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3 顔も知らないクラスメイト2
もう一度溜息を吐き出してから、サイドテーブルの下に置かれた本を一冊手に取って、ベッドを読みやすい角度に調整する。
兄が図書館からランダムで借りてきた小説だけが悠人を慰めてくれている。最初の一ページをめくり、びっちりと並んだ文字をゆっくりと目で追っていくが、数ページ進んだところで頭がふわふわしてきてそれが叶わなくなり始めた。
久しぶりに病室を出たせいか、随分と疲れてしまったようだ。
たったあれだけの距離……というには人混みが凄く時間がかかり過ぎてしまった。
(それだけじゃないな……)
慣れない同年代と話したせいだ。知らずのうちに緊張し、気疲れしたのかもしれない。
それとは違う一番高い可能性が頭の隅を通り過ぎていけば、悠人は人知れずに小さく嗤った。
「もう駄目かも」
悠人はゆっくりと目を閉じた。それでもどこか世界が回るような感覚が生まれる。これにも随分と慣れた。
なんせ悠人が入院するのは今回が初めてではない。
まだ十六歳だが、自宅よりもこの病院で眠っている時間の方がずっと長い。そっと激しく上下する心臓を病院服の上から撫でた。生まれた時から疾患のあるその場所は、ようやくここまで来られたというように精一杯動くが、その分身体がひどく疲れる。何もしていなくても生きているだけで死に近づいているのは人間誰しもだが、その中でもこの病気を持った自分たちには一日一日が貴重だ。
生まれてすぐからNICUの世話になり、その頃から同じ病気で苦しんでいる子供たちと一緒に過ごした。親しかった者もいればそうでない者もいたが、今も元気で生きているのはいったいどれほどだろう。完治することはあるのだろうか。皆どこか諦めながら生きている。
悠人もそうだ。きっとこのまま終わるだけ。
入院するたびに今回が最期だと覚悟をしながら病室の真っ白なベッドで空を見上げては、明日もこの空を見ることができるのだろうかと考えてしまう。
家族も病院関係者も、絶対治ると皆が励ましてくれるが自分の体調は自分が一番よくわかっていた。
学校に通うのすら辛くて、でも自分は『彼ら』と同じだと思いたくて無理した結果、また入院となってしまった。
勉強がしたいわけではない。勉強だけなら『病院(ここ)』でもできる。しかも周囲にいる大人たちは高学歴で面白がって教えてくれるものだから、高校二年生になる前にもう高校の勉強は終わっており、今は暇つぶしに赤本を解いているくらいだ。
高校へ通うのは『学生生活』というのを肌で感じたかっただけ。
同級生が口にする話題や他愛ない話、熱意を味わいたかったが、親しい人間を作るのが恐くてその輪の中に入ることができなかった。
自分はいつか、死ぬ。
分かっているからクラスメイトと距離を置き、話しかけられないように本を読む。
それでもその空間に自分がいるのが嬉しかった。
「そういえばあいつ……名前なんだっけ。……中西、だったか」
今年初めて同じクラスになった男はきっと教室の中で賑やかにしているメンバーの一人だろう。なのに誰とも話さない悠人のことをよく覚えているなと感心しながら、淀みかける意識で「奇特な奴」と呟いて暗い眠りの海に沈んでいった。
次に意識が覚醒したのは賑やかな話し声が近くで起こったからだった。
元気な声とともに、複数の笑い声がする。
午前中にある回診のために担当医が来たのだろうかと、なんとか沈みがちになる意識を無理矢理浮上させた。
悠人はゆっくりと目を開けると、一瞬にして絶望した。
「あ、井ノ上が目を覚ました!」
(なんでこいつが……)
売店の前で会った中西が、当たり前のように自分を覗き込み笑顔を向けている。
「な……あれ?」
見回せば、看護師の市川の他に、主治医の杉山までいる。
「悠人くん、おはよう。よく眠っていたね」
