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5 Let's Studyは前途多難1
面倒な約束をしてしまった。
だが約束をしてしまったら反故にすることはできない。
悠人は病院のカフェスペースの隅のテーブルを陣取りながら、溜め息を吐きたいのをぐっと堪えた。
平日でもこの時間は人は少なく、のんびりとした空気が流れている。見舞客ばかりが利用するせいだろう。その中で、テーブルに教科書を広げたまま、悠人は言葉もなかった。向かいに座っている中西は、今にも消えてしまいそうなほど縮こまっている。
「……この教科書の全部が解らないってどういう意味、なのかな?」
悠人はもう一度中西に訊ねた。数学の教科書は開かれたままだが、どのページも美しいと言っていいほど折り目がなかった。わざわざ買ってきたのかと思うほどだ。
「だから……あの…なにが書いてあるのかが全く分かりません」
「……日本語が書いてあるんだけど」
「それは分かるよっ! でも意味がさっぱり頭に入らないんだ」
「……どのページも?」
「……はい」
さすがにこれには悠人もお手上げだ。まずなにが解らないかもわからないばかりか、意味が頭に入らないというのだ。それでは勉強を教えられるはずもない。
「一年の三学期期末テストの数学は何点だった?」
「えっと……たしか18……だった? いや、19だったかも!」
目の前にいるクラスメイトが某国民的猫型ロボットアニメに登場するメガネ男子に見えてきた。
ありえない。期末テストは比較的点を取りやすいように簡単な計算問題を中心に構成されていたはずだ。一年の総括という意味合いもあり試験範囲は広いが、問題自体は難しくはなかった。一度教科書をめくれば覚えられる公式を主体にしていたのに、赤点を取る人間がいるとは思いも寄らなかった。
だが事実、悠人の目の前にはそれで赤点を取った人間がしょぼんと座っている。
嫌な予感しかしない。
「30点以上取ったのは、どのテストとか覚えてる?」
「えっと……一年の数学は……全部赤点です」
元気が取り柄の中西の声と身体がどんどん小さくなっていく。
「嘘だろ……」
目も当てられないというのはこのことなのだろうか。
もうどう教えていいのか悠人も考えあぐねていた。まさかあの高校の同級生でここまで勉強ができない人間がいるなんて思いもしなかった。同時に、入院していても自分に勉強を教えてくれた兄や医師たちに感謝の気持ちが大きくなる。
「だから退学しそうなんだよ……」
ぼそりと中西の泣きごとが聞こえた。確かにこんな成績なら退学になりかねない。義務教育ならまだしも、一応名の通った進学校だ。私立だから特待生枠もあるが、その特待生が全く勉強ができない人間だとは思いもよらない悠人は、本当に頭を抱えた。
「授業中ノートを取ったりしていただろう?」
「してたけど、黒板に書いてあることを写しただけで先生の話は頭に入ってこなかった」
「……そうか」
本当にダメだ。こんなんじゃ、とてもじゃないが教えられない。
さてどうしようか。
一度引き受けてしまったからにはどうにかしなければと考える悠人と、叱られた犬のような中西の間に沈黙が過ぎていく。
正直、放棄したい。
だがまた病室に来て騒がれては堪らない。なにせ、悠人がいる病棟は内臓疾患患者がメインで、年寄りが多い。そんな中で中西に騒がれたら、ただでさえ病気で気落ちしている老人たちが余計に気を短くして怒鳴り込んでくることだろう。特に心臓に重い病気を抱えた患者ばかりだ。びっくりして死んでしまうかもしれない。
放り出したいのにそれができない悠人は、困り果てていた。
「えっと、スポーツ特待生っていうことは、入試とかは……」
「免除です」
「だよね。中学の成績って聞いていいかな?」
「聞かないで欲しいです……俺部活ばっかりで全然って言っていいほど勉強しなかったから」
まさかの回答に、もう絶望的になる。
「中西、申し訳ないけどこのままじゃ教科書の内容は教えられないよ。理解できるとは思えない。中学からやり直すしかない」
「そんな……」
捨てられた犬のような黒目の多い目でウルウルと見つめられて、悠人は放り出したいのにできなくなる。
そんな目で見るなっ!
自分よりもずっと背が高く逞しい身体をしているのに、表情だけが幼い子供のようだ。まるで大型犬、とくにレトリバーのような顔をされると悠人は見捨てることができなくなる。小さい頃に飼っていた犬を思い出してしまうから。
(やっぱり断ればよかった)
まさかここまでできないとは夢にも思わなかった悠人は深い溜め息を吐いた。
「井ノ上ごめん……」
(だからそれがずるいんだよっ!)
すぐに謝って申し訳なさそうな顔をして。叱ったほうが罪悪感に駆られる仕草をされればそれ以上責めることも怒ることもできない。さらに、それを計算してやっているわけでもないから、天然であざといとしか言いようがない。
「本当に中学生に戻れって話しているわけじゃない。勉強を中学レベルに戻してやらなければ、高校の教科書はなにも理解できないだろう。教科書や参考書とかテストとか取っといてある?」
あるわけないとは思うがと、心の中で付け加えておく。
「多分……粗大ごみ……」
「……だろうね。しょうがない、あそこに行くか……」
悠人は慣れた手つきで車いすを動かしてカフェスペースから移動した。中西も慌ててテーブルの教科書をしまい、後を追う。
向かったのは悠人がよく知っている小児科病棟だ。そこのナースステーションに顔を出せば、見知った看護師が笑顔で声をかけてきた。
「悠人くん久しぶりじゃない、どうしたの?」
「すみません、中一の教科書か参考書を貸してください」
「えっ、でも……」
「僕じゃないですよ。クラスメイトに勉強を教えて欲しいと頼まれてるんです」
悠人の後ろで中西がぺこりと頭を下げる。
「そういうことね。どの教科? 一通りあるけど」
数学と英語の教科書を借り、悠人と中西はまたカフェスペースへと戻っていった。
「井ノ上凄いな、あそこに教科書があるって知ってるんだ」
「……人生の半分以上をあそこで過ごしていたからね。僕もこの教科書で勉強したから……ちょっと古いけど」
懐かしい表紙をじっくりと眺める。
学校に行くこともままならなかった幼少期を思い出す。それでは社会復帰したときに困るだろうと、主治医の杉山がこれを持ってきて、暇な時間に来ては勉強を教えてくれた。始めは分からないことだらけだったが、理解した途端、面白くなりどんどんと問題を解いていったのが懐かしい。悠人が教えられることをどんどん吸収し、小学校高学年の時分ですでに中学の教科書を捲っているのを見て、他の小児科医も面白がって色々教えてくれるようになった。そして、中学最後の入院の時には、高校受験を控える身だったにも拘らず、手にしていたのは大学受験の赤本だったのは内緒だ。
悠人はまず数学の教科書を取り出し、それを中西に見せた。
「この中で解らないところはある?」
パラパラとページをめくるかと思いきや、最初の一ページで困った顔をし始めた。
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