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8 嘲笑に鉄拳4

「あれ……俺って井ノ上にどんな感情持ってるんだ?」  ふと気づく。憧れているのは確かだ。悠人という人間を遠目から見ていた時からずっと気になってしょうがなかった。近づいた今、あの頃の気持ちとはなんか違うような気がする。  あまりにもぼんやりとして何がどうと、霞のような、もやもやとしたものを必死で掴むような、言いようのない感情を具現化できずにいる。 「そもそも俺と井ノ上ってどんな関係だっけ?」  ただのクラスメイトで、今は同じ病院に入院して勉強を教えてもらっている。  現段階では、教師と生徒でしかない。同じ年なのに。 「え、そんな俺が井ノ上の生きがいとか無理じゃね?」  あまりにハードルが高すぎる。悠人が中西のことを面倒な奴としか認識していないのを重々理解しているだけに、なぜ自分が杉山にさも「任せろ」と言わんばかりのことを口にしたのか分からない。 「無理だろ……。勉強終わったらそそくさと帰ってくし……」  むしろ目もあまり合わせてもらっていない。  そんな状況で自分は何ができるのだろうか。  とりあえず午前の回診の後の、悠人の厳しい講義を受け、課題をまた山のように出されて病室に戻れば、近頃はあまり顔を出さなくなった部活仲間が数名、中西が戻ってくるのを待っていたのか勝手にベッドに腰かけながら談笑していた。騒がしいだろうが、整形外科は見舞い客が多く、患者も元気が有り余っているので面会時間になれば病室が賑やかしいのが常だ。  普段はめったに顔を出さない部活仲間の来訪に、複雑な気持ちになると同時に疑問を覚えた。 「あれ、お前らどうしているんだ?」  この時間ならまだ学校だろう。しかも運動部に所属していれば、家にいるよりも学校にいる時間の方が長い。面会なんて来られるはずがない。 「今テスト期間だから」 「あ、もうそんな時期?」  カレンダーなんてないせいで、今日が何日かもわからなくなっていた。部活、しかも同じ特待生である面々にとってテストは名前を書けば終わりの退屈なイベントだ。テスト期間中は学校の方針で部活動がないから暇で仕方がない。以前の中西もそう思っていた。どこまでも退屈で無駄な時間だと。けれど他の生徒たちにとっては重要な時間なんだと今ではわかる。その結果で秋から始まる進路希望調査に影響が出る者もいるだろう。学校からの推薦を取るために必死になっている生徒もいるはずだ。そんな中で、競技で成績を取れば大学進学も安泰な特待生たちは彼らが当然のように持つ緊張感とは無縁だった。  テスト期間中に暇だからというだけでここに来たのかと呆れながら、肩にかけたカバンをテーブルに下した。 「何お前、勉強してるのかよ」  中身を勝手に見ては笑いだす。 「当たり前だろ、特待生じゃなくなるんだから」  分かっていて聞くか普通? 「そういやそうだったな。残念だよ中西、お前なら総体でいいところまで行けると思ってたんだけどな」  同じ競技をしていた仲間が残念そうな口ぶりをしながら嗤う。高校総体前に怪我をしたバカとでもいうかのように。同時に自分の順位が一つ繰り上がったことを喜んでいるのだろう。そんな感情が垣間見れるほど露骨に喜んでいるのがかつてのチームメイトだったとようやく気付き、反吐が出そうになる。  まだクラスメイトの方が優しい。  そして、事実を事実のままに受け止めながら変わらない態度でいる悠人の方がずっと自分の心を癒してくれる。 (俺、こんな奴らと一緒にいたのか……)  今すぐにでもここから追い出したい気持ちをぐっと堪える。  怪我人が戻ってきたというのに座る場所を譲ろうという気もないのか、誰一人動こうとしない。 「そういや、さっきお前と井ノ上がいたの見たぞ。あいつに勉強教えてもらってるのか? ある意味スゲーな」 「お前命知らずだな。後からヤクザに高額請求されるんじゃねーの? もう学校辞めて働いた方がいいんじゃねーか」  ゲラゲラと下品な笑いが続く。 「井ノ上はそんなことしないよ。それに学校に来たあの人たちヤクザじゃないし」  そのうちの一人は弁護士ではなくこの病院の医師だ。悠人がなぜ運動ができないのか説明に来ただけだと必死に伝えても、彼らはそんなつまらない情報よりも、元の勝手に独り歩きした面白味のある情報を引きずってそれを事実にしようとする。 「だから違うって!」 「別にいいじゃん。井ノ上がヤクザの身内でもさぁ、俺ら関係ないし。お前がヤクザに借金して退学とかの方がずっとおもしれー」 「そうそう。内臓売られるから退学とか遠洋漁業させられるから退学しとかって話の方がすげーじゃん」 「どうせお前もう飛べないんだろ」  あぁ、そういうことか。  