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3 顔も知らないクラスメイト1
月曜日の病院の受付はいつも以上に人でごった返している。時折流れる掠れた音のアナウンスがかき消されるほどに老若男女問わずひしめき合い、僅かな音が重なって静かな喧騒が広がっている。開けっ放しの自動ドアは温く湿った外気を吹き込ませては、人熱れを押さえつけるように低い温度で設定された空調を飛ばしていく。
忙しなく行きかう人々は駅のホームとは違い歩調がそれぞれ異なるため、僅かな隙間が生まれにくい。そんな人ごみの中を車椅子がすり抜けていけば、苛立った視線を向ける人は多く、次の瞬間、ここが病院だからとなんとか己の感情を抑えるように視線を逸らす。
地域で一番大きな総合病院ではよくある光景だ。気にすることなく車椅子を操縦しながら、入口とは受付を挟んだ反対側にある売店へと向かうのにいつも以上の時間がかかってしまった。
昨今の流行でコンビニエンスストアが運営している売店も、早い時間だというのに人でごった返していた。
「はぁ」
たかだかペンを買いに来ただけの悠人は重い息を吐き出しながら、次からは夜に来ようと心に決めてすぐにでも用事を済ませて病棟に戻ろうとした。たった一本ボールペンを買うために人々の列に並び無駄に時間を消費して、売店を出るころには疲れ切ってしまった。
ふと見れば、梅雨直前の澄んだ空が大きく取られた窓の向こうに広がっている。
(今度はどれくらいここにいるのかな……)
もう一ヶ月入院している悠人の身体は、晩春の心地よい風を浴びてはいない。頼めば看護助手が外に連れ出してくれるだろうが、遠慮して頼むことはできないし、忙しく時折しか顔を出せない家族に頼むのも気が引けた。澄み渡った空は吸い込まれるような清々しさをもって、陰鬱な白い壁に囲まれた空間から出るよう誘っているかのようだ。
(まだ肌寒いのかな?)
一定温度が保たれた院内から出ない生活を続け、自動ドアの傍すら通らない、隔離された空間の中では分からないことだ。
(昔だったら気にしなかったのにな……)
一度でも外の清々しさを知ってしまうと、閉じこもっているのが苦しくなるのはなぜだろう。だが今の悠人にはそれが許されなかった。入院患者お仕着せの浴衣に似た入院服を纏っているから、もし寒かったらすぐに風邪をひき入院が長引く。そうでなくても身体に爆弾を抱えた遥人は僅かな病気ですら命取りになりかねない。
嘆息して、美しいまでに澄んだ青空を振り切って車椅子を病棟の方向へ向けた。
その時だった。
「井ノ上! 井ノ上だろう。やっと会えた」
若く生命力に溢れた明るい声が自分の名を少し離れたところから呼んでいる、気がした。
(……気のせいだ)
悠人の知り合いでそんな元気な人間はいない。むしろ病院で顔を知っている人間なら皆今にも死にそうで元気さなどどこにも存在しないだろう。
なんせここは総合病院だ。そこで長期入院しているということは、つまりそういうことだ。
さして珍しい苗字でもないからと気にせず車椅子を動かそうとして、行く手を阻むように細いが頑丈そうな身体が車椅子の少し前に立った。
「やっぱり井ノ上だ。ここに入院してるって聞いて探してたんだよ」
自分のことだと分かった悠人は相手の顔を見た。
年のころは自分と変わらないだろう子供と大人の中間にいる男が、ニカっと笑ってこちらを見ている。
短く刈り上げた髪に人懐っこそうな目、スッと伸びた鼻筋に大きな口。大人びた顔つきをしているだろうに笑うと妙に子供っぽい、いかにも今どきの学生といった感じだ。肌はこの季節だというのに日焼けしており首の角度から自分よりもずっと長身なのが分かる。
なにより、燦燦と輝く太陽を纏っているような不思議な雰囲気があった。笑顔を向けられてひどく暖かな空気に包まれる気持ちになる。
春先の陽気のいい日に芝生に寝転んだときに降り注ぐ温かさにも似ていた。同時に草の青い匂いを思い出させる。
だが、どんなに顔を見つめても記憶の中にはない。
妙に親しげなのに、悠人はちっとも思い出せない。
訝しむ悠人の表情に気づいたのだろう、相手は「あー」と言いながら左手で後頭部を掻いた。
よく見れば両手には松葉杖があり、その右足は膝全体が分厚い包帯に巻かれている。反対の足は細いのに筋肉に覆われいかにもスポーツをしていたといわんばかりだ。そして身に着けているのは悠人と同じ入院服。
(誰だ?)
