4 / 45

2 絶望と希望1

 井ノ上悠人。  その名を知らない人間はこの高校にはいない。  なんせ学校一の有名人といっても過言ではない。  去年、まだ一年生だった井ノ上は、生徒から忌み嫌われていた体育教師を学校から追い出したのだ。  私立で系列校がないため異動になることはない。一回その職に就けば定年まで居続ける教師も多いこの高校で、『脳筋』と生徒に裏で呼ばれた体育教師は、あだ名の通り、脳筋だった。  運動ができない生徒はどんなに勉強で成績が良くても、体育の授業を頑張っていても、平気で罵倒しモラハラ上等な言葉で嬲り、パワハラ上等の無理難題を突きつけるので、それはもうどの学年の生徒にも嫌われ、教科担当になったクラスは悲鳴を上げ泣き咽ぶほどと表現しても過言ではないほど落ち込ませるほどの威力を持つ癖の強い教師だったからだ。  いつも誰かをターゲットにして無理難題をふっかけ、できなければ聞くに堪えない言葉で延々と罵倒を繰り返しては、授業以外でも難癖を付けて呼び出すので有名だった。  それが悠人の教科担任になったのだ。  毎回体育の授業で見学をする悠人を、脳筋は快く思っていなかったのだろう、なにかと突っかかっていた。体操服に着替えても準備体操から不参加で、グラウンドの木陰に座っているだけだった彼に対し、生徒も初めは不思議がったが、病気があると知ってからは誰も何も言わなかった。  脳筋も初めは忌々しげに悠人を見るだけだったが、二学期に入り体育祭を前にしてとうとうその我慢の限界を迎えたようだ。 「井ノ上、お前も走れ!」  体育座りしている悠人を大声で呼び出したが、彼は木陰から動かなかった。 「できません」  きっぱりと言いきって命令を無視した。  当然授業に参加していた生徒はざわついた。  今度は悠人がターゲットになったのをホッとする数名の生徒以外は、手足の細い彼が贄になったことを哀れんだ。  脳筋は自分に逆らったことに顔を真っ赤にさせ、悠人の腕を掴んで無理矢理グラウンドに引っ張り出した。 「俺が走れって言ったら走るんだよっ!」 「走れません。学校には診断書を提出してます」  毅然とした態度で拒絶する悠人に、脳筋の顔が真っ赤になり、罵詈雑言を並べ始めた。だがどんな言葉をぶつけられても、悠人から出てきたのは「できません」ただそれだけだった。 「診断書なんて俺は見てない。あんなものは医者に金を払えばいくらでも書いて貰えるんだ、信用なんかできるかっ! どーせ適当な理由を付けてるんだろ。俺が認めないからそんなもんは無効だ! 教師を甘く見てたら痛い目見るぞコラー」 「それでもできません」  クラスでも前から数えた方が早い身長に痩身の悠人は、きっぱりと言い切った。 「なんだとっおまえな!」  それから他の生徒を無視してひたすら悠人を罵った脳筋だが、誰が呼んだのか、養護教諭と一緒に学年主任が走ってきて脳筋をグラウンドの隅に引っ張っていった。何か言い争う声が聞こえるだけで内容までは生徒たちに届かなかったが、どんどんと脳筋が言葉をなくしていくのが分かり、それで授業は終了した。  一体何だったんだろうと話しながら教室に戻る生徒たちの中で、悠人だけはいつもと変わらない泰然とした様子で、何事もなかったように着替えを終えると机に向かって本を読み始めた。  あまりにもいつも通りでクラスメイトたちもすぐに体育の授業のことなど忘れたが、ことが大きくなったのは翌日だった。  学校に来るのにふさわしくない人相の悪そうな男と、相反するように頭脳派と言わんばかりの眼鏡の男の二人組が濃い色のスーツを身に纏い険しい顔で学校へとやってきたのだ。  ヤクザと悪徳弁護士が学校に乗り込んできたとしか思えなかった。  中西もその登場を目の当たりにしたが、どうしたって学校という空間に不似合いで正直近づきたくないオーラを放っていた。なんでこんな平和の象徴とも言えるところに危険極まりない人間が来ているんだと凝視してしまったくらいだ。  しかもヤクザは職員室で脳筋を出せと大声を張り上げている。  借金の取り立てだろうかと生徒は騒いだ。  血気盛んで好奇心旺盛な高校生が大量に集う学校という枠の中で、じっとしていられるわけがない。三年生の勇気ある有志が校長室の壁に耳を当て聞き取った限り、ヤクザのような男は悠人の関係者で、診断書を出したにもかかわらず体育を強要されたことへのクレームだった。怒号が飛び交う中、脳筋の声は全く聞こえず、荒い足取りでヤクザは校長室を出て行き、次いで出てきた脳筋はたった数十分ですっかり魂が抜かれたように肩を落として職員室に戻り、そのまますぐに早退していった。  