競技の成績がそのまま彼らのヒエラルキーになっているのだ。今まで中西と仲良くしていたのは全国でも上位の成績だったから。いつか有名になる可能性があったからその友人で居続けただけ。走ることすらできなくなった今は普通の生徒以下、ということなのだろう。人間扱いしなくてもよく、学校に戻ってもこのままいじめに近いからかいを続けようという意図が見て取れる。  自分の中にある不安を少しでも紛らわせるために。  中西はそんな彼らをじっと見つめた。 「もしかして、総体に出られないくらいスランプなのか、お前ら」 「なっ……なに言ってんだよ!」 「だからその鬱憤を俺で晴らそうとしてるのか? ちいせーなー。誰かの悪口言っても成績が伸びるわけないだろ。ここで管巻く余裕があるなら走り込んで来いよ。少しでも記録伸ばす努力してろよ」  意外にも冷静な声が出ていた。彼らが自分を蔑んでいるのと同じように、中西も彼らを蔑んでいるのだと理解した。今までこんな感情になったことはなかった。高く飛べる相手がいても、自分よりもずっと空に近づいているのがひたすら羨ましくて、蹴落とそうというよりは自分ももっと空に近づきたいと願いそれに向かって頑張っていた。一センチでも一ミリでも高く、空に近づきたい。ただそのためだけに打ち込んできた。  彼らは違う。  だから煮詰まるのだろう。その鬱憤の発散先として選んだのが、もう飛べなくなった中西なのだろう。  可哀相と思うよりも哀れだと蔑んでしまう。  中西の雰囲気が変わったのを感じたのだろう、彼らの表情が変わった。 「なんだよ、もう飛べなくなった奴が偉そうに言ってんじゃねーよ。お前なんかどうせ退学だろ、中卒で働けるところを探した方がいいんじゃねーのか?」 「学校の奴らには俺達が言ってやるよ。井ノ上の身内に内臓売られるために学校辞めたってさ。そしたらもう来られねーだろ」 「来てもどうせ勉強なんかできないんだから意味ねーしな」  無理矢理に笑おうとしてどんどんと内容が露骨になっていく。 「お前らさ、それで楽しいわけ? もうすぐ県大会だろ。もしかしてそれすらヤバイのか? 誰かを馬鹿にしたって成績は上がんねーよ。誰かを堕としても、お前ら自身がそのままだったら変わんねーよ。部活、辞めたら?」 「ノリわりーな、空気読めよっ!」 「悪くていい。お前らみたいな最低な人間になりたくない」 「最低って何だよ、せっかく見舞いに来てやってるのに」 「来なくて良いよ。そんな話聞くくらいならお前らの顔なんか見たくない」  酷いことを言っている自覚はある。 高校に入ってからずっと一緒に切磋琢磨してきた仲間であっても、超えてはいけない一線がある。しかも誰かを貶めて嗤うなど、中西にはできないし、悠人のことなら尚更だ。 (井ノ上のことを馬鹿にするなんて、ぜってー許せねぇ)  こんなにも誰かに怒りを覚えたことはない。  自分のことを好き勝手いうのはどうでも良い。零落した選手を哀憫する連中でないのは充分理解した。だが、関わったこともない悠人を貶めるのは許さない。  いつも飄々としている中西の怒気に圧されたのか、面々が苦々しい表情に変わる。ちょっとした言葉遊びのつもりだったのだろうし、中西をおちょくるつもりもあったのだろう。なによりも、行き場のない苛立ちをぶつけるのに格好な相手に返り討ちにされたのが悔しいらしく、よりムキになって騒ぎ始める。  聞くに堪えない言葉の数々をこれでもかと並べ始める。 「……おまえらさ、それ言ってて恥ずかしくないわけ?」 「なんだよ。別にお前にゃカンケーねーだろ」 「名誉毀損で訴えられるレベルの言葉だと思うけど」  騒がしいのが当たり前の整形外科病棟の若い人間ばかりを押し込んだ病室に、凜とした声が響いた。 「井ノ上……」  車椅子に乗った悠人の後ろには、いつもにこやかな表情を崩さない杉山までが立っている。 「医師、ヤクザって言われてますよ。どうしますか?」 「うーん、ひどく心外だなぁ。反社会的組織に属した記憶もないし、誰かを脅したこともないのに、ひどい言われようだねぇ。いくらスポーツ推薦とはいえ母校の後輩がこんなレベルじゃOBとして黙ってはいられないね」  眼鏡の奥にあるいつも眦を下げてばかりの目が、心なしか吊り上がっている。いつになく不穏な雰囲気だ。 (俺のことめっちゃ脅してたよな、この間……)  悠人に生きる希望を持たせろと脅しておいて善人面で虫も殺さないと言わんばかりの態度が取れるのか。 (大人って怖い……)

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