穏やかな口調の杉山がいつもの少し胡散臭い笑顔を面に張り付けたまま、何かを堪えるように話しかけてくる。
「杉山医師 ……ごめんなさい今起きます」
「無理しなくていいよ。中西くんごめんね、これからちょっと悠人くんの体調を確認するから一旦病室を出てくれるかな?」
「はーいっ!」
快活な返事で中西が病室の外へと移動する。
入院服の前を広げれば、杉山が聴診器を押し当てる。肉の薄い身体には心臓を中心に無数の手術痕があり、消えかけているものもあればまだくっきりとしたものもある。
「大きく息を吸って……吐いて……、そう上手だ。彼、元気だね。悠人くんのクラスメイトって言っていたけど、仲がいいのかい?」
「……今日、声をかけられるまで分からなかったんです」
「だと思ったよ。君の友達にしては陽気すぎるからね」
「ですよね」
背中からも音を聞くと、今度は血圧と脈拍を測っていく。その間に市川から渡された体温計を脇に入れる。
フロアだけ教えたら満足すると思っていたのに、なぜここまで来るのだろうか。しかも病室を見つけてくるなんて。悠人には中西の考えが分からなかった。
一通りの検査を終え、問診している間に、市川がパソコンにデータを書き込んでいく。
「朝に売店に行ったと聞いたが、疲れたかい?」
「はい……最近、少し動くだけで眠くなります。ねぇ医師、僕は……」
なんとなく思っていることを言葉を濁して伝えてみるが、杉山の表情は変わらない。いつもの笑顔を浮かべたまま「そんなことはないよ」と想像した通りの返答をするだけだ。
「研修医時代に約束しただろう、僕が悠人くんを治して、走れるようにするって」
「まだその約束覚えてるんですね」
「忘れるわけないじゃないか。君が僕から卒業するのを待っているんだから」
優秀な心臓内科の医師である杉山との付き合いは、長い。家族といる時間よりも長い月日を病院のベッドで過ごしてきた悠人にとって、杉山は年の離れた兄のような存在だ。
全幅の信頼を置いているが、今の笑顔は本心を隠しているのもわかっていた。悠人はそれ以上何も言わず入院服を整え、またベッドに横になった。
「また明日診に来るから。少しでも様子がおかしいと思ったらすぐにナースコールするんだよ」
「はい」
「君は聞き分けが良すぎるよ」
苦笑しながら頭を撫でてくる手は、節張って長い。もう子供じゃないと言いたくなる仕草であっても、相手が杉山だと許してしまう。それほどまでに長い時間を一緒に過ごした、気の許せる相手だった。今は彼に命を預けるに等しい状況で、意地を張る必要もない。だが、そんな杉山にとっても、悠人の反応は模範的すぎて気になるらしい。
「少しでも辛かったらすぐに呼ぶんだよ、いいね」
「分かってます。大丈夫ですよ」
無理はしない。
それが入院で一番大切なことだ。分かっていても、悠人は『いい子でいること』が抜けなかった。
(仕方ない、僕の病気のせいで皆に我慢させてるんだから)
その負い目が悠人を『いい子』にさせてしまう。
診察を終えた杉山と市川が病室から出ると、代わりにと外で大人しく待っていた中西が入ってきた。
「個室なんてスゲーな、井ノ上。俺初めて病院の個室に入ったよ」
(そうか、それは良かった。気が済んだら出ていってくれ)
心で思っていても口には出さなかった。
「中西、なにか僕に用事でもあるのか?」
彼がなぜ自分のところに来るのかわからない。入院で暇だという雰囲気でもない。
「実は井ノ上にお願いがあるんだ」
「……お願い?」
屈託のない笑顔が急に真顔になった。幼さが消え、同じ年だというのに妙に大人っぽく映る。真剣な顔のまま、中西は松葉杖で身体を支えながらできる限り深く頭を下げた。
「頼む、勉強を教えてくれ!」
「はい?」
唐突な依頼に、悠人は珍しく素っ頓狂な声を出した。
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