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1 幸運が舞い降りた2

「いったんここで休憩だ」 「もう少し!」 「中西、そんなに根詰めるな。まだ時間はあるからな」  二メートルを超すのは容易だが、なかなか二メートル二十の壁を越えることできない。自己最高記録に届くのがやっとで、その向こうに行けずにいる。  あと何本跳べば超えることができるのだろうかと気持ちが焦ってしまう  ほんの一センチでも高く空に近づきたい中西は、あと一回だけとコーチに頼み込んだが、了承は貰えなかった。 「とりあえず休憩。少し休んだらまた始めるから水分はちゃんと取れよ」 「わかりましたー」  不貞腐れながら部員が集まっているベンチへと行けば、すでに休憩を終えた別競技のチームメイトがグラウンドに戻るのと入れ違いになった。 「すっげー集中してたな、中西」  朝声を掛けてきたチームメイトが大きな声で話しかけてくる。特に親しいわけではないが、一種の連帯感があるからつい互いに気さくになってしまう。 「ちょっとやり込んじゃった」  笑って手を振ってから自分の水筒に口を付けた。スポーツドリンクが入っているそれが喉を通って初めて、渇きを覚える。随分と汗を掻いたTシャツは背中が気持ち悪いくらいに濡れ、自分のスポーツバッグから新しいのを取り出して、着ていたものをそのまま突っ込む。後で母親にどやされるが、部活が始まれば毎日のように聞く愚痴すら忘れてしまう。  それよりも先ほどから感じていた膝の違和感の方がずっと気になる。嫌な感じがしてからかれこれ一ヶ月だ。 「変だなぁ」  足首を回すついでに膝も回してみるが特に痛みはない。ただ不快で、それがうまく踏み込めない原因かもと考えて、また軽くストレッチをする。  いつもはこうすればすぐに違和感は取れ、また高く飛べるようになるから。  身体中を柔らかくした後、充分な水分を補給してまたバーの前に立つ。  今の中西にとって飛ぶことと悠人のことが世界のすべてだった。ほんの少しでも空に近づきたくてもっと綺麗な空を見たくて成績を伸ばしたかった。 (世界新記録と同じだけ飛べたらどんな空が見れるんだろ)  その瞬間を見るために中西はまたバーへと走っていった。 +++  小さな違和感をそのままにして失敗する例は多い。  それを嫌と言うほど味わったのは大型連休を目前とした暑い日だった。  悠人と同じクラスになったのに一言も交わせないまま木々から花びらは散り、まだ柔らかかった葉はすっかりと色を濃くして伸び始めていた。 「今日こそは二メートル二十の壁を突き破るぜ」  数度のジャンプをこなした中西は癖になっている足首と膝を軽く回してからスタートを切った。 (やっぱ、ちょっと痛いかな)  違和感を覚えてから二ヶ月近く、痛みが少しずつ強くなっているような気がする。それでも中西はなんとか飛び続けた。二メートル二十を一センチでも越せればまたあの空に近づき、ついでに悠人にも名前を知って貰えるようになる。  やる気はあるが、痛みが邪魔をしているような気がして集中できない。もっと集中したいのにという苛立ちを発散させるためにバーを見つめながら踏み込み点を目指した。 (大丈夫、すぐになくなるはず)  持ち前の楽観差を発揮していつものようにバーの手前で踏み切った。  また澄んだ青が視界いっぱいに広がり、コントラストを強めさせる雲の複雑かつ柔らかい雰囲気が美しい世界がそこにある。  またしてもほんの少しそれに近づいて見れるんだと胸を馳せて、背中を反らそうとして、中西は一気に身体を固めた。 (うそっ……なんで?)  背中に押されたバーが落ちる音が耳に入らないくらい、違和感と僅かな痛みを抱えた膝が今までにないくらいの痛みを訴えた。 「っあぁぁぁぁぁ!」  あまりの痛みに中西は声を上げずにいられなかった。踏み込みに使う右の膝を抱えながらマットの上でのたうち回れば、コーチや周囲にいたチームメイトが駆けつけてくるが、その声は全く聞こえない。痛さしか中西に存在しなかった。  瞑った目では今まで追いかけ続けた空は何も見えない。暗いはずの視界が真っ赤になるほどの痛みにもう周囲が何を訴え何をしているのかも分からず、ひたすら狂うしかなかった。  その日、救急車で運ばれた中西は生まれて初めて、絶望という言葉を体感するのだった。

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