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8 嘲笑に鉄拳3
整形外科ではよくある光景だ。看護師も気に留めず返事をする。
悠人の病室がある階でエレベータを降りると、もう慣れてしまったフロアをいつもより意気込んで歩いていく。
循環器科に入院しているのは年配が多く、整形外科と違ってずっと静かだ。そこで食べ終わったトレイを収納しているコンテナを避けながらナースステーションへと向かった。
「あの、杉山医師はいますか?」
もう顔見知りになっている看護師も多く、中西がフロアにやってきても何も言わなくなったが、悠人ではなく医師を訪ねるのが珍しく皆が注目する。
「杉山医師になんの用?」
悠人の専属看護師となっている市川がすぐに声をかけてきた。少し訝しんでいるだろうがその表情は変わらない笑顔を張り付けている。
「あの、ちょっと話があって……」
「そっか。ちょっと待ってね」
医局に向かい杉山を連れてくる。
「どうしたんだい、僕に用があるなんて珍しいじゃないか。勉強が行き詰ってるのかい?」
「あの……ちょっとここでは、その……」
普段と違い濁った返事に何かを察したのか、いつもの笑顔を貼り付けたまま手招きをしてきた。その後を慣れた松葉杖で追いかける。パソコンや専門の機器がたくさん並んだ部屋へと招き入れ扉を閉めた杉山は、当たり前のようにパソコンの前の椅子に座った。その斜め前にある回転椅子に座るよう促してくる。
「何が訊きたいんだい?」
「あの、井ノ上の病気って悪いんですか? 心臓が悪いって昨日教えてもらったんですけど、どれくらいなんですか?」
「……へえ、悠人くんが。珍しいね、あの子が自分のことを誰かに話すなんて」
「そうなんですか? どこが悪いんだって訊いたら『心臓』だってすぐに教えてくれましたよ」
「中西君は随分と仲良くなったんだね。良かったよ」
「……それで井ノ上ってどれくらい」
「それは守秘義務があるから教えられないよ。当たり前だろう。でもまぁ、君よりは悪いのは確かだね。治すつもりではいるんだけど、気持ちの部分で駄目なんだよなぁ」
苦笑する杉山の目は笑っていなかった。
「それって、杉山医師がそのつもりがないってこと? ひでー」
主治医なのに患者を見捨てるのかとつい非難めいたことが口に吐く。
「こらこら、人聞きが悪いことを言わないでくれよ。僕のじゃないよ。悠人くんの気持ちの問題なんだ……彼がね、あまり生きることに執着がないんだ。もしかしたら明日死んでもいいかもって思ってるんじゃないかな?」
「え……?」
明日死んでもおかしくない病気なのだろうか。そんなそぶりは全くないし、学校にいるころよりは痩せてはいるが、今にも死にそうな顔色ではない。さすがに二月以上も病院にいればなんとなくわかってくる。ベッドに横たわったままレントゲン室に入っていくのや、救急で運ばれた後に病室に来る人々と悠人の顔色は違う。すぐに死ぬということはないだろうというのが分かるくらいには病院という特殊な空間に慣れてきた。
「諦観っていうのかな? 悠人くんはあまりにもここに長くいすぎて、死ぬのがあまりにも身近すぎて、自分もそのうちって考えてるみたいなんだよね。本人に気力がないと治せる病気が治せない時もあるんだ。あ、君のは元通りにするのは無理だから諦めてね」
「そうなんですね……ってなんで循環器科の医師が俺のこと知ってるんですか!」
「そりゃどんな理由で入院したか興味があったからね。さすがにあのレントゲン写真じゃ無理だよ」
傷つきやすい思春期の患者の前で、いともあっさりと残酷なことを言ってくれるこの医師は本当に優しいのだろうか。少なくとも整形外科の医師の方がずっと中西の気持ちを慮った優しい言葉を使ってくれていたはずだ。こんなにズバッと諦めろなんて言いはしなかった。
「杉山医師って無神経って言われたことないですか?」
「えー、ないよ。だって僕は自分の患者は絶対に治すって決めてるからね。だから悠人くんには生きる希望を持って欲しいんだよね……さすがに患者にその気持ちがないと僕だってやれることが限られるからね。どうかな、中西君。君、悠人くんの生きる希望になれるかな?」
眼鏡の奥の目がニヤリと笑い始める。
「生きる希望って……?」
「だって悠人くんは君の『マドンナ』なんだろう? 期待してるんだよ、だから接点増やしてやったじゃないか」
「あれってそういう意味なんですか?」
まさかそんな意図があるとは思わなかった。杉山の言葉の通り、運動不足で筋力を下げないためだけなのだと信じていた。
(大人って怖い……)
同時に杉山が言った意味を自分なりに解釈していく。
「生きる意味って……友達になることとか?」