そしてそのまま、脳筋は学校に来なくなり、すぐに別の教師がやってきた。  やはりあの二人組はヤクザで、脳筋までもを追い出す力があるんだと学校中が湧き上がり、皆が悠人はどんな人間かとこぞって教室を訪ねた。  それで注目を集めた悠人のことを、中西もこっそり友人たちと一緒に見に行き、雷に打たれたような衝撃を受けた。 (マドンナだ……)  歌手の、ではない。好きな小説に登場する女性の雰囲気にあまりにも似た凜とした佇まいの悠人から目が離せなかった。 (本当にこんな人間がいるんだ……)  走り高跳びに夢中になっていた中学時代、学校の課題だからと仕方なしに読んだ小説に、セリフ一つなく登場したのがマドンナだ。無鉄砲な主人公の痛快な立ち回りが胸をすっきりとさせる一方で、ミステリアスなまでに儚くもあり艶やかでもあり、とてもアンバランスで印象的だった。 「理想の女性像って感じだな」  読んでいてマドンナが出てくるたびにドキドキした。上品な良家のお嬢さんとして描かれていたマドンナは主人公と一言も交わしていないのに存在感は強く、中西はそんな彼女に惹かれていった。  中西が勝手にイメージしたマドンナの姿そのままだったのが、悠人だ。  学校中が沸き立つほど浮き足立っている中で、表情一つ変えず自分のスタンスを貫いていた。休み時間は読書をし、授業中は集中して聞いて、上位にある成績は少しも下げることなく一年を終えたのだ。孤高の貴人というにふさわしい振る舞いが一層マドンナのイメージそのもの、中西は隙を見つけては悠人の教室にいるチームメイトを訪ね、無駄なお喋りの合間に一人机に向かう悠人を見続けていた。  それだけで幸せだった。  できればもっと仲良くなりたいと思っても、話すきっかけが何もなく、ただ見つめるしかなかった。自分の存在を彼に知って欲しくても、クラスも違えば成績も対局にいる状況でとにかく部活で目立とうと考えたのだ。  私立のこの高校は県内でも有数の進学校で、有名大学に多くの生徒を送り込む一方、スポーツにも力を入れ、特に陸上部は特待生枠を設けているほどだ。中西もその特待生枠で入学し、試験・学費免除で競技に打ち込ませて貰っている。だから学期毎の試験はいつもチームメイトと最下位争いを繰り返すばかりで、とてもじゃないが悠人の目にとまることができないからと、競技を頑張った。  ほんの少しの欲。  彼と仲良くなれる状況を作りたい。ただそれだけ。  県大会に出場すれば、高校総体に出場すれば、優勝すれば、もしかしたら悠人に気づいて貰えるかもしれない、そんな欲。  同じクラスになってその背中や横顔を見つめ、一層強くなった願望は、あっという間に打ち砕かれた。 「手術をしても、もう競技に戻ることはできませんね」  レントゲンを見ながら放たれた医師の冷たい一言は中西からすべてを奪った。何一つピンとこない。 「見てください、ここが靱帯で、これが脛骨です」  そこから続く説明も頭には入ってこない。  白黒で何が映し出されているか分からない写真を見せられても、意味がない。 「どれくらい回復するんですか?」  母の切実な声すら、酷く遠くに聞こえる。 「日常生活を送ることはできますが、もう今までのように運動をするのは難しいですね」 「では手術をお願いします!」 「分かりました。今空き状況を調べますね」  母と医師のやりとりが酷く他人事のようで、当事者なのに中西は置いてけぼりを食らったようにぼんやりとするしかなかった。  もう走れない。  もう飛べない。  二度と空に近づくこともできないのかと考えて、心が寂しくて迷子になったような気がした。自分用にと宛がわれた窓際のベッドで、ただひたすら空を見つめることしかできなかった。  入院棟の最上階にある部屋なのに、地上から自分の足で跳ぶよりももっと近いはずなのに、ジャンプして視界いっぱいに映るあの空よりもずっと遠くに感じてしまう。 「俺、もう跳べないんだ」  欲が出たからだ。悠人に近づくきっかけにしようとしたからだ。欲のために、違和感を放置して痛みに目を反らした結果、中西の膝はもう跳ぶことができなくなってしまった。「もう……跳べないんだ」  中学で走り高跳びに出会って、身体を反らした瞬間に視界いっぱいに飛び込んできた空に感動してからのめり込み、県大会や全国大会でそこそこ良い成績をずっと修めてきたのはひとえに、空への憧れだ。  一瞬だけ重力に逆らうように浮いた身体、手を伸ばしたら掴めそうな雲、自分が人間のしがらみから解放された気持ちになれた。けれど、もう二度と手には入らない。  こんな自分はこれからどうしたらいいんだろうか。

ともだちにシェアしよう!