心当たりは全くない。本当にない。いかにも学校ヒエラルキー上位にいそうな爽やかな好青年に知り合いはいない。
「俺、中西拓真……一応同じクラスなんだけど……覚えてないかな?」
「あー……」
覚えているわけがない。なんせクラス替えをしてから一ヶ月も通っていない。ゴールデンウィークに体調を崩してからすぐに入院した悠人はクラスメイトの顔を覚えてはいなかった。「井ノ上」という苗字のせいでいつも壁側の前の方に席があり、身体のせいで体育にも参加できないでいるからクラスメイトとの関りも少ない。しかも休み時間になれば一気に騒めきだす面々をよそに本を読んでいるため、自分の前に座っている人間の顔すら覚えていない始末だ。
「ごめん、分からない」
そこに罪悪感はない。
同年代との関りを敢えて希薄にしているのは悠人自身だ。いつ入院するか分からないから、親しい人を作らずに来ていた。
そんな悠人のことをよく覚えているなとむしろ感心してしまう。
「そうだよな、まだ二年になって一ヶ月も経ってなかったもんな」
無理矢理作ったと分かる笑顔を向けられ、自分が悪いような気になってくるのは、相手があまりにも爽やかな好青年だからだろうか。
(いや、僕は悪くないし……)
なのに無意識に罪悪感を植え付けてくるこの男は何なのだ。
覚えていないのだからこのまま別れようとしたいのに、人の往来が激しい中、それを気にせず話しかけてきた。
「俺さ、四月からここに入院してるんだ。知ってるやつがいてくれてよかったよ。井ノ上って何階?」
「……五階」
そこは循環器科の病棟で若い人はいない。どう見ても最上階にある整形外科患者である中西とはフロアが違い過ぎて来ることはないだろうと踏んで答えた。特に隠すこともないし、たまたま同じクラスの人間を見つけて面白半分で声をかけただけだろう。
言葉数を少なくすればあちらから離れていくのを知って、そっけない返事をする。
「そうなんだ。俺、一番上の階なんだよ。部活でちょっとミスっちゃって手術したんだ」
あははと自嘲気味に笑う顔はどこか痛ましそうだ。
「あ、そうだ。井ノ上って病室に遊びに行ってもいい? 整形外科って同じ年の奴いなくて寂しいんだ」
「……無理だろ。年寄りが多いからうるさくしたら迷惑だ」
整形外科と違って循環器科は死と隣り合わせの患者でひしめいている。そのせいか静かな環境を求める人が多く、騒がしい人間に冷たい目線を向けてくる。そんな中で中西のような賑やかなのが来ては迷惑この上ない。
実は個室にいるのだが、それは敢えて伏せておく。個室だと分かれば絶対に来そうな雰囲気をできるだけ回避する。
入院中はせめてゆっくり一人の時間を過ごしたい。
「そっか……でもさ」
続きを遮るように車椅子のハンドリムを動かした。
「ごめん、もう戻らないと怒られるから」
「引き留めてごめんっ! じゃあまた!」
引き際がいいのか手をあげて中西は不慣れな松葉杖を使いながら去っていった。
「……なんだったんだ、あれは」
疾風のようだと思いながら、手慣れた操作で車椅子を動かし、慣れた入院棟にへと向かう。
そこは入院患者だけが収容されている病棟で、しかも悠人がいる循環器科はいつものように静かだ。ナースステーションの前を通り戻ってきたことを告げると、担当してくれている看護師の市川が近寄ってきた。
「悠人くん、今度からは売店に行くときは一人で行かないで。看護助手に車椅子を押させるから。今悠人くんはなるべく身体を使わないようにしなくちゃいけないんだからね」
「わかりました、ごめんなさい」
「何を買ってきたの?」
「ボールペンです、丁度インク切れたので」
「そっか。言ってくれたら私の貸すからね」
「ありがとうございます、次からはそうします」
笑顔を向けるが、看護師が使うのは皆可愛らしいもので手に馴染めないとは言えず、無理矢理笑顔を貼り付け病室に戻る。点滴を吊るすガートル台にぶつからないよう気を付けながらベッドの横まで車椅子で移動して立ち上がる。近頃、長時間歩くと息切れが激しくなり、座っているだけでも心臓がろっ骨を跳ね上げるほど大きく動くので仕方なく車椅子で移動しているが、歩くことが困難ではない。ただ苦しいのだ。
それを知っているから看護師もなにかと小言を言ってこの部屋に閉じ込めようとする。
医療に必要なもの以外、何もない部屋。
少し部屋を出ていただけなのに、戻ってくるたびに消毒液と薬品の匂いが鼻腔をくすぐり、だがすぐに慣れて記憶から消えてしまう。
真白い壁に包まれた一人の部屋は静かで、悠人は小さな溜息を吐き出しながら再び窓を見た。さっき見たのよりも近い空は相変わらず澄んでいて綺麗で、手を伸ばしたら届きそうな薄い雲は決して掴むことができない。
悠人に許されるのは眺めることだけだから。
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