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6 もし光源氏だったなら

 高嶺の花だった存在が近くにあると、人は浮かれるものだ。例えその相手に「お前の知力は足りない」と言われても、ただ同じ空間にいられるならどんなことだってしてやるとばかりに、中西はひたすら勉強に打ち込んだ。机に向かっているよりも身体を動かす時間の方がずっと長かったせいか、落ち着いて勉強に打ち込んだのは生まれて初めてかもしれない。  中学の教科書をめくりながら分からないことをひたすら悠人に聞きに行く毎日だった。なるべく彼に負担をかけないようにしてびっくりさせようとも考えたのだが、基礎が全くできていない中西にそんな高度な技が行えるはずもなく、躓けばすぐに悠人の病室に駆け込む日々だ。とはいえ、まだ松葉杖なしには歩けないので、駆け込むという表現には程遠いが。 「いのうえぇぇぇぇぇ」  泣きながらノックもなしに扉を開けば「またか」と呆れた表情がそこに張り付いていた。 「負の代入が分からないよぉぉぉぉ!」  母に持たされた移動用の斜め掛けカバンに入れた問題集とノートを取り出して見せる。自分では絶対に完璧だと思ったのに、なぜか回答は全く違う数字が記載されているのだ。どんなに計算しても同じ答えにならなくてパニックに陥る。  もう分からないことを聞くのに恥る感性はなくなった。むしろ分かるまで自分で同行しようとして無駄に時間ばかり過ぎてしまうのだ。カフェスペースでの勉強以外にも分からないことがあればすぐに聞いて、ついでに悠人と話せるのが嬉しいのだ。どんなに馬鹿にされようと呆れられようと、その時間は共有できる。同じ病院に入院しても、科が違うと絶対に会えない。杉山医師の計らいで勉強時間を長くして貰っても足りないと感じてしまうくらいに、悠人に懐いてしまった。 「マイナス計算くらい覚えろ」 「覚えたつもりなんだ、この間教えてもらったから。でもこの問題おかしいんだよっ!」  言葉が砕けてしまうのは切羽詰まっているから。高校の内容を教えてもらうはずが中学からやり直している現状、一刻の猶予も中西にはなかった。 「二乗の時はプラスになるの忘れてるだろ。しかも大きい数字が前にある場合は単純な掛け算だ。二乗と掛け算がごっちゃになってるぞ」 「…………あ」  xの右上にある数字と前にある数字では意味合いが違うのは理解していても、マイナスが付くだけでパニックになる。もう中西のために常にサイドテーブルに置かれるようになった赤いボールペンを手にして、悠人が少し癖のある字で計算式を分解していった。 「xに-6を代入したとき、x二乗はただの36だ。-6×-6だからな。掛け算でマイナスが偶数個の場合はプラスになって奇数個の場合はマイナスになるのを頭に叩き込め。4xの場合は4×-6だから-24になる。それを……」  どんどんと細い指がすらすらと書き上げていくのがまるで魔法のようだ。言葉はきついが、誰に教わるよりも丁寧で分かりやすい。悠人が導き出した回答は、「こうなるかよ!」と悪態吐いた内容と同じでひたすら感嘆するしかない。 「井ノ上すげー……なんでこんなにできんの?」 「俺からしたらお前の方が凄いよ。どうしてこれで高校生になれたんだ?」  入試問題には必ず出題されている内容なのだろう。後頭部を掻きながら愛想笑いをしてしまう。 「いやー、記名だけで入れちゃいまして……あははは」  もう繕う必要はない。数時間おきに駆け込んでは泣きついている現状で、恥じることなど何もないのだ。みっともない部分を全部晒してしまっている。悠人が紡ぎだす嫌味はむしろ「しっかりしろ」の激励にしか聞こえないのだ。溜息すら耳に心地よいのは確実に頭が浮かれておかしくなっている証拠だ。  ちっとも褒めてくれないし笑顔も見せてはくれない。無表情か眉間に皺を寄せているばかりだが、それでもいい。悠人と話せるというだけで充分だった。  なんせ浮かれまくっているのだ。  今までどう話しかけていいかわからなかったマドンナと、同じ空間にいられるきっかけがあるだけで舞い上がってしまう。