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5 Let's Studyは前途多難2
「正の数とか負の数とかもう……」
「そこからなんだな」
仕方がない。数学の位置から教えなければならないのかと絶望しながら、少しずつ教えていくことにした。これで国語も教えないといけないのか……あれが一番難しいんだけどと頭を悩ませながら。
二時間かけて正数と負数を教え込み、今日はここまでと区切った。
丁度昼になったから。
片づけをしながら、中西は嬉しそうに悠人を見た。
「また午後に続きをするんだよな!」
こんなに遅々として進まないのに、よくその言葉が出るものだと呆れながらも感心する。
「午後は英語にしようか。二時にここに集合で」
「ありがとう井ノ上! よっし、飯食って体力付けるぞ」
嬉しそうに手を振って去る中西の元気さに感心するしかなかった。
ただ座って教えているだけなのに、こちらが疲労困憊だ。
それから中学の教科書をもとに勉強を教えながら時折問題集を解かすことを繰り返した。どうやら勉強を教えてもらっていると聞いた中西の両親が、中学校の問題集を山のように買い込み、病室に置いていったようで、本人は嬉しいのか悲しいのか複雑な表情をしていたが、スローペースではあっても少しずつ勉強する方法を覚えた中西は、徐々に飲みこみが早くなっていった。
苦手だと言いながらも、勉強に向かう中西の姿勢はいたって真面目そのものだった。教えれば飲みこんでいくし、ケアレスミスは多いが集中力は高く、分からないことがあれば気負うことなく質問してくるうえに、理解したことは忘れないでいる。
悠人はというと、中西が問題を解いている間は本を読み、答え合わせをしながら間違っている場所を教えるだけで済むようになった。
じめじめとした梅雨が明け夏が到来したころには、ようやく中一の数学と英語の教科書を終えることができた。それは想像していたよりもずっと早いペースだった。
「やった、中一卒業だーーーー!」
カフェスペースのいつもの席で最後のまとめとなった問題集を解き終わった中西はそう叫んで周囲の注目を浴びた。
「なに喜んでいるんだよ、まだ中一が終わっただけだろ」
「あ、そうだった。でもこの調子なら今年中に高二になるよな!」
「それはどうかな」
最近、少しずつだが軽口が叩けるようになった。平日は二時間、休日はその倍の時間を勉強に付き合うだけなのに、他の会話はめったにないのに、なぜか悠人も中西への嫌悪感がなくなっていた。ただ新しい項目の概要を伝え、間違った場所の説明を繰り返すだけの時間。それでも元来の明るさと真摯な態度に好感を持ち始めていた。
「うーん、やっぱり平日の勉強時間も増やしたほうが良いのかな?」
「それは自分の病室でやってくれ。僕を巻き込むな」
そうでなくとも、平日はお互いに検査やリハビリがあり、なかなか時間が取れない。
だが不思議なことに入院してから落ちた悠人の体力が少しずつだが戻ってきて、体調も好調してきている。食欲も上がり、三食摂っても足りず、時折売店で追加の食事を購入してしまうほどだ。
担当医の杉山は喜んでいたが、なぜこうなったのか悠人にもわからなかった。
「井ノ上の教え方が上手いからこんなハイペースでできたんだ。頼む、夕食の後とかでいいから教えてくれ!」
「夕食後?」
病院の夕食は早い。そのあとの時間を持て余してしまうのも仕方ないかもしれないが、悠人にすれば夕食以降は大事な読書の時間だ。しかも今、兄が面白半分に借りてきたフランス文学調の源氏物語が面白く、話の筋が解っていても早く続きが読みたくてしょうがないのだ。
「無理だ」
「えーそんなぁ」
哀れっぽい声を出し、中西が縋ってくる。
「そこをなんとか、頼むよ井ノ上。俺にはお前だけなんだよ」
頼むと何度も頭を下げながら机にしがみ付く中西に、当然だが周囲の視線が集まってくる。顔なじみになった常連患者が微笑ましそうにこちらを見て笑っているのに、さすがの悠人もいたたまれなくなる。だが断りたい。これ以上の時間を中西にかける義理がないからだ。
「止めろ、中西」
「でもぉ俺を見捨てないでくれよぉ」
できれば、見捨てたい。
面倒ごとが嫌いな悠人の思いが顔に出たのか、一層中西の表情が怒られたレトリバーに似てくる。
「いいじゃないか、悠人くん。中西くんもこんなに頼み込んでるんだから」
話に割り込んできたのは、二人の様子を遠くから面白く見ていた杉山だった。
「ここのところ体調もよさそうだし、もう少し長い時間付き合ってあげても」
「杉山医師……」
「ですよねですよね! もう少し、一時間でいいから勉強に付き合ってくれよ井ノ上」
「嫌だ。僕だって自分の時間が欲しいんだ」
「でも悠人くんはもう少し体力をつけたほうが良いからね。ここから病室までの行き帰りだっていい運動になっているだろう。もう少し運動量を増やそう。ここにきて、一時間休憩してまた病室に戻る。その間にちょっと中西くんの勉強を見るってことで」
「……断ってもいいですか?」
「主治医としては了承して欲しいな」
にっこりと眼鏡の奥の目を細める。
どうやら中西は杉山のお気に入りになったらしい。どんな話をしているか知らないが、妙に中西といることを推してくる。最初の頃よりは一緒にいるにが嫌ではないが、それでもやはり長時間「他人」といるのは疲れる。
だが、口調は穏やかだが主治医命令だ、断ることができない。
悠人は溜め息を吐いた。
「分かりましたよ。でも一時間以上は無理だから」
「ありがとう、井ノ上。本当に助かる!」
心の中でそっと早く退院しろと思ってしまう悠人だった。
+++
「おい、どういうつもりだ」
嘆息して勉強の続きを教えている悠人と中西が見えない場所まで杉山がやってくるとその腕を掴む者がいた。
「ん、なにがだい?」
「あんな奴のために悠人の貴重な時間を使わせるってどういうつもりだってことだよ」
相手は厳つい体つきに眼光は鋭く顎鬚と、人相の悪いことこの上ない人物だ。だがよく見ればその顔は整っており、どこか幼い印象があるのを髭で隠しているようでもある。年相応に見せないための演出を見破っている杉山は、その相手に微笑みかけた。
「今の悠人くんに必要だと思ったからだよ、お兄さん」
悠人の兄である井ノ上秀人 だ。
「本でも教科書でもなく、身近な同年代の友人はいなかったからね、悠人くんには」
さすがにその言葉に秀人も黙った。小さい頃から入退院を繰り返している悠人に特定の友人はいない。昔、とても幼い頃にはいたが、その面々は病院でだけの付き合いで、半数は退院ののち縁が切れ、残りの半数はすでにこの世にいない。友人がどんどんと旅立っていくのを見送ったせいだろうか、特定の友人を作ることのなかった悠人の久しぶりの友人の存在を応援してやりたいと杉山は思っていた。
実際、中西と悠人の時間が長くなるにつれ、悠人の体調は良くなってきている。
新たな刺激の影響だというのは火を見るよりも明らかだった。
「だからと言って……」
「お兄さん、楽しい思い出があったほうが良いんです、悠人くんには。彼は……あまりにも長くここにいるせいで諦観しすぎてます」
杉山の懸念はそこだった。優等生で、でもいつもどこか諦めている悠人は、体調が悪化したらすぐに生きることを放棄してしまう。まだ16歳なのに。杉山はとても優しい目で柱の陰から二人を見つめた。
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