責めている(ゆずりは)を安心させるように、笑みを浮かべる銀花。しかし(ゆずりは)は真っ青な顔で立ち尽くしている。 (私は、こんなに善くしてくれる銀花様に、なにもお返しができていない····本当なら、この苦しみから救って差し上げられるはずなのに)  山神様の"真の(つがい)"となるには、身も心も銀花に捧げる必要がある。  心はもう、きっと、捧げられる。今だって、こんなにも銀花でいっぱいなのだ。  傍にいて欲しいと思うし、いたいと思う。これは、間違いなく。 「銀花様、私、」  一歩、また一歩、前に進む。震える指先を誤魔化すように、襟巻を強く抱きしめる。怖い、けど。でも。そんなことより。 「(ゆずりは)、無理をするな。俺は、大丈夫だから」  黒い靄はその言葉を否定するように、銀花の周りに纏わりついている。動くこともままならないため、自ら離れることもできない。怯えながらも近付いて来る(ゆずりは)を、止めることすら叶わない。  とうとう手を伸ばせば届く場所まで来てしまった(ゆずりは)が、その場に座り込んで銀花を見つめてきた。  するりと、握りしめていた襟巻がふたりの間にゆっくりと滑り落ちた。  そ、とその頬に両手を伸ばし、触れる。途端、穢れが(ゆずりは)の方へと流れていくのを目にした銀花は、その赤い瞳を大きく見開いた。 「私、"真の(つがい)"になります。あなたの苦しみ、私にください」  言って、(ゆずりは)は銀花の頬を両手で包むように触れた後、そのまま自分の唇を重ねた。  それは本当に触れるだけの口付けだったが、銀花は驚きのあまり身動きが取れず、もどかしい気持ちでいっぱいになった。  (ゆずりは)の精一杯の気持ちが嬉しかったのと、慣れていないその行為に対して、今すぐに抱きしめてやりたい衝動に駆られる。こんな状態でなければ、と後悔だけが残った。  やがて(ゆずりは)がその先をどうしていいのかわからず、恥じらいながら離れていくまで、その姿を呆然と見つめていることしかできなかった。 (これは、新手の拷問かなにかか?)  その身に溜め込んでいた穢れが完全に消えている驚きよりも、目の前の花嫁が恥ずかしそうに俯いて、先程まで重ねていた唇に遠慮がちに触れている姿を、今すぐ隠してしまいたいという気持ちが先行する。  だがここは、まさに抑えるべきところであって、獣のように襲いかかる時ではないと悟る。 「あ····あの、私!すみません····っ」  自分のしてしまったことに対して、銀花がなにも言わないのを誤解したのか、(ゆずりは)はみるみる顔色が青くなり、何度も「すみません!」と目の前で頭を下げ、終いには勢いよく立ち上がり、社の方へと逃げて行ってしまう。  (ゆずりは)がつい今しがたまでいた場所には、自分が贈った白い毛で作られた襟巻が、自分と同じようにぽつんと取り残されていた。  銀花は、しばらくその場から立ち上がれなかった。この時の不甲斐なさや失態は、なにがあっても一生忘れることはないだろう。  その後、いつもの狭い部屋に閉じ籠っていた(ゆずりは)を見つけ、膝を抱えて蹲っている花嫁の横に腰を下ろす。手に持っていた襟巻を、肩に掛けるようにそっと巻いてやる。 「····銀花様、私、本当に駄目な花嫁です。無知な自分が恥ずかしいです」  (ゆずりは)は、膝に押し付けるように顔を隠してはいるが、両の耳が真っ赤になっていた。 「お前が駄目な花嫁なわけがないだろう?俺の可愛い花嫁、顔を見せて?」  耳元で囁く。もちろんわざとである。その気持ちは確かに受け取ったし、これはもうそういうことなのだ。あの口付けは、その証ともいえよう。 「お前のお陰で、穢れが浄化された。お前が"真の(つがい)"になってくれたこと、俺は何よりも嬉しい。だから、謝らないで?(ゆずりは)、俺を見て?」  頭を撫で、長い黒髪を梳き、それからそっと肩を抱く。 「······怒っていないのですか?私、銀花様の言うことを聞かず、あんなことまでしてしまって····私を、嫌いになったのでは?」  どこまでも優しく触れられ、戸惑う。  すぐ傍で感じるぬくもりは、なによりもあたたかい。それは、出会った時から変わらずそこにあって、(ゆずりは)は安心する。  それでも視線を合わせるにはまだ心の準備が整ってはおらず、顔はなんとか膝から離したが、銀花の瞳がどうしても見れなかった。 「俺がお前を嫌いになる?そんなことは天地がひっくり返ってもあり得ないよ、」  あんな触れるだけの口付けで、こんな風に恥じらってしまうような可愛い花嫁を、嫌いになどなるわけがない。    むしろ、ますます愛おしいと思う気持ちが大きくなり、自分がどれだけ(ゆずりは)を好いているか、教えてやりたいと思った。  だが、なによりも一番大切なのは(ゆずりは)の気持ちで、怖い思いはさせたくない。ここは神として理性を抑え、花嫁の意思を尊重するのが正解だろう。 「····あの、私、男の身ですけど、あんなことをして、その、銀花様のお子ができたり、しないです、よね?」 「·················」  薄っすらと赤い唇に指先で触れて、ちらちらとこちらに視線を送りながらそんなことを言う(ゆずりは)に、先程まで何重にも固く結ばれていたはずの"理性"という名の糸が、ぷつんと切れた音がした。  気付いた時には、(ゆずりは)を床に押し倒していた。見上げ見下ろされる形で、視線が合わさる。そこには、どうしたらいいかわからないという顔でこちらを見上げてくる、(ゆずりは)の姿があった。 「俺の可愛い花嫁は、俺の子が欲しいのか?」 「へ?え?あ、あの、」  銀花は悪戯っぽく笑って、真っすぐに(ゆずりは)を見下ろしてくる。自分が何気なく口にしてしまったことを改めて銀花から言われると、恥ずかしさで顔を覆いたくなった。  男の身で子ができるなど、あるはずないのに。  今すぐ顔を隠したいのに、両の手首を押さえられているので、それは叶わない。恥ずかしすぎて瞳が潤み、思わず身じろぐ。 「お前が望むならできなくはないが。しばらくは、お前とふたりきりがいい」  手首から手を離し、銀花は(ゆずりは)の身体を起こすと、そのまま優しく抱きしめる。  首に顔を埋めて、甘えるように囁く声に、(ゆずりは)は心臓がどうにかなりそうだった。 「時間は永遠ほどある。ゆっくりでいい、俺を愛して欲しい」  (ゆずりは)の気持ちが、心が、ちゃんと自分に向けられるまで。その身を捧げても良いと思えるまで。愛してくれるまで。 (······愛、して?)  その感情はわからないけれど、なんだか不思議と心地好い響きだった。  好き、とは違うのだろうか。 「はい、私、必ず銀花様を愛してみせます!」 「よろしく頼む」  やる気満々にそう言った(ゆずりは)だったが、たぶんよくわかっていないのだろうな、と銀花はくつくつと笑いを堪えながら答えた。  いつかその本当の意味を知った時、その時は。  神の"真の(つがい)"として、永遠を誓おう。

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