「どんな形だろうと構わないよ。悠人くんが生きるのが楽しいと思う時間を増やしてやりたいんだ。どうしてもここは大人ばかりの世界だからね……僕たちの前だといい子になり過ぎる。もっと我儘を言ったり病気を呪ったり、藻掻いたりするのが当たり前なのに、悠人くんはそういう足掻きすら諦めてる」
「なんで?」
包帯が何重にも巻かれた自分の膝を見た。
怪我をして中西は初めて当たり前のものを失う恐怖を覚え、苛立って手術が決まる前にベッドの上で大暴れした。もう飛べなくなる、昨日まで当たり前の日常はもう過ごすことができなくなる、恐怖やそれに至った自分の不甲斐なさを何かにぶつけなければ収まらなかった。中学時代に貰ったトロフィーが原形をとどめないほど壁に打ち付け、それでも収まらなくて、ガラスを破ってその向こうに投げてしまう妄想までした。そうしていないと自分を保っていられなかった。
今だって本当は気持ちの切り替えなんかできていない。
見舞いに来た友人たちが笑いながら話しかけてきても、以前と同じような笑みを浮かべることができない。
あんなにも暴れてしまったせいで両親の前でも上手く笑うことができないまま、どこかよそよそしい空気が漂っている。
そう、自分が今怪我のことを忘れて話ができるのは悠人の前だけだ。怪我をしていることを前提に親しくなったせいかもしれないが、学校にいるときの自分を知らないのも大きいかもしれない。だから何も繕わなくて済む。
悠人は何を考えているのだろうか。
「なんでだろうね。ビジョンがないのかもしれない。高校生になるまであまり学校にも行けなかったし、親しい友達も恋人もいないからね」
「え? あんなに勉強できるのに?」
「暇だからってここでしてたんだ。あまりにも覚えが早いもんだから僕や他の医師が面白がって色々教えちゃったんだよね……一年も通い続けられたのは高校だけじゃないかな」
意外だった。今回が初めての入院ではないのは感じていたが、同じ年の彼は人生のほとんどをこの白い空間しか知らないというのか。
「そんな……じゃあ運動会も文化祭も高校までしたことがないってこと? 修学旅行も?」
「そうなるかな。だからね、もっと同じ年の人間と関わらせたいんだ。どんな形でも希望を持って欲しいんだよね。期待しているよ、中西君」
当たり前のように学校に行くことすらしたことがないまま、ここでだけ過ごすというのはどんな感じなのだろうか。
全く想像できないが、それでもこの静寂に満ちた場所でただ静かに過ごすしかない彼に何かしたくなった。空の近さを教えるだけじゃなくて、当たり前のことを当たり前のように知ってほしいと思った。
学校帰りの買い食いや、目的もなく集まって話す、そんな他愛ないことを。
「井ノ上、退院できますよね」
「僕はそう信じてるし、できるようにするつもりでいるよ」
「じゃあ俺、もっと井ノ上に会いに来ますね。だから追い出さないでください! ここの看護師さんちょっと恐いんで」
「それは君の声が大きすぎるからだよ。循環器科は静かに休むのが患者には必要だからね。君、騒がしすぎる。だからカフェスペースに行かせてるんじゃないか」
さりげない嫌味にしか聞こえないのはなぜだろう。
体育会系の常として、どうしても声が大きくなってしまう。声が小さければコーチに叱られるし、自分を鼓舞するのに大声を出し続けることがよくある。なによりも元気が有り余っていて、それが声でしか発散できないせいか、ついついTPOを弁えず大きくなってしまう。
(しかも井ノ上の前だと緊張して一層大きくなるんだよな)
二ヶ月毎日のように一緒にいても緊張が取れないのだ。
そんな自分にこの医師は何を期待しているのだろうか。
眼鏡の向こうのにこやかに細められている目を見つめ真意を読み取ろうとするが、微塵も隙を与えようとしない鉄壁の笑顔は、何を考えているか掴むことも許してはくれない。しかも中西に誰かの心を読み取るだけのスキルもない。
はぁと嘆息した。
「じゃあそれ、俺なりのやり方でやりますよ。杉山医師に言われたからとかじゃないですから」
「分かってるよ。だって悠人くんは君の『マドンナ』だからね」
「もうそれ、言わないでくださいよっ! 井ノ上には絶対に!!」
最初に緊張のあまりに言ってしまったのが敗因だと分かっている。作品の登場人物に実在の人間を当てはめて勝手に憧れるなんて、早々あることではないというのも理解している。隠し事が下手なのも。
不貞腐れた表情になった中西に杉山は笑い、「大声出しちゃだめだよ」とはぐらかしてくる。
(ったく、なんだよあの医師は……)
悠人の病名を訊くことができなかっただけでなく、向こうの要望を押し付けられてしまったことに憤慨しながらも、自分が悠人に向けている感情が認められたような気持が僅かに生じるのはなぜだろうか。
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