勉強しなかった中学時代の俺グッジョブと思うほど。 「開き直ってるな。じゃあこの問題で代入が-23だった場合を出せ」 「え、いきなり二桁? 無理、無理だから」 「無理でもやれ」  悠人の教え方はスパルタだ。一つ聞きに行けばすぐにその場で新しいのを出題され、しかも妙に難易度が高いのだ。書く場所がないからノートを床に置いて、蹲るようにして必死に解いていく。 「えっと、24の二乗は……いくつだ?」 「-23だ、計算しろ」  中西が頭をひねっている間は静かとばかりに、先ほどまで手にしていた本を読み始めた悠人は、すでに答えが頭の中にあるのだろう。その優秀な頭脳がひたすら羨ましい。泣きそうになりながら小学校で教えてもらった掛け算の縦式を書き、必死で数字を導き出す。 「えっと、529でマイナスが二つだから正数になって……それから4×-23だから……」  独り言を言いながらも必死に食らいつく。そうでなければすぐにでも病室から追い出される雰囲気が漂っている。  馬鹿だが体育会系で鍛えられた空気読みはばっちり機能している。少しでも投げ出したなら、もうこの部屋に入る許可は貰えない。看護師に追い出されかねない恐怖と常に隣り合わせだ。 (井ノ上ってストイックだよな……)  馬鹿げた話をするわけでもなく、入院中はひたすら本を読んでいるようだ。しかも毎日読む本が異なっている。病院に図書室はなく、どうやら悠人の家族が毎週のように図書館で大量に借りてきては置いていくらしい。ちらりと見た表紙から分かるのは、ジャンルが滅茶苦茶だということだけ。統一性が全くないのだ。純文学から外国の翻訳もの、歴史小説にライトノベルズと幅が広すぎる。しかもその中には哲学書やビジネス本まであって、どういう基準で借りてきているのかさっぱり読めずにいる。 「こ、これでいい?」  やっと解き終わったノートを悠人に見せる。  計算式をすべてチェックしている間に今読んでいる本のタイトルをしっかりと確認する。  源氏物語だが、現代語訳をしているのは男性という珍しいものだ。  昨日見たときは六巻だったのに、もう七巻の半分まで進んでいる。 (俺、この話嫌いなんだよなぁ)  悠人が面白そうに読んでいたので中西もこっそりと同じものを読んでみた。が、どうも光源氏に共感ができず二巻で挫折した。本当に好きな相手がいるのに色んな女をとっかえひっかえして青春を満喫して問題を起こした上に、不問に付されて要職についているのが理解できない。 (好きな子は一人で充分だろ……羨ましいとかじゃなくて、なんかむかつく)  家柄も顔もよくて女にもてるばかりか頭もいいなんて、そんな非現実的で少女漫画みたいだ。実際女性が書いている小説なのだから少女漫画チックなのは当然なのかもしれないが、自分なら絶対にしない。誰かを好きになったらその人をずっと好きでい続けるような気がする。走り高跳びに嵌まったあの瞬間と同じように。もう飛べなくなっても嫌いにはなれない。もう飛べないからといってあの空に近づいた一瞬の、眩しいばかりの太陽を、青い空を忘れることはできない。雲が大きくなる瞬間も一瞬だけ宙に止まり鳥になったような感覚も、忘れられず引きずってしまっている。もう飛べない足でも夢に見てしまうほど好きなままだ。  自分が光源氏だったら絶対に藤壺の代わりなんか探さない。その人を想ってひたすら好きでいると思う。 「合ってる。じゃあ次は……」  中西の視線がテーブルの上に置かれた本に釘付けなのを見て、悠人は言葉を止めた。 「その本、面白い?」 「……面白いな。フランス文学調なのがいい。それと男の目線で書いてるから説得力が違う」 「そういうもんか。俺さ、叶わない恋だからって代わりでどうこうするのってすげー不誠実に思うんだけど」 「……それは現代の倫理観だ。政略結婚も家同士の繋がりも希薄になっているから言えることだ。もしその時代に産まれたらこれが当たり前だと思う」 「そういうもんかな……。俺は一人の人で充分だ。その人がいれば幸せになるし、他の人なんか目に入らないと思う」 「……中西って……」 「ん、なに?」  じっと見つめられて胸がトキンと跳ねあがった。悠人がこんな風に見つめてくることなんて滅多になくて、まっすぐにこちらを見る強い眼差しに心が騒めいてしまう。こんな風に真正面で悠人の顔を見ることも。男だとちゃんとわかる顔なのに、凄く整っていることに気づく。膨らんだアーモンド形の二重の目もすっと通った鼻筋も僅かに膨れた唇も、一つ一つが綺麗でそれがバランス良く配置されている。女の子特有の甘さはないが、代わりに凛とした雰囲気を纏っている分、綺麗で印象的だ。  雰囲気が自分の中にあるマドンナに似ているから気になって親しくなりたいと思っていたが、ここまで綺麗な人だとは思いもしなかった。  そんな悠人はどんな言葉を続けるのだろう。おやつを前にお座りを命じられた犬のような表情をしながら次の言葉を待った。 「意外と重くてうざいんだな」  今にも涎を垂らさんばかりの顔が一気に青ざめた。  あまりの感想だ。普通は純情だとか一途だとか言われるだろう言葉なのに、悠人は痛いものを見るような眼差しを向けてくる。 「ひどいっ俺の純情を!」 「むしろあの時代にはないから、そんなもの」 「もしかして……井ノ上って光源氏みたいなの好きってこと?」 「……好きとか嫌いとかじゃない。文学として面白いかどうかだ。感情移入する必要はないだろう、物語なんだから」  そう……なのだろうか。中西はどうしても物語の主人公に自分を重ねてしまいがちだ。好きな小説だって、破天荒で無茶ばかりなところが自分と似ているなとどんどんとのめり込み、嫌な大人たちを痛快にやり返すのが楽しくて読み入ってしまったのだ。そして文中にはないが、主人公もきっとマドンナに憧れていたはずだ。綺麗な高嶺の花の存在に他の人の婚約者だと分かっていても魅入らずにはいられなかったはずだ。そのマドンナが嫌な奴と婚約になったことに憤慨してやるせない気持ちのまま郷里に戻るのがまた切ないのだ。 「物語だから感情移入すると思う。自分がその場にいて体験したような気持ちになって……だから身近に感じられるんじゃないかな」  文学としての価値なんて中西には分らない。  主人公が折々に感じる感情に引きずられるように笑ったり泣いたりするのが、中西の小説の読み方だ。 「ふうん、まあそういうやつもいるね」 「井ノ上って読んでるときどんなこと考えてるんだ?」 「別に。こんな生活なのかとか、こういうことで感情は揺れるのかって感じかな」  どこか他人事のようだ。あんなにたくさんの本を読んでいるのに、その中には心に響くものがないのだろうか。恋愛小説も多く読んでいたし冒険ものも多かったように思える。 「ねぇ井ノ上の好きな小説って何?」 「……強いて言うなら『蟹工船』かな」 「え、それどういう話?」 「読んでみればいい。数学が中学の分を全部終わらせたらな」  ぐっと言葉を飲む。まだ二年生の後半までしかいっていない数学に二ヵ月やってやっと一年生が終わりそうな英語という状況だ。しかもこれからもっと難しくなるのは理解している。 「そんな……」 「代入くらいで泣いてるようじゃ先が思いやられるぞ。ほら、自分の部屋に戻れ」  悠人がこうして中西を部屋に戻らせるときは決まってその課題をクリアした時だ。あまり理解がない場合はどこまでも付き合ってくれるが、クリアしたならもう用はないだろうとばかりに追い出される。あまり雑談は好きではないようだ。 (けれど今日はいい話を聞けた。井ノ上の好きな小説か……寝る前に携帯で内容を確認しておこう) 「ありがとう、井ノ上。また夜に頼むな」  夜は一時間だけカフェスペースで英語だ。正直、日本語でも不自由なのに英語なんてわかるわけがない。とにかく単語を覚えろと言われて必死に暗記しているが、それだけでどうにかなるような気がしない。だが悠人に失望されるのも嫌だ。勉強ができないのは本当だが、だからといって投げ出されたくない。ここにいられる時間すべてを使って、少しでも親しくなりたい。素直に従うことで少しでも嫌われるのを避ける。 「今日は過去進行形からだ。ちゃんとテキストを読んでおけ」 「かしこまり!」

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